第百十三話:対話(2)

 クレーエ達による会議は、終わりの気配を見せない。

 それも当然だ。彼らが検討しなければならない問題は多岐にわたるのだから……。

 大枠の方針について互いの妥協点を見いだしたという点ではまだ進展はあったと言えよう。だが、だからといって山のように積もった諸問題に答えが出せる見通しがたつわけではない。

 重苦しい空気と蓄積された疲労で誰しもが疲れた表情を見せていた時だった。天幕の入り口に人の影が差す。


「あの……こんにち、は?」


「……ネリム」


「おお、日記の聖女さま!」


 現れたのは日記の聖女リトレイン=ネリム=クオーツ。手持ち無沙汰だろうか、それとも用事があったのか。

 会議を行う者たちの重苦しい空気を感じ取ったのか、その表情はいつにも増して不安と怯えが見える。

 だがそんな彼女の来訪を良い機会と捉えたのか、聖騎士から珍しい提案がなされる。


「いかがですかなイムレイス審問官。聖女様と気分を変えてこられては。我々はその間に情報に不足がないか今一度整理しておりますゆえ」

「それがよろしい。審問官も難事続きでお疲れでしょう。どうかごゆるりと」


「……分かりました。お言葉に甘えることとします。行きましょうか、ネリム」

「は、はいっ」


 どこか閉塞感のあった空気も、幼い聖女の来訪でいくらか和らいだ物となる。

 気分転換にはよい頃合いだろうというのは正直クレーエとしても同意だった。

 ネリム自身もなにか用事があったという雰囲気ではなく、単純に暇を持て余していただけらしく、クレーエの提案に素直に同意する。

 だからここは彼らの言葉に甘えて、しばし休憩を取ることとした。


「では失礼します」


 本来なら、そのような時間は彼らには残されていない。

 ただこの時だけは、奇しくも全員たちが同じ思いをいだき彼女たちを送った。

 手をつなぎ、まるで年の離れた姉妹のように寄り添う二人の背中を眺めながら、聖騎士たちはある種の覚悟を抱くのであった。


 ………

 ……

 …


「特に行く当てもありませんが、少し散歩をしましょうか。貴女はなにか希望がありますか? ネリム」


「あ、えと……大丈夫です。イムレイス審問官」


 その言葉に頷き、二人でゆっくりとアムリタの街をまわる。

 人々の様子は残念ながら良いものとは言えない。

 重症者が優先されているため軽症者が多く辛そうではあるし、特に聖教による統制がとれていないために小さな衝突などがそこかしこで起きているありさまだ。

 とは言え当初の状況に比べればまだ救いはある。

 人々には前に進む意志が見られるし、困惑の中にも新しい環境への適応が見られる。

 クレーエたちの行いは、確かにこの地を救っているのだ。

 しかし、道は未だ半ば。そして彼女たちが目指す先は遥か彼方でありそのさきには暗雲が立ち込めている。


「皆、少しずつ元気になっているみたいで、良かったです」

「ええ。ネリムが頑張ってくれたおかげですよ」


 クレーエの言葉に、聖女リトレインはその大きな日記をぎゅうっと抱きしめると、少し大きな安堵のため息を吐いた。

 彼女の頑張りで人々が救われていることに、喜びを感じているようだ。

 人々を救えば必ず父に会えるから。だからこそ彼女は日々記憶を捧げ、ここまで献身的に人々に尽くしている。


 この僅かな時間ですらそうだ。

 休憩がてらの街の見回りと言えば聞こえが良いが、実際は彼女に浪費させる記憶を刻み込むためであることをクレーエは自身でよく理解していた。

 毎日同じ道を歩み、毎日同じパン屋でパンを買い、毎日同じ広場で食事を取り、毎日同じ話題で会話の花を咲かせる。

 そうして出来たての大切な記憶を代償に、神が与えし奇跡をもって人々を癒やすのだ。

 何の犠牲も払わない奇跡などこの世には存在しない。

 救うという行為は、必ず何らかの負担を救い手に与える。

 それでもなお他人に対して慈悲と奉仕の心を持つ。その尊い輝かしい献身こそが魂を磨き輝かせ、やがて偉大なる神の御下に登ることを許される

 それが彼女たちが信仰する神の教えであり、彼らの常識であった。


 だから、これは正しいことなのだ。

 他ならぬ神が定めた法理なのだから、この犠牲と献身にこそ意味が存在するのだ。


「……あとどのくらいの人を助けたらいいのでしょうか?」


「そうですね。重態の者はほとんど治療しました。後は自然治癒でなんとかなるでしょう。この街でネリムさまの力を借りることは、以前よりも少なくなりますよ」


「そうですか……」


 クレーエの言葉にも反応が薄いのは、人々を助けたという実感があまりないせいだろう。

 余計な記憶は優先的に消費される。復興の経過や民の状況などについては特に優先度が高い。

 人々の感謝も、命を救った達成感も、とうに何かの奇跡の代償として消え去っている。

 彼女は――日記の聖女は、果たしてどのような心持ちでそれらをなしているのか。

 わずかに残った大切な人たちの記憶と、まったく見に覚えのない数々の出来事が記された日記。

 まるで牢獄に閉じ込められ、一切の情報を遮断されたかのような状況。

 彼女の心は、果たしてどこまで持つのだろうか?


「人々に神の教えを説く事も順調とは言えませんが、進んでおります。皆がまたいつものように暮らせる日は、あと少しですよ」


 その言葉に、リトレインはほっとした様子でぎこちない笑みを浮かべる。

 クレーエもまた、小さな聖女の微笑みにつられ同じくぎこちない笑みを浮かべた。


 二人の間で交わされるぎこちない交流と関係性の育み。

 その内容は、昨日行ったものと全く同じものだった。


(記憶の消費が激しい。――日記を読む回数も増えているし、小職のことについても記憶があやふやな部分が見受けられる。天幕にやってきた時の態度を見る限り、聖騎士たちの記憶ももはや殆どないのでしょう……)


 ネリムの負担はあまりにも大きい。聖女という役職はそのイメージからかけ離れて治療を得意とする者が意外と少ない。

 今は中央でエル=ナーの対処に当たっている依り代の聖女もそのような奇跡に明るいと聞いた事は無いし、行方不明の華葬の聖女と顔伏せの聖女もそうだ。

 エルフたちが要する三人の聖女はどちらかというとそちらの方面に明るいようだが、そもそもエル=ナーがこのような状況にあっては協力を求めることは愚か、生死すら不明だ。

 この状況をなんとかするには現状彼女しか手立てを持つ者はおらず、反面救いを待つ人々は山のようにいる。

 先の言葉通りアムリタの復興に一定の目処が立ったのは事実だ。

 だが周辺の村落に関しては手つかずであるし、他にもまだセルドーチなどの大きめの都市がいくつか残されている。終わりは見えない……。


 あまりにも無力……。

 徒労感ばかり募るが、かと言ってこの状況を巻き返すこと作戦は残念ながらクレーエとて思いつくはずがなかった。

 暗い感情だけが繰り返し湧いては消える中、リトレインが少し歩き疲れた様子を見せ始めた。

 クレーエは少しばかり無理をさせたかと反省すると、近くに民が憩いの場として使用する小さな公園があることを思い出し、設置されたベンチで休憩を取ることにする。


 木漏れ日が二人を優しく包み込み、彼女たちを取り巻く悲劇的な運命をいっとき忘れさせてくれる。

 ここ最近仕事詰めでろくに休みも取れなかった。それどころか異端審問官に任命されてから己を顧みる時間を極端にとっていなかった気がする。

 こういう時間も良いか。そんな風にクレーエが気を抜いているときだった。


「えっと、南の都市が少しおかしいって聞いたんです」


「それは……」


 リトレインから思いもよらぬ質問が投げかけられ、緩んでいたクレーエの気持ちが一気に現実に引き戻される。

 どこから聞いたか気になったが、だが聖女という彼女の立場を考えればいくらでも手段はあろう。

 問題は彼女にその内容を知らせるか否か……だ。

 真実を伝えたところでいずれ奇跡の糧として消費されることは明らかであったが、この場限りであったとしてもこの無垢で献身的な少女にその事実を伝えることは心が痛んだ。


「イムレイス審問官は何か聞いていませんか?」


 純粋で、どこか不安を含んだ、だがはっきりとした意志のこもった瞳がクレーエを射抜く。


「……確かにその報告は受けております。ですがご安心をネリムさま。今まさに小職たちがその対策の会議をしていた所なのです。安心してください。神の導きと慈悲は、未だ陰ることなくこの地に降り注いでいる」


「悪い人が、来ているのでしょうか? 私の力が、必要でしょうか? 善き行いが……」


「大丈夫です。何も心配いりませんよネリムさま」


 その言葉は果たして誰に向けたものだったのだろうか。

 この小さな聖女に向けたものか、それとも自分に向けたものか……。

 それっきり二人の会話は止まり、木漏れ日と小鳥のさえずりだけが二人を優しく包み込む。

 そんな時だった。


「お助け! お助けぇぇっ!」


「「――っ!!」」


 二人の耳に助けを求める声が微かに聞こえてきた。

 ネリムは聖女として昇華されたその強力無比な能力によって。

 クレーエは弛まぬ訓練によって強化されたその身体能力によって。


 互いに軽く視線を交わすと風の如き速度で駆け出す。

 それなりに距離はあったが、二人にとっては障害にもならない。

 やがて入り組んだ街の一角にて二人の足はとまる。


 薄暗い路地の先、どうやら現場はそこらしい。

 変わらぬ悲鳴と何かを殴打する音が聞こえる。おそらく狼藉者による暴行といったところだろうが、万が一があるのでできるだけネリムを連れて行くことは避けたい。


「そこの者、ネリム様を頼みます! ネリム、危険ですのでそちらでお待ち下さい!」

「――あっ。は、はいっ! かしこまりました!」

「そんな、クレーエさん!」


 ちょうど自分たちと同じように悲鳴を聞きつけた巡回の兵士が現れたので、これ幸いにとネリムを預ける。

 本人は不満があったようだが、話を聞いてやる暇はない。

 苦しむ人々がいるのなら助けるのがクオリアの戦士としての役目だ。異端審問官であるクレーエとてそれは同じである。

 薄暗い路地を慎重に、だが素早くかける。

 程なくして何者かを囲む複数の男の姿が見えた。


「何をやっているのですか!」


 叫びながらも剣は抜かない。市民のいざこざで刃物を見せるのはいささか過激にすぎるからだ。

 もちろん相手の態度次第ではあるが、そもそも剣を抜かないからと言ってそこらの一般人に後れを取るほどクレーエは脆弱ではない。

 だが……。


「止めなさ――っ!?」


 彼女はその瞬間、異様なまでの不気味さと奇妙な状況に強い警戒心を抱いた。

 まずひとつ。警告によって振り向いた狼藉者たち全員が虚ろな瞳をしており、口から泡を吹きながらブツブツと何かをつぶやいている。

 次にひとつ。暴行を受けていたと思わしき人物の装いだ。

 大道芸人のような奇妙な出で立ちの装いは、おおよそこの地では見ぬもの。またひょろりと細長い異様な体躯もやけに目につく。

 最後に一つ――。


「おお! クオリアの聖職者さま! 助かりました!」


 ぬぅっと、音を立てずに男が立ち上がる。

 先程まで暴行を受けていたというのに、まるでそれが嘘であったかのように男は平然とその場にたたずんでいる。

 ぎょろりとした瞳が、クレーエを舐めるように射抜いた。


「あなたは……?」


 自然と、身体が動いた。

 腰を落とし利き手を剣の柄へとやる。ふぅっと小さく吸い込み、全身に力を張り巡らせる。


「吾輩はヴィットーリオ。幸福なる舌禍ヴィットーリオ」


 男が恭しく礼をする。

 胴に入ったその仕草は、芝居じみていてどうにも誠実さに欠けていた。

 ああ、言われずともわかる。

 語られずともわかる。

 眼の前のその男が何者であるか、不気味なまでのその様相の答えなど一つしかない。


「マイノグーラの方からやってきた、ヴィットーリオでございますぅ!」


 ――最後に一つ。

 その身から発せられる強烈なまでの邪悪の気配。

 彼女たち聖なる者の天敵が、唐突に、すぐ目の前にいた。


「――神よ! 我が剣に悪しき者を打ち倒す力を!」


 その剣の閃きは、速く、何よりも鋭かった。

 南方州聖騎士団団長フィヨルドの薫陶熱きその聖剣技は、邪悪なる者の存在をその一片たりとも許すことなく、神の御意志を持って冷酷なまでに命を刈り取ろうとする。

 実力で言えば上級の聖騎士に勝るとも劣らぬその一撃は、通常の魔であれば相手が認識する前にすべてを終わらせるだろう。


 そう、通常の魔であれば、の話だ。


 相手は、様々な意味でその範疇の外を闊歩するものであった。

 ……イムレイスが突然の敵に動揺していたことも事実。

 そしてその動揺が光のごとき速さの抜刀に一点の曇りをもたらしていたことも、また事実。

 とは言え……。


「んぬぉぉぉぉ!? 緊急回避ぃっ!!」


 おおよそ人外じみた、――人外の化生ですらそのような動きはせぬだろうという奇妙なくねくねとした動きで、その者はクレーエの攻撃を躱す。

 必殺の一撃が外れたことに一瞬驚愕するクレーエ。だが一撃にすべてを込めた訳では無い。相手の体勢も崩れていることから返す刃で今度こそ致命の一撃を与えんと力を込める。

 しかし……。


「ストップ! すとおおおおっぷ! 待たれよお嬢さん! 待って! 待ってくださぁぁぁいっ! 止まるのですぞ苛烈なるお嬢さん!」


 刃が空を切る。

 当てなかったのではない。当てられなかったのだ。

 渾身の二撃が外れたことでクレーエは一旦距離を取る。彼我の力量差を測りかねているのか、援護を呼ぼうとしたのか。それは本人にしかわからない。

 だが確実に言えることは、その男――ヴィットーリオが言葉を語るだけの余裕が生まれたという事実だ。


「ぜぇっ、ぜぇっ、ち、ちかれた……。吾輩こんなにも大声で叫んだの生まれて初めてっ」


「何か言い残すことは?」


 言葉は強いが、クレーエは内心でどのように対処すべきか迷っていた。

 相手はここアムリタを滅ぼした破滅の王が治めし国家マイノグーラの者だと名乗っている。

 加えてその身からにじみ出る邪悪な気配は相手を凡百の尖兵や斥候と断じるにはいささか強烈に過ぎた。

 よもやこの都市にまで手が伸びているとはいささか信じがたかったが、こちらが後手に回っている間に相手が多くの都市と村落を手中に収めているであろう事はクレーエも否定できぬところだ。

 つまりこの遭遇は必然。

 だがまさか覚悟もせぬうちにこのような場で命をかける戦いを強いられるとは思ってもいなかった。

 背後に残したネリムの身を案じながら、クレーエは緊張のあまり呼吸を浅くする。

 しかし、彼女の決意とは裏腹に、自体は思いもよらぬ方向へと進んだ。


「降参であります! 降伏でありますっ! お慈悲をっ! 圧倒的なお慈悲をぉぉぉっ!!」


 男が……敵であるはずのヴィットーリオが突然土下座をして慈悲を乞うてきたのだ。

 頭を必死に擦り付けるその姿は、剣を振れば容易に首を刈り取れるであろう無防備なもの。

 相手が魔の者とは言え、その情けない姿にクレーエも困惑とともに激昂する。


「世迷い言を!」


 叫ぶ言葉が続かない。このような奇天烈な行動を取られたことがないからだ。

 経験不足と断じるのはいささか酷だろう。

 なぜなら相手は舌禍の英雄。このような絡め手こそを得意とする者なのだから……。


「吾輩は降参です! 逃げも隠れもしません! お縄に付きます! 付きますがゆえにぃ、正々堂々と、会話に応じることを望みますぞぉぉぉぉ!」


「…………は?」


 素っ頓狂な声が漏れる。それしか返答ができなかった。

 よもやそんなことを言い出すとは思いもよらなかったがゆえの空白だ。

 もし相手がクレーエの隙を作り出すためにこのような茶番を演じていたのだとしたら、間違いなくこの瞬間クレーエはその生命を散らしていただろう。

 だがそのような結果にはならない。

 なぜなら最悪なことに、相手はかのヴィットーリオなのであるから……。


「吾輩、非暴力主義なので!」


 にっこりと、屈託のない笑顔を浮かべる。

 何故か無駄にキラキラとした純粋無垢な瞳でこちらを見つめてくるヴィットーリオにクレーエは動揺したまま硬直している。

 もっとも、そのような反応を見せる者の相手は慣れたものなのか、余裕をなくしている間にヴィットーリオはどんどんと自分の主張を述べていく。


「応じて頂けますよね? あなた方の教えによると神は暴力では無く対話を尊ばれるとされるのですからっ!」


 剣を握れと理性が訴える。

 邪悪を切れと心が叫ぶ。

 この者の話を聞いてはならないと、己の内にある信仰心が語りかけてくる。

 だが……


「聖神アーロスの教示、第二典四章の四、聖なる神は人々を集めこう告げられた。『暴力を遠ざけ、降伏を選択した者に剣を向けてはならない。それは咎人であっても同じである』。すなわち降参した者に危害を加えることを禁止する聖神アーロスが定めし掟」


 ああ、邪悪なるその者から神の法理が語られる。

 これほど絶望的なことがあるだろうか?


「そうでしょう?――クオリア異端審問局筆頭審問官、クレーエ=イムレイス殿ぉ?」


 闇の手は、気づけば彼女のすぐ目の前までやってきていた。

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