正義なんてない

 刻津ときつ。東洋の島国を形成する地方都市のひとつであるこの町は、海洋交易の拠点として発展してきた。海に面した町は巨大な運河によって二分され、近代的発展を遂げた東地区と、明治の姿を受け継いだ西地区となる。人口はおよそ八十万。戦後の復興時に最盛期を迎えた町は徐々に居住者を増やしていき、当時の倍に膨れ上がることで今に至る。

 こうした表向きの発展とは別に、怪異に係る視点からも刻津は特筆に値する。簡潔に言えば、刻津は怪異譚のホットスポットだ。それも、他に類を見ないほどに巨大な。

 病院、神社、祠、学校、事故現場。怪異譚のホットスポットは特定の土地や建造物、座標に出現することが通常である。どれほど大きなものになろうとも、町の構成単位として見れば非常に小さなものであることが常だった。それが、非常識な怪異譚の世界での常識だった。

 それにもかかわらず、この町は全土がホットスポットに包括される。いつから町全体がホットスポットとして機能し始めたのか、その発端となる奇譚、事故、災害、現象が何であったのか把握している人物はいない。筒井崕ゆり子。あまねく怪異譚を蒐集し、世界の調停と縫合に携わる彼女ならば紐解いているかもしれないが、それを訊ねた者はいない。

 ホットスポットがホットスポットとして現在も機能していること。ただ、この一点のみが重要であり、着目すべきことである。美玖のように怪異を退治する者にとって、無明のように怪異を売買する者にとって、ゆり子のように怪異を探求する者にとって。

 みづほのように、怪異に翻弄される者にとっても。

 運河の両岸を結ぶ鉄橋を渡れば、集積場は目と鼻の先だ。港には油槽船と貨物船が停泊しており、集積場には様々にカラーリングされたコンテナが並べられている。港の東では貨物の積み降ろしが昼夜を問わず行われており、若干の騒々しさが伝わってくる。ぐるぐると回り続ける灯台の光によって、港は端から端までが周期的に照らされていた。

 フェンスを飛び越えて――そのような膂力を持たない真知は美玖に投げ飛ばされた――侵入を果たす。人目を避けるためにコンテナ群の間を進み、秋槻聰明に指定されたという場所、集積場の第八区画に着く。聰明の姿はまだ見られなかった。

 無明だけを先に行かせ、美玖と真知はコンテナの陰に身を潜めた。頭上を通り過ぎる灯台の光以外に光源はなく、辺りは月明かりによってうっすらと浮かび上がる程度だった。第八区画であることを示す「8」の字の白線上に無明が立ったとき、不意に声が響いた。

「諸君――よくぞ来てくれた。御足労に感謝しよう。さぁ、出てきてくれ。そこな金髪の少女も、黒髪の青年も。隠れる必要などどこにもない」

 互いに顔を見合わせると、二人はコンテナの陰から身を曝した。無明と合流して周囲を窺うと、不意に、目前に停泊していた油槽船からタラップが降りてきた。

「恐れることはない。中に進みたまえ」

 誘いの声に従ってタラップを登る。

「秋槻聰明というのは、思っていたよりも気障な人間なんだな」

「そうか? あれはちょっとばかし螺子が外れているだけだろ」

 軽口を叩くこともそぞろに、油槽船に乗り込む。甲板のほぼ全てを覆うように設置された液槽の蓋の間を縫うようにして、ぽつりぽつりと、足元には小さな照明が灯されていた。

(…………おっかないな)

 美玖の様子を覗き見て、無明は肝を冷やす。美玖は警戒心を隠すこともせず、小さな目を尖らせて甲板を見渡していた。体幹の重心も前に傾いており、それはあたかも獲物を狙う肉食獣のようであり、同時に天敵を前にした小動物のようでもあった。

 再び聞こえてきた聰明の指示に従って船内を移動する。辿り着いた場所は船橋だった。蛍光灯は灯されておらず、代わりに赤色の照明がぼんやりと光を放っている。船橋には人影があった。艶のある銀色の髪を背中まで伸ばして、金糸で縁取られた神父服を着た男だった。胸元には十字架に巻き付いた蛇のアクセサリーが下げられ、その男の貌には、あまりにも屈託のない笑顔が貼り付いていた。その表情を前にして、真知は無明の言葉を思い出す。

 なるほど、確かに、あまりにも整えられたものには偽物だという印象が付き纏う。この場合、男の笑顔は紛うことなくそれに該当していた。あまりにも白々しい、笑顔だった。

「久し振りだね、無明くん。そちらのお二人は、初めまして」

 一人々々に深々と低頭してから男は名乗り上げる。

「小生が秋槻聰明だ。諸君の用件は察しが付いているが、何よりも、人間とはすれ違う生き物だ。言葉という革新的な意思疎通手段を獲得しているにもかかわらず、ただ、無言のうちに察してくれるだろうという甘い期待がいとも容易くディスコミュニケーションの火種を生じさせる。齟齬があっては面倒だ。今一度、諸君の用件を小生に伝えてはくれないか?」

「伝染の真相を知りたいと言えば、伝わるのかしら」

「承知した。確かにそれは小生に合致する」

「それは、あなたが伝染を引き起こしたのだと解釈してもよいの?」

「道すがら話すとしよう。来たまえ。その話をするには、この場所は相応しくない」

 聰明は大股開きで歩き出した。呆気に取られる美玖の横を通り過ぎて船橋から出ていく。慌てて三人は聰明を追いかけ、先導する男は「確かに」と切り出した。

「伝染の実行者は小生で間違いない。だが、小生にそれを命じられた御方は別にいる」

「それは誰なの?」

「神だ」

 当然であろうと言わんばかりの語調の強さに、美玖の眉がピクリと痙攣した。

「ふざけているのかしら」

「神の拝命を語るのにふざける必要がどこにある? 神は神であり、神以外の何者でもない」

「質問を変えるわ。それは、あなたが神として崇拝する人物のことを指すのかしら?」

「人間如きが神になれるわけがないだろう。侮辱するにしても程がある」

 言葉の内容とは裏腹に、聰明の気色から不快感を見いだすことはできない。

「諸君が怪異と呼称する類でもない。神は人間からも怪異からも格別された至高の存在、崇高なる全能者だ。あの御方は時に天来のこえであり、時に類稀なる指導者であり、隣人であり、悪の枢軸を被ることさえもある。神は告げられた。小生に御意思を示されたのだ。この町を怨嗟犇めく毒壺へ変えよと。怪異の伝染を通して、神の伴侶に児戯を与えよと――……」

「児戯、とは?」

「神の伴侶は暇を弄ばしておられる。それならば、人間が身命を捧ぐべきであろう?」

「神の聲とやらを、キミは何を通して聴くんだい?」

 そこで初めて、真知が声を挟んだ。

「聖書は読まないのかね? 天啓は――夢を通して語られるものだろう?」

 夢を通して語られる。その文言には、その現象には真新しい記憶があった。みづほが患い、美玖が退けた怪異の発端もまた、夢の中にあった。もしや秋槻聰明も伝染の被害者であり――或いは症例の一人目であり――彼はまだ夢から醒めていないだけではないのかと考え至ったところで、聰明は足を止めた。縦横に区画された液槽の、中央部最前列にて。

 髪に絡まる潮風をどこか煩わしそうにしながら聰明は言う。

「ここが神域である。覗きたいと願うかね?」

「もちろんよ。そのために来たんだから」

 凛然と首肯した美玖の背後で、無明は真知の腕を掴み、縋るように切り出した。

「俺だけ……もう帰らせてくれないか?」

 泣き出したのではないかと勘違いしてしまうほどの、尋常ならざる声の震えに、涼しい顔を崩すことはなくとも真知は振り返った。理由は何だと、その横顔は問いかけていた。

 対する答えはあまりにも単純であり、理性によるものではなく、それは衝動、本能から来ていた。体裁を気にすることなど歯牙にもかけず、無明は心を打ち砕いて吐露する。

「嫌な予感がする」

 美玖のように怪異の天敵ではなく、真知のように人間の天敵ではなく、

 ただ化けるだけ、姿を変えるだけの怪異だからこそ鋭敏となった警戒心が叫んでいる。

「聰明との邂逅は果たした。すでにキミは自由だ。好きにすればいい」

 素っ気なく返してから、続いて、真知は口を動かす。

「けれど、キミが望むなら、僕と先輩はキミの楯となろう」

 言葉を失くし、無明は真知を凝視する。生まれ落ちたときから孤独であることを定められ、自我を得たときから庇護を得るべくもなかった彼にとって、唐突に示された守護の申し出。庇ってやるなどと、何と傲慢な言い草だろうと否定したくなる一方で、それに魅せられようとしている自分が存在することを意識する。なぜ? 戦慄く唇で訊ねる。

「俺は、アンタに銃を向けた人間だぞ?」

「あんなもの、僕にとっては害悪の範疇にも入らない。それこそ生死の垣根からも逸脱して、存在そのものから消滅させられるくらいじゃないと、僕が揺らぐには足りない。そもそもキミが怪異を売買したところで僕等に実害があるわけじゃない。売られた人間の末路なんて興味もないし、野垂れ死にしようが何だろうが、それは僕と先輩には関係ない『噺』だ」

「…………随分と冷めてるんだな。正義感に駆られてるもんだとばかり思っていたのに」

「正義なんてないさ。あるのは信念だけだ」

 真知の瞳が細められる。僅か数日間の関わり合いでしかないが、彼がこういった表情を見せるときに何を考えているのかくらいは、無明にも察することができるようになっていた。

 瞳の裏に住まうのは、あの少女、世界に取り残された金髪の少女だ。

 真知と美玖の間に流れている感情とはどのようなものなのか。千の貌と人格を形成してきた無明でさえ、把握することはできない。信頼、愛情、依存、どれからも少しだけずれている。

 そのひずみは、ともすれば舞台にも及ぶ。彼と彼女は同じ演劇の役者なのではなく、本来は別々の演劇の役者であった二人が、無理やり同じ舞台に放り入れられたかのように。

 だからこその、相容れなさを抱えている。

 ふと、無明の思考を察したのだろう、真知は開口した。

「怪異譚に生きる人間は、孤独であることが常だ。過程はどうあれ、経緯はどうあれ、そこにどのような思惑が渦巻いていたとしても、繋がった糸は容易く解れさせていいものじゃない。繋げたままの方がいろいろと好都合だろう? それと、差し当たって問題がある。先輩を追いかけないといけないわけなんだが、ここに単独で飛び降りるなんて真似をすれば、僕はイチゴジャムになってしまう。キミの膂力を貸して欲しいところなんだ」

 話し込んでいる真知のことなどあっさりと置き去りにして、聰明と美玖は液槽の中に飛び降りていった。怪異が絡まなければ現実世界に干渉することのない彼だから、落下したところで問題はなさそうだが、全土がホットスポットに包括されているこの町ではそうもいかない。

 触れるはずのなかったもの、触れるつもりのなかったもの、触れられない方が好都合だったものが、突如として実体を獲得してしまう。人間に知覚されないだけで、この町で生きることに限れば、真知は普通の人間と同じように縛りを受けていた。

「…………アンタ、そっちの方が本音だろ?」

「さてね、判断は任せるよ」

 無明はいっそのこと愉快そうに眦を細めると、髪を掻き上げて真知を睨め付けた。

「しょうがない。俺は、アンタに守ってもらうことにするよ」

 言うが早いか無明は真知の襟首を引っ掴み、穴倉の中へと、躊躇も抱かずに飛び降りた。

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