悪い報せ

「遅かったじゃない」

「ちょっと、ひと悶着あってね」

 先に行った割に、美玖と聰明は液槽の底で待っていた。

 本来ならば原油の収蔵を果たすのであろう液槽の中には何も溜められておらず、金属の壁で囲まれただけの空間が広がる。明かりは当然のことながら存在しない。頭上に存在する、飛び降りてきたばかりの穴が唯一の光源となるが、それでは到底頼りない。前後左右、天地奥行き、方向どころか空間把握さえも困難な状況に於いて、聰明は「こちらだ」と静かに断りを入れると軽快な足取りで歩き出した。彼の目にはこの暗闇が真昼のように映っているのか、はたまた瞑目していても歩けるほどに通い詰めてきただけなのか。されど、信仰者を名乗る狂信者はにべもなく答えるだろう。神の前では、暗がりなど何の障害にもなり得ないと。

「諸君は、神とはどのようなものだと定義するかね? 全知全能、万物の創始者、信仰の対象と表してもよい。諸君等が抱く『神』とは如何様なものか。別に答える必要はない。神についていくら問答を重ねたところで、小生と諸君が等しい境地に至れるはずもなく、そのようなことが簡単に成し遂げられてしまうほど信仰とは軽くない。ただ、諸君等の胸中でのみ自問して自答してくれたまえ。神とは如何様にして神になり得たのか」

 弄舌を重ねながら聰明は暗がりの奥へ奥へと向かう。彼が神域と呼称したこの場所には、神を祀るための祭壇もなければ、信仰の寄る辺となる偶像も存在しない。ここは船の一角に過ぎない。分厚い鋼に囲まれた、無粋なまでの部屋でしかない。

「小生にとっての神とは、すなわち奉献を受けるものだ。それは創造されるものだ。神話の神々はすでに翼を休めておられる。現在の世界を統治為される神とは、人間こそを根源とする偽物Fakeだ。されど偽譚ぎたんも信仰を受ければ真実となる。信仰によって、狂信によって、人間によって神へと召し上げられる。初めに神があったわけではない。小生があって神があり、神がその存在を確定されたときに因果関係は逆転して、神の御業の前に小生があるようになった」

「つまり、あなたは神を否定するの?」

「事実から目を背けてはならない。小生の神は創造物であり、想像物である。これは覆しようのない事実だ。されど、すでに神が小生を支配していることも変わらぬ事実だ」

 一人相撲。秋槻聰明の信仰は『ごっこ遊び』に等しい。誰にだって憶えのあることだろう。幼い頃、自分の隣には想像された人間イマジナリーフレンドが存在した。その人間を忘れることは疎か、捨てることもなく、離れることもなく、隣人という枠組みから神にまで昇華させたのが彼だ。

「小生は今でも神を創造することに全霊を捧げている。その結果が、これだ」

 あたかも不可視の境界線が引かれていたかのように、その一歩を踏み込ませた瞬間、無機質な金属の部屋は豹変した。光、臭い、音、五感に訴える情報量は瞬くうちに膨れ上がり、美玖の背筋をぞわぞわと掻き撫でる。暗闇は陽の光さえも霞むほどの白光に押しやられ、鮮烈なまでの血の香り、肉が腐敗したような汚臭が鼻を穿つ。そこには巨大な肉塊が存在していた。

 変哲のない船の一角を瞬時にして異質なものへと歪める原因物、それこそこの場所、この空間を神域へと押し上げてしまうほどの『人間離れした生物』が鼓動を刻んでいた。

「見テクレタカネ? 小生ノ姿ヲ」

 ギチ、ギチ、ギリと歪な挙動で、先頭に立った聰明の首が回る。それを今まで人間だと認識していたことが不思議に思えるほど、振り返った聰明の貌は、顔面は人間から乖離していた。目玉は白濁したガラス玉で、顔面は起伏のない一枚の板、艶やかさのあった銀髪はセラミックの糸。そこに存在するものはただの人形でしかなかった。

 人形の向こう、生物に目を注ぐ。正直なところ、それを生物と呼称してよいのかどうか、生物として認識してもよいのか推し量ることはできない。ただ、それが脈動していること。動いていること。それを生物だと見做す理由はそれだけで、そこに生物らしさは一切存在しない。

 人間の肉を無造作に抉り取り、断面同士を無秩序に結合させることを何十、何百の人間で繰り返すことでできた物体。その生物の外見はそういうものだった。目玉が、口が、腕が、性器が、肋骨が、臓器がでたらめに本体となる肉塊にへばりついているだけだ。

 確かな鼓動音とともに肉塊は大きく膨らみ、肉の一部がパックリと裂けて、そこからどす黒い血糊を噴き出しながら縮んでいく。これがその物体の唯一の挙動だった。

「自分自身を――違う、数多の人間を怪異に喰わせたというの⁉」

「コレハ儀式ダ。神ニ近付クタメニ、人間ヲ神ノ庇護下ニ棲マワセルタメニ、小生ハ蠱毒ノ創造ヲ命ジラレタ。蠱毒ヨリ生ジタ呪イハ人間ニ憑依シテ、人間ノ本性――怪異ヲ心理ノ奥底カラいざなウ。神ノ使徒トナルタメニ、神ト同一化スルタメニ誘ウ」

 怪異を誘う。夢を通して人間を煽動し、心理の奥底から怪異を引きずり出す。

 怪異譚の伝染、怪異譚の蔓延を引き起こす。これが、秋槻聰明の語る伝染の真相だった。

「ひとつ訊いてもいいかしら。私達が伝染の根絶を目的としていることはあなたも理解しているはずよね。それなのに、どうして真実をこうも明け透けに語ったのかしら?」

「神ハ試練ヲ降サレル。小生ニソレヲ選別スルコトナドデキナイ。信仰ト、狂信ト、全霊ヲモッテ神ノ正シサヲ証明スルダケダ」

 カタカタと板を張り合わせただけの口を動かして人形は応え、ふと言葉を濁らせた。

「ソレニ――……」

 カタ。カタカタカタ。カタタタタ。板が震えて、打ち合わされる。

「マダ、マダマダマダマダマダマダマダマダマダマダマダマダマダマダマダマダ足リナイ! 蠱毒ヲ埋メルニハ、神ヲ創造スルニハ足リナイ! 圧倒的ニ! 絶望スルホドニ!」

 悶えるように両腕を広げて人形は叫び、折れ曲がるはずもない角度まで首を傾げると、そのガラス玉に美玖の肢体を収めた。小さく、華奢で、されど苛烈なまでの人間の姿を。

「生贄ガ! 貢物ガ! 足リナイ!」

 伽藍洞の喉から叫びを反響させて、人形の腕が無造作に持ち上げられた。正面から抱き着くような挙動で美玖に迫った人形は両腕を交差させ、腕の中に何も掴むことができず、空回る。見失った矮躯を探そうとガラス玉は動かされ、次いで、人間であれば鼻梁にあたる箇所から、人形の顔面は撓んだ。

 人形に突き付けられた美玖の右手では、親指の腹に中指が引っかけられ、内側から溢れ出す膂力を溜め込んだ後に弾かれた。真知にやったことと同じ。悪事をはたらいた子供を諫めるような、罰ゲームじみた他愛のない行為は、込められた膂力に関していえば、真知のときとは桁違いだった。人間を遥かに凌駕するように作り込まれた躰の性能の全てが、遠慮容赦なく、一切の手加減もなく詰め込まれていたのだから。

 撓んでいった顔面を起点として人形の頭部は二つに割れ、それだけでは収まるはずもないエネルギーの余波は寄木造りの人形全体に伝播していき、螺子の一本に至るまでを粉々に破壊せしめた。カタカタカタ。最後に震えた板が何を訴えようとしていたのかは分からない。

「上等!」

 美玖の全身が沈み込んだ。屈折された脚は途轍もない反動とともに伸ばされ、彼女の体を聰明に向けて押し進めた。そして、その姿を真知と無明は離れたところで眺めていた。

「手伝わなくてもいいのか?」

「荒事は先輩の領分だからね。それに、対怪異は管轄外だ」

「結局は女頼りかよ。情けない野郎だな」

「技術は気合いなんかじゃ埋められないよ。だいたい、それを言ったらキミもだろう?」

「バーカ」

 肩を竦め、だんご鼻を少しだけ膨らませて、作り物の貌で無明は言った。

「俺のオリジナルが男だなんて、誰が決めたんだよ」

「………………女だったのか?」

 ここ最近の中でも一番の間抜け面を披露してくれたことに、気分をよくする。

「根源を知らない半端者にだってな、分かってることくらいはあるんだよ」

 無明の顔面が揺らめく。変幻の波は肢体にまで及び、彼を『彼女』へと至らせる。

 フードには収まり切らないほどの髪が肩越しに溢れた。あたかも豹を思わせるような精悍な顔付きの彼女は横目で真知を瞥見し、パンツのポケットからバンダナを取り出して口元に巻き付けた。フードに印刷された髑髏の上半分と、バンダナに印刷された髑髏の下半分。

 まさに彼女は『髑髏の貌』となって、

「アンタはそこで眺めてな。俺は化けることしかできないが、その先で人間を越えられる」

 美玖に匹敵するほどの膂力をフルスロットルで振り絞り、聰明の元へと跳躍した。守ってもらうと言いながら、それに甘んじることは性に合わない。無明はそういう人種だ。

 様子を探るように無明の周囲を駆けている美玖の隣に並んで、手のひらを振る。

「何をすればいい?」

「私が彼に触れるまで、あしらってくれればいいわ」

「了解」

 快活な返事とは裏腹に、無明が次に取った行動はあまりにも不気味だった。彼女はポケットからカッターナイフを取り出すと、僅かに錆びついた刃をギヂギヂギヂと押し出して、自分の手首に当てる。一瞬だけ貌を強張らせることで恐怖心を垣間見せ、そんな感情はくだらないとでも吐き捨てるかのように、ナイフを横に滑らせた。

 肌を裂き、肉を裂き、動脈を裂いて――錆びついた刃は燃えるような痛みとともに無明の手首を切り開いた。反射的に握り締められた拳へと、手首から溢れ出した血が伝う。血潮はそのまま床に落ち、床に触れたものから順に姿を変えていく。水墨画が実体化したような体を持つ、不可思議な生物へと変わっていく。生物は無明が流した血の分だけ膨れ上がり、増殖して群れを成すと、一斉に聰明に群がった。

 襲われていることを認識して、牡丹餅のような形をしていた聰明の姿が変貌する。それはあたかも蕾が花開くように、真っ赤なあだ花を咲かすように、肉塊は八つに分かたれた。自由自在にしなる鞭となって暴れ狂い、血潮から生じた幻獣を打ち払おうとする。

 獰猛そうに口唇が裂けた生物が聰明へと飛びかかり、鞭に打たれて飛散した。直後、血潮のカーテンを突き破り、美玖が聰明の元に到達した。彼女の右手は限界まで広げられていた。

 怪異を殺す、怪異を崩落させる魔性の手が――聰明に触れた。

 その場の誰もが聰明の敗北を悟った。美玖の勝利を確信した。それは呆気ないと思えるほどの終幕だったと、誰もが信じて疑わなかった。怪異を壊し、怪異を瓦解させ、吸収する特異性を持った美玖が、逆に聰明に呑み込まれる光景を目撃するまでは。


「――――美玖!」


 鋼の部屋に絶叫が轟く。少女の名前を叫んだのは、黒髪の青年、真知だった。

 無明は初めて目撃した。和宮真知が一切の感情を取り繕うことなく、隠すことなく叫ぶ姿を。

 美玖の両足が、そこに意思を介在させない挙動で動く。手掌から始まって肘までを呑み込まれていた右腕は強制的に聰明から引き抜かれはしたものの、肘より先に正常な姿は見て取れず、爛れた肉がこびりついた骨だけが存在していた。

「ありがとう……引き抜いてくれて」

 駆け寄ってきた真知をおぼろげな目で見つめながら、美玖は僅かに震える声で礼を告げた。思考螺旋によって強制的に体を動かされたということが、彼女には分かっていたから。

「どうなってんだよ、アンタ、触れるだけで怪異を切り崩せるんじゃなかったのか?」

優先度プライオリティの問題よ。見誤ったわ」

 忌々しそうに舌打ちして、美玖は聰明を見据える。

「秋槻聰明の存在設定は『喰らう』こと。呪いだとか、人間を怪異に誘うとかは副産物に過ぎない。そうなれば、等価交換の副産物として『捕食』を武器とする私は太刀打ちできない。私が喰らう前に、優先度に従って私の方が喰われるだけね」

「……それじゃ、アイツには勝てないってことか?」

 狼狽える無明を、美玖は鼻で笑う。

「馬鹿言わないで。捕食できないくらいで負けるなら、怪異殺しなんて呼ばれないわ」

 骨が剥き出しになった右腕に左手を添えると、美玖は唇を噛み締めながら等価交換を発動させた。損傷を負った腕はパキリと根元から捥げて、あたかも蜥蜴の尻尾が生え変わるかのように、新しい骨肉がずるりと生じた。

「真知、お願いしてもいいかしら。もう空っぽなの」

「まったく。だから貯蓄した方がいいって言ったのに」

 美玖の隣に腰を下ろすと、真知はシャツのボタンを外して首筋を露出させた。

「無明。今から先輩に食事をさせる。その間、あれの相手をしてもらってもいいか?」

 目で示された先にあるものは、聰明だった肉塊、蠱毒の怪異。八つに分かたれた肉塊は鞭打つように蠢き、その挙動こそ拙いものの、確実にこちらへ向かってくる。

 正直に言えば逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。もとより無明は戦闘に向いていない。創意工夫で補っているだけで、化けるだけの怪異には対怪異としての強みが欠けている。

(別に、もう逃げてもいいんだよな?)

 そんな風に思ってしまうのは仕方ない。無明は仲間になったというわけでもないのだから。ただ、へまをやらかしたために捕まって、自由を得るために協力しただけなのだ。

 義理堅く最後まで付き合ってやる必要なんて、道理なんて存在しない。

 けれど、戦う手段を持たないという点では真知も同じだ。彼が逃げ出さないというのに、彼よりも力を持っている自分が先に背を向けるのは、少しだけ癪なものがあった。

「ああ、もう。女は度胸!」

 両手で頬を叩き、カッターナイフを握り締めると聰明に対峙する。

「終わったら飯と寝床、あとシャワー!」

「どんと来い! 真知のご飯は最高よ!」

 まだ新しい傷口にカッターナイフを滑らせる。血管を新たに切り裂かれたことで、僅かに収まりを見せていた出血はぶり返した。粘ついた血潮は強烈な鉄の匂いを振り撒きながら落ちていき、床に触れたものから生物へと変貌する。

 真っ赤な血潮。或いは無明の命は、ゴウゴウと燃え滾る焔のように不定形の意思を獲得して聰明へと群がった。爪があるわけでも、牙があるわけでもない。ただ群がって、周囲をちょこまかと跳ね回るだけのそれにさえ、聰明は敏感に反応する。八つに分かたれた血肉の鞭を暴れさせ、いっそのこと躍起になって無明の片割れを潰していく。

 一度圧殺された生物が再生することはなく、それは使い捨て、消耗品でしかない。分が悪いことには変わりない。少なくとも出血過多で気を失う前に『食事』とやらを済ませてくれよと願いつつ、ちらりと背後の美玖を見遣り、彼女は頬を熱くした。

 首筋を露出させた真知に正面から抱き着き、青白くぷっくらと膨らんだ血管へと、美玖は鋭く研ぎ澄まされた犬歯を沈ませていた。百八十センチの青年に、百三十センチの少女は落ちないように両手でしがみつきながら、その喉をゆったりと上下させる。

 何かを飲んでいる。何かを口に含んでいる。

 その『何か』について心当たりが生じないほど、美玖のことを知らないわけではなかった。

 それはかつて吸血種と呼ばれた怪異のことであり、

 数多の民話に登場する高潔な不死者のことであり、

 その名をヴァンパイアと轟かせた鬼のことであり、

 されど、はたまた、彼女はそのどれとも乖離する。

 血液を啜っていることは確かだけれど、血液を通して吸い取っているものは違う。

 それは純然たる怪異。

 怪異を喰らい、それを源に創造を行う、二次産物としての怪異の捕食者。

 それにしても、と無明は頬を赤らめた。この光景は心臓に悪い。怪異といえど曲がりなりにも人間の姿を留めている彼等だからこそ、或いはそれが異性によるものだからこそ、美玖が喰らい、真知が捧げる姿はひどく艶やかで、煽情的に映る。

 見惚れるほどに美しい。火傷してしまうほどに熱を孕む。嚥下する都度に赤みを帯びていく美玖の頬も、反して白皙に染まっていく真知の頬も、何もかもが高揚に拍車をかける。

 そっと眉根に皺を寄せ、無明は目を逸らした。

 捕食されるとはどのようなものなのだろう。自分が吸い出されていくそこに、失われていくそこに存在するのは恐怖だけなのか。言葉にできそうもない背徳的な快楽が息を潜めていそうで、どこか、胸を鷲掴みにされるような息苦しさを覚える。

 そんな経験に引力を感じてしまう一方で、生存本能に基づく理性が、そんなのはごめんだと歯止めをかける。そう、そんなことに身を差し出せるようには、人間はできていない。

 はずなのに、どうして、真知はそんなにも簡単に魂を差し出してしまえるのか。

 考えたところで答えに辿り着くことはできなくて、無明は聰明のみに意識を専念させた。

 ただひとつだけ分かることは、そこに渦巻くものが無償の愛などではなく、人間が賛歌する博愛などではなく、ひたすらに醜悪な依存であるということだった。

 カッターナイフを何度も斬り付けた手首は元の姿を見て取れないほどに杜撰な形状となって、深く傷付けたのだろう動脈からは留まることなく血潮が溢れ出す。命が流れ出す。

 目が霞む。唇はとうに色気が褪せて紫となり、無明の内側では警鐘が打ち鳴らされている。

 彼女の衰弱を認めたためか、聰明に変化が訪れた。周囲に分かたれた八つの肉塊、その中心部が盛り上がり、耳障りな引き攣り声とともに姿を現す。人間の胸部より上の肉塊が。耳朶から上は肉の膜に覆われて能面となり、歪に生えた銀髪が、肉塊の動きに合わせて振り乱される。

 あれこそが秋槻聰明の本体だったものだと察したが、攻める手段はすでになかった。

 血潮は限界まで絞り尽くした。触れてはいけないのだから、無明にできるのはここまで。

「もう、充分か?」

 両腕をだらりと垂れ下げ、ポツリと降ってきた影につられて上を仰ぐ。背中を床に向けたままで全身を弓形に反らし、随分と高いはずの天井すれすれを跳躍する少女を認める。

 それは、重力のしがらみから解放されたかのように軽やかな姿だった。

 美玖の体がぐるりと回転する。その手は細長い物体を掴んでおり、下方で蠢く聰明と相対した瞬間にそれは投擲された。その行為が生身の人間によるにもかかわらず、投擲された物体は空気を圧し付け、切り裂き、衝撃波とともに鋼の部屋に突風を吹かせた。瞬きひとつすることも許さずに彼我の間隙を駆け抜け、それは聰明に突き刺さった。衝撃で船が揺れる。

 体勢を崩した無明はよろめきながら、その物体が何であったのか確かめようとして、聰明からそそり立つ物体の、神具とも呼べる壮麗な美しさに見惚れた。

 一振りの劔。

 世界そのものを掌握せしめてみせると言わんばかりに注がれる全ての光を吸い込んで離さず、その刀身に如何様な光景も映さない劔が聰明を串刺しにしていた。痛覚が存在するのか、全身を暴れさせて呻吟する聰明の上へと、劔の柄へと小さな影が降り立つ。

 降り立つと表現するのは実情に適していない。もとより深々と突き刺さっていた刃はさらに減り込み、またもや船体を大きく揺さぶる。影は柄を蹴り付けることで後方に跳躍して、去り際に劔を掴んだ。金属が裂ける甲高い音を響かせながら劔は少女と共に動き、聰明の疵をいたずらに広げていった。あまりにも鋭利な刃で斬られたため、劔が抜かれてから数秒が経過したところで、ようやく思い出したように流血が起こる。

「あれは……何だ……」

 無明が呻く。

「あれが怪異殺しの第二の武器『怪異による妖刀』だ」

「怪異を切り裂く劔なんて、聞いたことねえぞ」

「虎の子だからね、そうそう広められていても困る。詳しい出自は定かではないが、あれは人間を殺すために鍛えられた武器だった。人間を斬り捨てること、それだけが存在理由として与えられ、それを果たすためだけに振るわれた。人間の命を奪い続け、多くの血に塗れた。多くの怨念と無念を纏い、妖刀と呼ばれる遺物に成り果てて、そこに先輩が干渉した」

「等価交換が?」

「先輩がやったことは拡張領域を設けただけだが、あの妖刀にとってはそれで充分だった。素質は備わっていたんだよ。人間を斬り続けた劔はヒトの感情にまで干渉するようになり、感情から派生する怪異にまで侵害領域を拡げた。ヒトを殺す刃と、怪異を殺す刃を兼ね備えた劔、それこそが等価交換によって産み落とされた妖刀だ」

「それにしちゃ腑に落ちない。妖刀を使うことと『食事』に何の関係があるんだ?」

「あぁ、それね」

 何でもないという風にぼやいて、真知は劔を指差した。

「あれね、エンジン搭載型なんだ。動かすにはガソリンがいるんだよ。それこそ妖刀と呼ばれた所以なんだけど、あれは持ち主の魂を喰らうんだ。珍しくもない話だろう? 妖刀の使い手が、殺戮と栄華の果てに相次いで命を落とすなんて」

「要は吸収した怪異を魂代わりに喰わせてるってことか。偽物で騙されながら使われているなんて、妖刀様も気分を損ねるんじゃないか?」

「そうしたら用済みだよ。斬れない劔はただの棒きれだ。棍棒として使うのもありかもしれないけれど、そんな非効率に縋るくらいならもっと優秀なものを産み落とすだけだ」

「お前等、それこそ呪い殺されるんじゃねえか?」

「殺してみなよ、できるものならね。怪異は言わずもがな、果ては祟りから呪いに至るまで討伐するのが生業だ」

 そして、彼は眦を鋭敏に細め、

「だいたい僕等は怪異討伐に命を賭けてはいるけど、捧げているわけじゃないからね」

 眼窩に澱んだ影を落として、底冷えのする言葉で続ける。

「たとえ彼女が望んだとしても、そんなことは僕が許さない」

 真知の裏側に見え隠れする狂気を感じ取ったのか、喉まで上ってきた言葉を呑み下して、無明は事の推移を見守ることにした。自分達の前で戦う少女、その手に握られた劔へと注がれている怪異こそ、真知の命ではないのかと訊ねたくなるのを堪えながら。



 美玖の戦い方は子供の遊びのようなものだった。その道に僅かでも覚えのある人が見たなら、自分の熟練度なんてお構いなしに戦法とは何たるかを説きたくなるほどに無秩序であり、無駄な挙動で溢れていて、弓で矢を射るのではなく殴りかかるように物の扱い方も分かっておらず、それでいて、説教の全てを跳ね除けるが如く純粋な強さで溢れていた。

 人間離れした膂力で底上げされているだけとは説明しきれない。そこにあるのはもっと別の何か。それを見極めようとして、無明はあまりのくだらなさに失笑した。

 純粋に、強いだけだ。等価交換という怪異が、髙田美玖という人間が殺戮に特化しているだけだ。そういう風に、定められているだけだ。

 凡人が積み重ねた如何なる努力も修練も、費やした情熱も時間も嘲笑うように、髙田美玖は天賦の才能を与えられている。誰にも劣ることのないようにと設定を捻じ曲げられている。

(誰によって? 奴の言葉を借りるのは癪だが、そうだな、神様なんだろうよ)

 美玖にとっての神が誰であるのか、それは無明の知ったことではない。そんなことを探るつもりなんてこれっぽっちもない。ただ、美玖が聰明を凌駕していることだけが信頼できるものであり、信頼する価値のあるものであり、そこに絡んでいる思惑なんて彼女には関係ない。

(とはいえ、どんな奴かくらいは、明白だけどな)

 無明は彼を視た。和宮真知を視た。

 他人の目を窺い続けてきた自分だから分かる。他人の目を晦ましてきた自分だから視える。その人間が何を視ているのか、その瞳に描かれている世界がどのように歪められているのか。

 和宮真知が視ている世界は完璧だ。一部の隙もないほどに整えられて、磨かれて、理想を突き詰めているばかりに歪だ。彼は髙田美玖の過去を、現在を、未来を視ている。髙田美玖が歩んできた道、歩んでいる道、これから踏み出す道を俯瞰して、描いている。そこに一切の不安要素を孕ませずに、髙田美玖に危害を及ぼす要素を徹底的に排除して。

 美玖に如何なる逆境が訪れようとも、彼女自身が困難を感じようとも、そこには必ず『突破口』が用意されている。真知の諫言によって、甘言によって、美玖は知らず知らずのうちに用意させられる。換言すれば怪異の使途を、等価交換の運用を真知によって支配されている。

 そのことに彼女は気付いていない。気付くことを許されていない。

(始まりがどこからかは知らねえが、随分と根深いな。怪異殺しに親でも殺されたのか? だが、それにしちゃ、アイツの孕んでいる感情は恨みとか嫉みとか、そういう負の側面じゃなくて、相手に危害を加えようっていう類じゃなくて、そうだな、庇護欲を掻き立てられているというか、怪異殺しが間違った道に進まないように見張っている感じなんだよな)

 もしかして筒井崕ゆり子の差し金かと疑う。そもそも怪異の天敵と人間の天敵がタッグを組んでいることが妙にわざとらしい。普通は反発するだろう。

 純粋な怪異である真知は美玖を、人間を残している美玖は真知を忌避しなくてはおかしい。

 天敵とは生存を脅かす存在だ。好き好んですり寄っていくわけがない。

「無粋な詮索はよしなよ。それは今回の噺じゃない。次の噺だ。伏線は露骨に立てればよいというものでもない。ちょっとした矛盾点に収めておくくらいが好ましいからね」

 はたと挟まれた言葉に顔を上げ、あぁ、これは消されるなと確信した。

 いま抱いてしまった思考は、次の瞬間にはきれいさっぱり消されている。それに無明は抗えない。そんなことを看過してくれるほど和宮真知という怪異は寛容ではない。

 それなら、何も考えずに今の噺を楽しむことにしよう。

 どうせ、考えたところで消されるだけなのだ。



 妖刀が振るわれるたびに聰明の肉は削ぎ落とされていく。牡丹の花に似た肉袋はすっかり小さくなり、散らばった肉片の中心部が現れてくる。秋槻聰明の本体だった部分は狂ったように雄叫びを上げて美玖に立ち向かうが、いとも容易くあしらわれて、肉――聰明にとっての怪異の源泉――を奪われていく。触れることができないという怪異殺しに対してのアドバンテージは、妖刀によって覆された。

「怪異! 怪異! 小生ノ怪異ガ!」

 銀髪を振り乱して聰明は暴れる。怪異の伝染を誘い、感染者を喰らい続けてきたことで蓄えてきたものが失われる。怪異として弱体化する。聰明はとっくに錯乱していた。ぐちゃぐちゃに入り乱れた思考の中で、自分が追い詰められていることを自覚していた。

 怪異を奪わなければならない。これまでそうしてきたように、美玖を捕食して、己の怪異譚を補強しなければならない。それなのに触れない。一方的に切り刻まれて、蹂躙されるだけ。

 彼女はダメだと、太刀打ちできないと悟った。そして、前を視た。美玖の背後を視た。

 聰明は心から笑う。怪異を見つけた喜びから、自分が蹂躙できる相手がいたことから。

 それまでの緩慢な動きが嘘であったかのように聰明は跳躍した。躍りかかった。美玖を素通りして、彼女の背中に隠れた矮小な存在、真知と無明に向かって。

「待て!」

 背後の声に従う道理などない。聰明は愉悦を瞳に宿らせ、自分の設定を存分に振るった。

 喰らう。喰らい尽くす。髪のひと房に至るまで、断片に至るまで怪異を喰らい、強くなる。

「貴様ノ怪異――小生に寄越せ!」

 刹那、全てが静寂に立ち返る。励起した思考螺旋が聰明を射抜いた。真知は冷え切った目で聰明を眇め、小さく哄笑した。全身の自由を奪われた聰明を憐れだと見下ろした。

「ようやく視えた。お前はまだ人間性を残している。お前はまだ純粋な怪異にまで落ちていない。そうなれば、僕の侵害対象だ」

 思考螺旋の呪縛が聰明を雁字搦めにする。自由を剥奪された聰明は身動ぎひとつできず、断罪の鎌が落とされるときを待つだけとなった。

「さあ、先輩。奴の怪異は僕が抑えた。だから、もう食べられるよ」

 言葉の直後、聰明の胸に背後から穴が開けられた。怪異を壊す美玖の腕が突き立てられたのだ。ボロリと聰明の躰が欠け落ちる。煤のように変質した躰は靄となり、彼が抱える怪異譚の全ては美玖に呑み込まれていく。等価交換の糧へと貶められていく。

 怪異譚を剥ぎ取られ、搾りかすとなった聰明は頽れた。

「……へえ。こんなになっても人間は生きていられるのか」

 人間としての形が辛うじて残っているのは上半身だけだ。下肢は肉袋と完全に癒着してしまい、無明が目を逸らしたくなるほどに醜怪だ。それでもまだ息はある。

「これで……終わりか?」

「そうね。あとはゆり子に引き渡すだけ。事後処理は向こうでやってくれるから」

「俺はどうなる?」

「約束通りよ。私達にあなたをどうこうするつもりはない。ただ、それがゆり子の考えと合致するかは分からないから、聰明の件が片付くまでは一緒にいてもらうけど」

「どうせ俺に拒否権はないしな。それに、まだ飯とシャワーが終わってない」

「そうだったね。とっておきのディナーを御馳走するよ」

「それならみづほも呼ばなきゃ!」

 殺し合いをしていたとは信じられないくらいに和気藹々としながら、聰明の神域を後にする。聰明は自力では動けない。ゆり子の部下が到着するまでに逃げられるはずもなく、せいぜい、それまでに死なないかだけが気がかりだったが、それはそれ、助けてやる義理はない。

 斯くして聰明を打破したことで『伝染』は収束する――……はずだった。


「悪い報せです。新たに五十人が怪異に喰われました」

 筒井崕ゆり子は言う。秋槻聰明は――……黒ではなかったと。

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