第百二十二話:無垢(2)
溢れんばかりの正義の光が、邪悪なる者たちを打ち払う。
ひとりぼっちの聖なる軍勢は、だが圧倒的な力をもってしてマイノグーラの戦士たちへと襲いかかった。
「全員下がるのです!」
すでに臨戦態勢に入っていたキャリアによって、非戦闘職への避難指示が出される。
同時に自らの武器を構え、好きあらばその生命を刈り取らんと鋭い視線を向けた。
月夜にて力の増したエルフール姉妹の視線にネリムも興味が湧いたのか、一切の悪意や害意を感じさせない無垢な表情で見つめてくる。
「あっ! 貴女たちはだぁれ? えーっと! そっか! イラ教の人だねっ! 悪い人だ! やっつけちゃうぞ!」
地面が爆発し、気がつけば目の前に日記の聖女ネリムが存在している。
無造作に振るわれた神の加護を纏いし日記を自らの武器で必死に防御しながら、キャリアはチラリと視線を姉に向けて叫ぶ。
「お姉ちゃんさん!」
双子の姉妹だ。意思疎通も容易なのだろう。その言葉だけですぐさま意図を把握したメアリアは、自らの武器で未だキャリアの方へ意識を集中させているネリムへと切りかかった。
だが……。
「わわっ! 危なかった! でもその位じゃやられないよ!」
慌てた様子とは裏腹にまるで予期していたかのようにメアリアの攻撃を受け流したネリムは、そのまま距離を取りまた日記を確認し始める。
「私の能力が効かない……全部忘れちゃったってことなのかな?」
「ちっ! 大人しく寝返っていればいいものを!」
メアリアの《白痴感染》も、キャリアの《疫病感染》も先程から一向に効果を示さない。
おそらく圧倒的な聖のオーラによって阻害されているのだ。
彼女たちの能力は完璧ではない。無論強力無比ではあるが、ある程度のレベル――力量を持つものには抵抗されるのだ。
少なくとも、目の前の聖女は月夜の力で最大限近くまで強化された魔女をもってしても尚、届かぬ程の高みにいることが理解できる。
更に、事態は加速度的に悪化の一途を辿っていく。
「神様! 力をちょうだい! もっともっと! 悪い人を倒す力を!!」
「「キャッ――!」」
神の奇跡が降ろされ、姉妹が弾き飛ばされる。
同時に世界が照らされ、真昼の如く煌々とあたりから闇を打ち払う。
戦力の優劣はもはや明らか。
月が隠れたことによって力を減退させた姉妹ではダメージはないとは言えネリムを抑えるのは厳しいだろう。
その圧倒的な力に信徒たちの撤退を指示するためにその場に残っていたヨナヨナは、思わず声を震わせる。
「な、なんて力だよ……あれが聖女の本気なのか?」
「いやいや、全然違いますぞ。本来日記の聖女の力は限定的かつ犠牲が必要なもの。記憶とともに絶大な能力を得たとしても、全ての記憶を失っては人格も喪失する。本来なら! 本来なら彼女はただ強力な力を持つだけの人形に成り果てる運命だった!」
ヨナヨナの横で悠長に状況説明を始めたのはヴィットーリオ。
戦闘能力がないため仕方がないとは言え、あまりにも場違いだ。
だが……彼の言葉はヨナヨナに一定に理解を与えた。
「日記か! アレを読んで行動を決めているのか!」
「おそらく、日記を読むという行為が習慣としてすり込まれているのでしょうなぁ。故に記憶が失われても日記を読むという行為を忘れることがない。そして一度読めば、自らが何をすべきかが分かる」
彼の言葉通り、ネリムはまた日記を読み始めた。
明らかに隙だらけで、まるで攻撃してくれと言わんばかりの状態ではあったが、それがネリム本人が意図せぬ天然の罠であることは誰の目にも明らかだ。
彼女の周りを包む無限にも等しい光が、あらゆる害意を許さず彼女を守っている。
まるで父の記憶の代わりだと言わんばかりに……。
「しかしまぁ、父との思い出を犠牲にして得た力とはかくもすさまじきものなのですか! いやぁ、美しいですなぁ、儚いですなぁ! こういうのも、吾輩大好きですぞ!」
カラカラとヴィットーリオが笑う。
もはやここまで至ってしまってはお手上げ状態。口車で場をかき乱すことが本領の彼にできることはない。
無論能力の行使も無意味だ。彼女の周りを包み込む聖なる守りがそれを許しはしないだろう。
だから傍観者の立場でいたのだが……。
「そこのあなた、うるさい! 悪い人に沢山喋らせると良くないって、この日記に書いてあるよ!」
一拍をおいて、ヴィットーリオの目の前にネリムが出現する。
そのまま目に捉えきれぬ程の速さで日記をヴィットーリオの頭蓋に打ち込もうとする。
「ぐぉぉぉっ! 緊急回避いぃぃぃ!」
すんでの所で回避。だが攻撃は一度で終わらない。
攻撃が外れたことで少しばかりたたらを踏んだネリムだったが、すぐに体勢を立て直しそのままの勢いで日記を振るい道化師の胴体を狙う。
次こそは不可避。ヴィットーリオの命はここまでかと思われたその瞬間。
隼の速度で切り込み、ネリムの攻撃を武器で受けたのはキャリアとメアリアだった。
「さんきゅー! マジで助かりましたぞ!」
「ちっ! べらべら喋ってる暇があったらなんとかするのです! その無駄に回る頭はなんの為についているのですか!?」
「早く何とかして欲しいな道化師さん。このままじゃみんなやられちゃうよ?」
暴言と軽口を吐きながらも、二人の表情には焦りが見える。
先程の攻撃を受け止めるのも二人で力を合わせてようやくという状況で、ネリムが少し本気を出して攻撃に転じればすぐに状況が崩れる事は明らかだった。
「ふむぅん。そうですなぁ……」
チラリと視線をネリムに向ける。彼女はまたぼんやりとどこかを眺め、思い出したかのように日記を確認し始める。
この隙だらけの行動があるからこそ、今はマイノグーラ側がなんとか防御できている。
今回のこのタイミングでなにか案を出せと言うのが、言外に告げられた双子からの要求であった。
しかしこの状況を覆す方法などあるのか?
それともこの状況すら、ヴィットーリオにとってはさしたる難問ではないのか?
否応にも期待が高まる中、だが舌禍の英雄は黙して動かない。
「ネリム! ネリム! もう止めて! もう止めてください!」
「えーっと、貴女はだぁれ? ちょっと待ってね……」
そして、動かない状況に焦れた者もまたいた。
先程までの圧倒的な出来事と刹那に行われた攻防についていけず呆然自失としていた異端審問官のクレーエだ。
彼女は大切な少女の変わり果てた姿に絶望しながらも、決して希望は失わないとばかりに声をかける。
その言葉に感化されたのか……日記の聖女はいつもより少しながく日記を確認していた。
「ああっ! イムレイス審問官! 私がお世話になったって書いてある! いつも私を気にかけてくれた人! 優しくしてくれた人! 大好きな人! 彼女を助けろって書いてある! 何を犠牲にしても、絶対に助けろって書いてある! えーっと。涙でボロボロ、このページ」
失われた優しき少女からの、声にならない想いがその日記にはたしかに記されている。
ネリムはこのような結果になることを予想していたのだろうか?
自分が失われる事を知っていたのだろうか?
未来の自分へ向けた必死の願いは、無垢な少女に希望という名の方向性を与える。
……かに思えた。
「でもどうしてなのかな? 貴女は邪悪に染まっているわ。えーっと、悪い人は倒さないといけないけど、イムレイス審問官は助けないとダメ……うーん? どうすればいいのかな?」
ここに来て、最悪が鎌首をもたげた。
日記に書いてあるクレーエを助けよという願いと、日記に書いてある悪を討ち滅ぼせという願いが、衝突を起こしたのだ。
まっさらな少女に正反対の異なる方向性が与えられた。
矛盾の判断をどのようにすればよいか、ネリムは困った様子で日記のページを何度も確認している。
「まずは……イムレイス審問官以外を倒せばいいのかな?」
「ネリム! 話を聞いてください! このような行いはお父上が悲しみます!」
「お父上? 私にお父さんがいるの!? それは素敵! どこかな? えーっと……あれ? 何も書いてない」
一つ、クレーエは大きな失態を犯した。
ネリムの日記には父との思い出が書かれていない。それは彼女が父だけは決して渡さないと必死に抱え続けた結果だ。
少しでも日記に書いてしまえばいつかこぼれ落ちていきそうな気がする。
そんな少女の不確かなこだわりが、日記にそれらを記すことをためらわせたのだ。
そして、だからこそ……今のネリムはどのような手段を用いても父の実在を知ることはない。
彼女の前で父の名前を出しても無駄だ。
"父親など日記の聖女には存在しない"のだから。
奇しくもそれは、彼女が聖女となった折に、ヴェルデルの影響力を排除しようとした心無い聖職者たちから毎日のように聞かされた言葉と同じであった……。
「そ、そんな……」
「私を騙したのね、やっぱり悪い人なんだ。死んで」
ネリムの無慈悲な攻撃が……絶望に立ちすくむクレーエの顔面を射抜こうとする。
「お前も! べらべら喋るなって言っているのです!」
「ぐっ――!」
命を救ったのは、キャリア=エルフール。
おそらく攻撃が来るだろうと予想し、すんでの所でカバーに回ったのだ。
だが先のように攻撃を防ぐことはできない。
代わりにクレーエの胴体に蹴りを入れ、その身体をはるか後方に飛ばすのが関の山だ。
ダメージは少なからずあったが、顔面を粉砕されるよりはマシだろう。
「あれ? どうして仲間を傷つけるの? イムレイス審問官は悪い人なんでしょ?」
その言葉に無言で返答とするキャリア。
メアリアも背後から隙をうかがうが、決定打にかけるためあまり積極的に動くつもりはないようだ。
はるか後方で、クレーエが腹を押さえて呻きながら立ち上がる。
「んー? ……ああ! なるほど! やっぱり悪い人は仲良くすることなんて出来ないんだ! ふふふ。ひどいね!」
一歩、歩みを前にする。
思わず背後に下がったキャリアは、己の惰弱さに小さく舌打ちをする。
次いで一歩。ネリムがまた歩みを進める。
「あれ? 私何してるんだろう? あれ? 貴方たちはだあれ?」
先程までのやり取りがなかったかのように、またネリムが記憶を失った。
何らかの奇跡を神に求めたのか、もしくはすでに奇跡の仕組みに異常が生じているのか。
どちらにしろ点滅するかのように記憶を喪失させるその少女は、不気味を通り越していっそ哀れであった。
「っと、その前に。人々を助けなきゃ! 助けるといいことがあるって書いてあるんだもん! いいことがあると、どうなるんだろう? まぁいっか。日記に書いてあるし、そうなんだよね!」
ゆっくりと、二人はネリムから距離を取る。
先程の記憶喪失によって間違いなく命を救われた。
今の彼女の興味はまた別のところに移っている。その言葉を信じるのであれば、人々を助けることを優先したようだ。
イラ教の布教によってこの地において疫病と亡失はもはや存在しない。
それらは全てマッチポンプじみたやり取りで取り払われた。
だから救うという言葉は、少々奇妙にも思える。
「神様! 神様! 力をちょうだい! もっともっと! 人を助けるための力をちょうだい!」
また、極光があたりを包み込んだ。
邪悪なる者にこの光は眩しすぎる。直接的な光量という意味でもそうだが、その内に含まれる聖なる性質が彼らの存在を鋭く照らし焼こうとするのだ。
まばゆいその光景をしかめ顔で見つめ、だがネリムから決して視線を離さず事態の推移を注視するエルフール姉妹。
そんな二人の背後からヨナヨナが小声で声をかける。
「キャリアさん、メアリアさん。この街からイラの信徒がどんどん減っているッス」
それはイラ教の信徒の喪失。
代理教祖という立場にいるからこそ把握できるイラ教信徒の動向。
その特異な能力が、この地より急速に信徒が減っている事をヨナヨナに伝えていた。
「神の奇跡ですか……あまりにも強大ですね。キャリーの疫病も全然効果が出ていないし、これは少し不味いですね。どうします?」
断言はできないが、おそらくイラ教の教えが取り払われ、再度聖教へと変更されているのだろう。
眼の前でヴィットーリオの能力によってその教化を散々眺めてきたキャリアだ。
その程度のことであればいくらでも起こりうると認識している。
とは言え、それがマイノグーラ側にとってあまり受け入れがたい出来事であるということは避けようがない事実であったが。
「くすくす。私たちではちょっと荷が重いね。早くしないと犠牲が出ちゃうよヴィットーリオさん。それって失態だよね。王さまに落胆されちゃうね」
メアリアから再度の催促が入った。
そろそろ行動に移せという警告だ。王の名――すなわち拓斗の事を持ち出したのもこれ以上は待てないという意思表示だろう。
彼がイラ=タクトを強く信奉していることは周知の事実だ。
王の名前を出されては、いつものように自由奔放に動けないことも姉妹はよく理解している。
もっとも、あまりやり過ぎると対策をとられるためにあくまで奥の手だが。
今回はそれが効いたようだ。
「まぁ、潮時ですな。吾輩もここまで事態が悪化するとは思ってもおりませんでした。今のうちに逃げたい所ですがぁ……」
ヴィットーリオがチラリと視線をネリムへと向ける。
運悪くと言うべきか、タイミング良くべきと言うべきか、キョトンとした表情のネリムがそこにはいた。
「あれ? 貴方たちはだぁれ?」
興味がこちらに向いた。
また記憶が失われ、先程抱いていた人々を救うという目的も忘れたのだろう。
であれば彼女が行うであろう行動は目の前の対処だ。
……パタリと、日記が閉じられる。
「えーっと。悪い人なのかな? なら倒さなきゃ!」
「吾輩が殿を務めます」
どこか緊張を含んだ声で、ヴィットーリオはそう宣言した。
………
……
…
全ての人が去り、たった二つの影だけが残されたかつてのイラ教本拠地。
巨大な光の柱の下で、一つの邪悪が果てようとしていた。
「ぐふぅっ……」
満身創痍のヴィットーリオにすでに力は残されていない。
手足は粉々に粉砕され、その体躯も痣や血でボロボロになっている。
だが爛々と輝く闇の瞳だけはハッキリとネリムを睨みつけ、まるで自らの誇りだと言わんばかりにその不愉快な笑みは深みを増していく。
「ふぅ……疲れた。この人すごい逃げ足なんだもん。私びっくりしちゃった。でももうおしまい!」
日記が、彼女の大切な記録が両手で掲げられる。
その様を脳裏に刻みつけんと眼を限界まで開け、ヴィットーリオは高らかに最後の言葉を叫ぶ。
「我が主よ、イラ=タクトよ……命じられたままに、吾輩は死にますぞ! おお、偉大なる神よ! 我が神よ――」
「これでさようならだよ」
鈍い音があたりに響いた。
それっきり、それで終わりだ。
残るは静寂。あたりに不気味なほどの静けさと無が訪れる。
やがてしばらくして、少女は驚いたようにあたりを見渡し、不思議そうに血に濡れた日記を読み始めるのであった。
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