『人間』のあるべき姿

 みづほの続きを、明かすとしよう。伝染に見舞われ、怪異を発現した少女のその後に触れてみることとしよう。彼女がどう変わったのか、それとも変わらずにいるのか。


(いつもご馳走にばかりなってるから、たまには差し入れでもしようかな……)

 そう思い立ち、夏休みが始まって間もない昼下がり、彼女は繁華街へと繰り出した。夏休みだというのに律義に制服を着込み、学校指定の鞄を提げる。学校のある期間にこんな格好で繁華街をうろついていれば補導もされるけれど、今ならばその心配はない。そういえば、初めて真知に声をかけられたときもこんな風だった。

『不良少女』

 彼の言葉が脳裏で反響する。あれが全ての始まりだった。あの瞬間から、彼女は怪異譚の世界と関わりを持ち、そしてそれは今でも続いている。

 奇妙で、不可思議で、常識の範疇では語り切れない世界に片足を踏み入れている。何かが変わったのかと聞かれれば、うまく言葉にはできないけれど確かに変わったのだろう。不屈の闘志だとか、逆境に立ち向かう覚悟だとか、それほど高尚なものではない。誰もが持っていて当たり前で、それでも、誰かにとっては永遠に手に入れることのできない何か――。

 自分の弱さを自覚すること。自分がみすぼらしく、借り物の力に陶酔してしまうような卑屈な性格の持ち主で、誰かをあっさりと傷付けてしまう人間であることを自覚した。

 みづほが遭遇した怪異譚は、突き詰めればそれだけのものだった。変わったことといえば、自分が矮小な人間であることを知れたことだけ。彼女を取り巻く人々、彼女の生きる世界は何一つとして変わりはしなかった。道宮達は相変わらず陰惨ないじめを続けている。みづほはいじめを告発しようとはせず、ただ、目を逸らしているだけだ。

 美玖は言った。

「みづほが、みづほの日常に戻るまでを手助けする」と。

 だから、これが、このどうしようもない日々が、みづほにとっての日常なのだ。そこから脱却するためには彼女自身が行動しなければいけない。誰かに助けてもらうことを期待するのではなく、誰かが助けてくれることを待つのではなく、自分一人で道宮達に立ち向かわなければいけない。私をいじめるなんてばかげたことはやめろと、言わなければならない。

 けれど、彼女はそうしようとはしない。弱さを自覚して、同時に自分の強さも自覚したはずなのに虐げられるままに任せている。

「なぁ、どうしてなんだ?」

 クリームソーダを音を立てて啜りながら、髑髏のパーカーを被った女性、無明が紋切り型に尋ねる。無明の対面に座ったみづほは指先でストローを弾き、

「どうしてだろうね」と他人事のように返した。

 みづほと無明が街中で出くわした時は、つい三十分程前へと遡る。



 今朝、真知は部屋から出て来なかった。美玖が言うには、体調が優れないらしい。

「真知のことは心配だけど、ゆり子に呼ばれているから出かけなくちゃいけないの。ねぇ、無明。悪いけど、真知を診ていてもらってもいい?」

 いいぜと答えたことは別として、怪異が風邪なんてひくはずがない。怪異化の憂き目に遭っていることは、傍から見ても明らかだった。看病など、御門違いもいいところだ。できることなどあるはずもなく、看病の真似事で「何か食べたいものでもあるか」と訊いてみれば「冷たいものが欲しいかな……」と返ってきた。

「じゃあ、アイスでも買ってきてやるから、おとなしく寝てろよ」

 こうした経緯で無明は街に出てきた。最寄りのコンビニには寄らずに繁華街まで出てきたことは単なる気紛れだったが、彼女はそこで見慣れた制服の集団を目にした。それもそのはず、瑠璃色を基調とした制服は、彼女がつい最近まで動向を追っていた人物が在籍する学校のものだったから。雨宮みづほ。怪異伝染の被害者である少女だ。

 制服の集団は四人。高圧的な態度を隔そうともせず、世界は自分達を中心に回っているのだと言わんばかりに周囲の目を憚らない三人と、彼女達に囲まれた一人の少女。

 周囲の三人に比べて僅かに背の低い少女の姿はよく見えなかったが、彼女達は人気の寂しい路地裏へと入っていく。中心の少女が、その行為に同意しているとは思えない。

(おいおい、集団暴力か。物騒だなぁ)

 吐き捨てるように無明は思い、

(でもまあ、俺には関係ないか。見知らぬ少女よ、ご愁傷様)

 あっさりとその場を通り過ぎることにした。ただ、好奇心が勝り、通り過ぎる一瞬に裏路地の様子を窺い、彼女は足を止めた。罵詈雑言を浴びせられている少女は雨宮みづほだった。

「あんたさ、最近調子に乗りすぎじゃない」

「うちらのこと無視したり、妙にかまととぶっちゃってさ」

「涼しい顔してるのがホントむかつくんだよね。前みたいに嫌がるくらいすれば」

 向こうからは気付かれないように看板の裏に隠れ、古典的ないじめだと呆れながら、アイツはどう出るのだろうと無明は静観を決め込む。美玖と真知という、対怪異の専門家の助力があったとはいえ、みづほは怪異の誘惑を振り切って生還した少女だ。怪異を乗り越えた人間がどのように変わるのか、どのように強くなったのか興味があった。オリジナルを忘れ、他人を模倣し続けてきた彼女にとって、それは至上の美酒となり得るのだから。

 だが、無明の期待に反して、みづほには何も見られなかった。沈黙。彼女の行動はそれだけだ。嫌がる素振りも見せず、反論することも逃げ出すこともなく、沈黙を貫くだけだった。

(つまらねえの)

 関心は薄れ、その場から離れようとして、ふと、みづほの影が目に留まる。

 影。太陽を遮ることによって大地に落ちる闇。そのようなありふれたものが、無明の興味を再発させる。怪異売買の仲介人としての心を釘付けにした。

「よう、そこで何やってんだ」

 言葉と同時に、無明は姿を見せる。

「いけないなあ、いじめは。お姉さん、ちょっと感心しないなあ」

 道宮、佐藤、鈴音に留まらず、みづほまでもが呆気に取られたように黙り込む。

 顔見知りのはずのみづほでさえ無明には気付かない。当然だ、貌は変えてある。

一対一タイマンの喧嘩なら青春のあっつい一ページってことで見逃せたんだけど、徒党を組まないと女の子一人もいじめられないような腰抜けはさ、ちょっとダサくない?」

 乱入者に驚いていたのも束の間、道宮は目付きを鋭くすると無明に反駁する。

「何だよ、ババアには関係ねえだろ」

「関係ないねえ。君が、二十……五かな、七は多分ない。うーん、前半ではないけど。まぁ、年齢不詳のお姉さんをババア呼ばわりしようが関係ないよ。関係ない、だからさ」

 そこで、無明の姿は道宮の視界から掻き消えた。

「名前も知らない。顔見知りでもない。全くの無関係の君を殴っても問題ないよね」

 どうしてか、自分の隣で声が聞こえた。あり得ない、そんなはずがないと思う。詰め寄られた感覚はどこにもなかった。足取りさえも見えず、それなのに、自分の真横で『ババア』が拳を振りかざしていた。

 引き攣った叫びを漏らし、道宮は腰をぬかす。それほどまでに無明の放つ殺気は鮮烈で、飾り気もないほどに本気で、嬲りがいのある弱者を見つけたときの獣に似ていたのだ。

 へたり込んだ道宮の頭上を拳が通り過ぎ、直後、下腹部に衝撃が走る。

「ざんねん、こっちが本命」

 自分の腹に減り込んだ足を僅かに視認して、道宮はアスファルトの上を三メートルも蹴り飛ばされた。内臓が痛めつけられた酩酊感、喉を駆け上ってくる胃液の酸味、恐怖に鷲掴みにされた思考。立ち上がることなどできず、道宮は蹲ったままで吐息を散らす。

「憶えておきな、お嬢ちゃん。体に刻み込んで忘れるな。それが他人に虐げられる感覚だ。どうだ、辛いだろ。辛いっていうか、訳分かんないだろ。吐きそうなくらい意味不明で、どうして自分がこんな目に遭っているのか不思議で堪らなくて、意味朦朧で、神様でも恨まないとやってられないくらい絶望的で、そんで……っちゃうくらい気持ちいいだろ」

 捲し立てられた言葉は半分も理解できなかった。薄れていく視界の中で道宮は無明を見上げ、恐怖と絶望に襲われながら、本物の悪意とは何たるかを理解した。自分がみづほにしてきたことがどれだけ薄っぺらく、幼稚で、悪意とも呼べないほど浅はかなのか理解した。

「さてと」

 無明は佐藤と鈴音を振り返る。二人は完全に震え上がり、へたり込み、涙ぐんでいた。

「押し潰される前のハムスターじゃないんだからよ。自分達のボスがやられたんだ。歯向かって来るくらいの気概は見せなよ」

 二人を嘲笑いながら無明は屈み、二人の頬をぺちぺちと叩く。

「聞こえてまちゅかー、理解できてまちゅかー、これから殴られるんでちゅよー」

「や……やめて……ください」

 奥歯をガタガタといわし、佐藤が懇願する。

「許してください。もう……しませんから」

 無明の圧に堪え切れず、下着を濡らしながら鈴音が謝る。

 無明はしばらく考え込み、立ち上がり「反省したならいいか」と呟き、安堵を浮かべた二人に対して蹴りを入れた。くぐもった悲鳴がリズミカルに連鎖する。

「希望をちらつかされてから絶望に叩き込まれた人間って、超絶いい表情かおをするよなぁ。お前もそう思うだろ?」

 無明は艶やかな笑みとともにみづほを振り返る。彼女を『無明』だと認識できていないみづほはぎこちなく視線を彷徨わせ、路傍に倒れ伏した三人の姿を認めた。それはいっそのこと失笑を誘うまでに無様な光景だった。

「ほら行くぞ。あんまり長居をすると面倒なことになる」

 みづほの手を取り、無明は歩き出す。

「待って、あなた、誰なの」

 引きずられながらみづほが叫んだ。

「何だ、気付いてなかったのか。俺だよ俺、お前の母親だよ」

 冗談を飛ばしてから振り向いた女の貌は、直前とは異なり、みづほの母親になっていた。

「無明――……」

「気付いてると思ってたんだけどな。さすが、変幻自在は伊達じゃないか」

「どうしてあんなことしたの」

「誰かを助けることに理由がいるのかよ」

「嘘よ、あなたはそんな人間じゃない」

「悲しいねえ、俺の評価ってそんなに低いんだ。間違っちゃあいねえけど」

「だから、どうして。私はあの時――」

「奴等を怪異でぶん殴ってやるつもりだったのに、か?」

 みづほが立ち止まったことで無明も足を止める。

「助けてやった礼代わりに話を聞かせろよ。金なら臨時収入があったからよ」

 道宮から抜き取った財布をちらつかせる無明の貌は、またもや変わっていた。



 クリームソーダを嬉々として飲み始めた無明を横目に、みづほもアイスコーヒーを引き寄せる。けれど口を付ける気分にはなれず、指先でストローを弾く。

「案外、子供っぽいのね」

「これのこと?」

「大きくなると、それってやっぱり、子供の飲み物って感じがしない?」

「好きなものを我慢してまで体裁を取り繕うなんて生き方は好きじゃない。人間はさ、いろいろと気を使いすぎなんだよ。見栄なんて張らず、もっと本能に従って生きる方がいい」

「それがままならないのが大人とか、人間の社会なんじゃないの?」

「それなら俺は御免だ。人間にはならなくていい。怪異崩れの獣として生きていくさ」

 無明はどこか自虐的に、されど朗らかな笑みを浮かべた。

 人間社会のしがらみをあっさりと切り捨てられる姿に、少しだけ羨望を抱く。

「……どうして分かったの?」

「怪異のことか?」

「うん。美玖と真知でさえ気付いていなかったのに」

「全く気付いていなかったわけじゃないだろ。連中は専門家を自称できるほどには怪異について詳しいし、根深い。言葉に出さず、それとなく接していただけと考える方が妥当だろうさ。そもそも怪異との縁が根っこまで切れていたら、お前が和宮真知を視認できているはずがない。声を聞けているはずがない。触れられるはずがない。怪異はそんな簡単にできていないんだ」

「でも、それだけなら足りないわ。現に私は、怪異を発現する前から真知と知り合ったわ」

「あぁ。だから、俺が確信した理由は別にある」

 無明は手を差し出す。握手を求めるような挙動に戸惑いながら、みづほも手を掲げる。

「影をよく見てみな」

 無明が何を意図していたのか理解する。テーブルの直上に設えられた照明に向け、腕を翳したのだ。淡いオレンジ色の照明を遮り、テーブルの上に二人分の影が落ちる。

「よく見比べてみな」

 無明の影と、みづほの影。そこに違いなど見当たらない。

「何も変わらない。俺とお前で何の違いもない。それが問題なんだよ」

 意味ありげに呟き、無明はわざとお冷の入ったグラスを倒した。

「すいません。倒しちゃったのですが、拭くものをもらえませんか」

 飄々と店員を呼び止める。

「よく見てろよ」

 布巾を持ってきた店員がテーブルを拭くのを手伝うふりをして、無明は照明を遮った。無明の影と、店員の影が並ぶ。交わる。怪異の影と、人間の影が重ねられる。

 そこには明確な違いがあった。あるはずのない現象があった。

「気付いたか?」

 店員が去った後に、無明は訊ねる。逸る胸を押さえ、みづほは確かめるように頷く。

「影の濃さが違った」

 同じ照明に翳され、同じように落ちた影だというのに、無明と店員では影の濃さが違った。

 薄かった。薄く、透けていた。

「怪異を宿した人間には、現実に於いても何かしらの異常が現れる。それは姿を視認しづらかったり、他人に記憶されにくかったり、鏡に映らなかったり、影が薄くなったり。だから、俺と影の濃さが同じだという事実は、それそのものが怪異を宿していることを示唆するんだ」

 まだ説明がいるかと聞かれ、みづほは首を振る。僅かに目を伏せ、彼女は明かす。

「うん。その通り、私は怪異を宿してる」

「いつからだ?」

「初めて怪異を発現して、美玖と真知に助けられてからすぐに」

「妥当といえば妥当か。一度でも怪異と関わりをもつと、また引かれやすくなるからな。世界の表側と裏側、その狭間に足を突っ込んだなら、そうそう簡単には脱け出せない」

「どういうこと?」

「望んでしまうんだよ、意識するとかしないとか関わらずに。或いは単に怖れるか。とにかく怪異の実在を知っていて、怪異のことを考えてしまう限り、片足はずっと沼の中だ」

 記憶を消されれば別なのかもしれない。日常に戻れるのかもしれない。

「風邪をひいたときに病院に行くと、他の病気ももらいやすくなるって感じ?」

「随分と人間らしい喩えだが、間違っちゃいない」

 苦笑交じりに一拍置き、彼女は背もたれに倒れ込むとみづほを見据えた。

「怪異譚の名前は?」

 それには答えず、みづほは無造作にグラスを掴むと床に落とした。静まり返った店内に破砕音が響き、それに誰かが気付くよりも先に、彼女の前には割れたはずのグラスが元の状態で置かれていた。戻っていた。時が巻き戻ったのとは僅かに異なり、そう、それは。

「因果の逆転。いや、否定か」

「事実の改竄、事象の否定。いくらでも呼び方はあるけど、私はただ、こう命じればいいの。怪異にこう告げればいいの。『私はそれを認めない』と、そしたら、無かったことになる」

「それじゃあ、俺からの質問だ。お前はそんなに便利な怪異を手にしておきながらどうして使おうとしないんだ。お前にとって都合のいいように、お前にとって優しくあるように、今すぐに世界を修正できるというのに、どうして奴等に虐げられるままに任せているのか、俺にはどうにも理解できない。なぁ、どうしてなんだ?」

 怪異に振り回され、怪異を従え、怪異を存分に悪用してきた彼女には理解できない。人智を超越した力を手にしておきながら、不条理を甘受し続けるみづほが異質に見える。

「どうしてだろうね」

 みづほは他人事のように嘯く。

「いつでも修正できるから、先送りにしているのかもね」

「違うね。不条理を打破する手段があるのにしないなんて、人間として破綻している」

「人間として破綻しているからこそ、怪異なんてものを発現したのでしょう?」

「それは言葉遊びだ。俺が聞きたいのはそんな言葉じゃない」

「私こそ理解できないな。どうしてそんなに、怪異を使おうと躍起になるのか」

 みづほは淡々と言葉を紡ぐ。

「怪異は存在しないのが当たり前。頼れないのが当たり前。宿したところで、そちら側に足を踏み入れたところで、これまで通りに生きたいと願うことのどこがおかしいの?」

 自分と似たような境遇の人間はごまんといる。この世界の中で、自分だけが不幸だとは思えない。怪異を発現する人間など稀で、普通の人は普通に苦しみながら生きている。抱えた不条理、ままならない境遇を自分の力だけで打破しようともがいている。

「私からすれば、躊躇いもなく怪異を行使するあなた達の方が異質よ。人間として破綻している。人智を超越した力なんて、普通は忌避するものでしょう?」

 例えば、道宮にいじめられている自分を『否定』したとして、どう変わるのか。いじめられているという境遇が消えるのか、道宮が消えるのか、或いは自分自身が消えるのか。怪異とは所詮、行使するまで結果の分からない博打でしかない。望まない形へと転落することの方が多く、そういったことを考慮すれば、使わないことを選択する方が利口だ。

「だが――……」

 無明は何かを言おうとして、反論が見つからないのか口を噤んだ。

「怪異が魅力的なことは私も自覚している。抗い難い誘惑を秘めていることも。でも、怪異に振り回されるなんて嫌だ。怪異に縋るなんて私は嫌だ。私は、私のままで生きていたい」

 図らずも怪異そのものから、和宮真知から、彼女はそう教えられた。

「お前は――……俺等を否定するのか?」

「そう見える?」

「だってそうだろう!」

 叫びとともに上げられた無明の貌は、廉恥の色に染まっていた。野卑な感情でぐしゃぐしゃになり、今にも張り裂けてしまいそうだった。

「俺は好き勝手に生きてきた! 俺を傷付けた世界なんて知らない、俺を見捨てた人間なんて知らない! 他人を傷付けることも構わず、世の中を引っ掻き回してきた!」

「…………後悔してるの?」

「違う! 違う……はずだ。俺は後悔なんて――……」

 そこで無明は項垂れ、彼女の全身は微かに震え始めた。落涙が頬を伝い、赤くなることも気にせず、彼女は目を擦る。騒ぎに気付いた店内の人の視線も厭わず、彼女は咽び泣く。

「違う。違う。そんなはずがない」

 言い聞かせるように、本心を欺くように無明は繰り返す。だが、傍目から見ても明らかだった。怪異など介在しない『普通の幸せ』を彼女が望んでいることは。

 いくつかの存在したかもしれない未来。掴めたはずの幸せ。純粋な人間としての生き方。

 それを甘受する資格はとうに失われていた。怪異を忌避せず、受け入れた時点で。

 怪異が人間を歪める異端であることに、気付けなかった時点で。

「羨ましいな。あぁ、ちくしょう、羨ましい。みづほ、俺はお前が眩しい」

「そう?」

 さしたる関心は見せず、みづほはアイスコーヒーを啜る。

「私こそ、あなた達が羨ましいのにな」

 ぽつりと呟かれた言葉は誰の耳にも届かず、悲痛な沈黙だけが二人を支配していた。



「内緒にしていてくれよ。その……さっきのこと」

 恥ずかしいのか表情を強張らせ、無明はそっと切り出した。赤く腫れ上がった目は『直される』こともなく、彼女の感情の証として残されていた。

「恥ずかしいんだ」

「あぁ、そうだよ。柄じゃないだろ?」

「いいよ。その代わり、私の怪異のことも内緒だからね」

「あぁ、分かったよ」

 遠くに見える山の稜線へと、巨大な火の玉が沈もうとしている。西の空からの残光が二人を照らし、背後からは藍色の闇が、怪異の好む『裏側』がそろそろと忍び寄る。無明の左手にはコンビニのレジ袋が握られ、道路アスファルトに残った熱がアイスクリームを溶かしていく。

 喫茶店が見えてきて、無明はようやく瞼に手をあてがった。そうして除けられた手の下では何もかもがなかったことにされていて、鮮やかな血色だけを垣間見ることができた。

「ただいま」「おじゃまします」

 口々に唱えて扉を開ける。けれど「いらっしゃい」といつも迎えてくれた声は聞こえず、代わりに、蛇のように真っ赤な瞳が向けられた。その眼光さえも常時の妖艶さを失い、どこか澱んだ感情に塗りたくられていた。一目で分かる異常に、背筋が冷たくなる。

「真知はどこに行ったの」「アイツはまだ寝てるのか」

 またもや二人の言葉が交錯して、ばらばらの訊ね、それだけで全てが察された。

 空白を挟んで美玖の貌が歪み、くしゃりと潰れ、紅潮した。みづほが駆け寄って抱き締めるよりも先に彼女は張り裂け、涙が散りばめられた。

「真知が……真知がいないの! いなくなっちゃったの……!」

 泣きじゃくる彼女からは『怪異殺し』と恐れられた姿は見て取れず、ただ、親とはぐれた迷子のように脆弱に感じられた。自分一人では何もできない、子供のように。

 みづほの手が背中を撫でる。慰めてくれる人がいることは嬉しくとも、それがみづほであることが許せない。それが真知の手ではないことが狂おしいほどに我慢できない。

 目を瞑る。睫毛に押されて涙が弾け飛び、その一粒に、美玖の理性は攫われる。

「捨てられたと思ったのか?」

 すすり泣く美玖に無明の言葉が刺さる。非難の眼差しを受け止め、彼女は繰り返す。

「大事なことだ。心をどう認めるのか、事実をどう捉えるのか。目を背けて泣いていれば解決するようには思えない。触れずにいては、何も変わらないだろ」

 沈黙とともに美玖は首を振るい、遅れて「違う」と言葉が伴う。

「真知は……思考螺旋を行使するつもりよ。恐らく――……この街の全ての人間に。前にも似たようなことがあったの。私が失敗して、死にそうになって、それでも事件は解決しなくて、真知が思考螺旋を振るった。人間性を残している怪異にとって思考螺旋は有無を言わせないほどに驚異的で、効果がある。等価交換が及ばなかった相手でさえあっさりと陥落したわ」

「そんなことをすれば、アイツの理性を繋ぎ止めている糸は切れかけるだろ」

「真知は目に見えて衰弱したわ。もう二度と、戻って来れないと錯覚するくらいに……」

「結果的には大丈夫だったんだろう?」

「だけど! 今回もそうだとは限らない! 今度こそ自我を喪失するかもしれない!」

 自我を喪失して、怪異を制御できず、害悪を撒き散らすだけの異端に成り果てるかもしれない。そうなったら殺さなくてはならなくなる。排除しなくてはならなくなる。これまで、真知と二人でそうしてきたように――……愛しい人に殺意を向けねばならなくなる。

「私がいたら絶対に止められた。だから、真知はいなくなったの」

 伝染を食い止めるため。美玖を危ない目に遭わせないために、彼はたった一人で挑むことにした。自分が崩壊する危険性など顧みず、美玖のために天秤からかけ外して――

 和宮真知なら、間違いなくそうするだろう。

「だったら、やるべきことはひとつじゃない」

 みづほの声が響く。

「真知よりも先に伝染を収束させる。それしか、できることはないでしょ? 項垂れている暇なんてない。嘆いているだけなんてあなたらしくない。私は真知に助けてもらった。あなたもきっと、何度となく真知に助けてもらってる。それなら、今度はこっちの番でしょう?」

「まぁ、それしかないだろうよ。街全体に怪異を適用するなんて大掛かりなことが即座に実行できるとは思えない。それなりに時間がかかるだろう。その間に事件が解決すればいい」

 美玖の手を取り、みづほは凛と続ける。

「助けよう、私達で」

 みづほの宣言に無明が頷き、みづほの言葉に美玖が応える。

 世界を救うためではない。面識のない誰かを助けるためではない。清廉な善心では動かない。

 ただ、愛しい人を守るために。偏執を掲げ、伝染を終わらせよう。

 たとえ怪異を引っ提げていたとしても、それこそが『人間』のあるべき姿だ。

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