閑話:新都市長
マイノグーラとの衝撃的な会談が終了したフォーンカヴンの都市ドラゴンタンでは、その狂宴の熱冷めやらぬかの如く、続く都市譲渡に向けて山のように残った残務処理に追われていた。
業務の引き継ぎはもちろんのこと、残った数少ない市民への説明や意思確認、国内外の事業者との取り引きに関する折衝、フォーンカヴンの名義で行っていた各種約定の精算。
市庁舎の職員たちも必死でやっているが、業務は遅々として進まない。
すでにマイノグーラ側からの人員も多数派遣されているが、彼らもまた一様に疲れ果てた顔を見せながら業務の処理を行っている。
何をもってしても、都市の移譲とは労力のかかるものなのだ。
元ドラゴンタンの都市長であるアンテリーゼも、都市譲渡に向けた様々な業務を引き続き行っていた。
むしろドラゴンタンには彼女でしか分からないことが多すぎるがゆえに、今現在この街で最も働いている人物と言っても過言ではない。
都市の統治システムが未成熟で無駄が多すぎるがゆえの弊害であったが、そんなことを言った所で本人の目の前にある仕事の山はなくなるはずもなく、結局彼女は今日も疲れた表情で働く。
「あ゛~、ぢかれたー……」
すでに何連勤になるだろうか? 自宅の光景がすでに記憶から薄れかけているアンテリーゼは、まるで病人のようにヨロヨロとおぼつかない足取りで都市長室へ入室するとその椅子にどかりと座る。
明らかにオーバーワークではあるが、なまじ責任感があるために仕事を放棄することもできない。
難儀な自分の性格を理解しつつも濁流のように激しく移り変わる周りの状況に流されるよう日々を過ごす。自分で選んだ道だが、なにもここまで厳しくしなくてもいいだろうと思わず運命を呪ってしまうのも仕方のないことだろう。
そんな訳だから息抜きは必要だった。特に今のように何日もろくに寝ていない状況であれば、今後の業務の為にも強い気つけが必要である。
「うふふ、私はいっつも頑張ってるわ。けど仕事はいつまでも終わらない。こんな時こそ……」
誰に向けてでもなく、まるで言い訳をするかのように一人つぶやく。
その声音がどこかウキウキしているのは気の所為ではない。
なぜなら彼女が今からやろうとしていることは……。
「飲まないとやってられないわねっ!!」
ドンと執務机に置かれる陶器製の酒瓶。
アンテリーゼは、この重大かつ重要な時期に真っ昼間から飲酒を決め込むつもりであった。
タタンと呼ばれるこの酒はドラゴンタンで収穫される根菜や雑穀を用いて作られる非常にポピュラーな酒だ。
アルコール度数的には1%~2%程度。そこまで強い酒ではないが、もちろん大量に飲めば酔いはするし、そもそも度数が低ければ仕事中に飲んでよいというわけでもない。
「ひゃー! この瞬間のために私は生きてるのよ!」
都市長としてフォーンカヴンの本国と杖持ちから信頼を置かれ、同時にこの悪癖がなければ最高だがと苦言を呈される趣味が、この過度な飲酒だ。
無論苦言を呈される訳だから酒癖が良いわけでもない。絡み酒だし愚痴酒だし泣き酒だし笑い酒だ。
なおこの悪癖が原因で今までお見合いに数度失敗していることはドラゴンタンで決して口にしてはならない事実である。
多少欠点がある方が美人は付き合いやすいとは誰が言ったかわからぬが、少なくともアンテリーゼの欠点は多少どころの話ではなかった。
きゅぽんと酒瓶より口を離し、プハァと酒精のこもった息を吐く。
気分は上々、気合再充填。
これでもうしばらく労働に精をだせるだろう。
フォーンカヴンが誇る才女が仕事中に飲酒を決め、無駄に上がったテンションで次の仕事に取り掛かろうとした時だった……。
トントンと、都市長室の扉がノックされる。
「ひゃ、ひゃい! どうぞ!!」
後ろ手に酒の瓶を隠しながら、取り繕った笑みを浮かべる。
普通ならこのようなことはせず職員の前でも平然と酒を飲み開き直るアンテリーゼだったが、現在ここにはマイノグーラが派遣した人員や本国の杖持ちがいる。
これら見られるとまずい人たちだった場合を考慮し、彼女は先程のような態度を取ったのだ。
そしてどうやら彼女の危機管理能力はその都市運営能力同様に高かったらしい。
扉からゆっくりと現れたのは、彼女の名目上の上司である杖持ちのトヌカポリだった。
「ト、トヌカポリさま、ど、どうしたのかしら、おほほほ」
取り繕った笑顔を浮かべるアンテリーゼ。
だがそのあからさまな態度にトヌカポリはすぐさま眉をひそめる。
先程の密かな楽しみは完全にバレている様子だ。
「あんた、また仕事中に飲んでたね」
「き、気のせいではありませんこと?」
気の所為ではなく、完全に露呈している。すでにトヌカポリの視線は彼女の背後からひょっこり顔を出している隠しきれていない酒瓶へと注がれている。
とは言えトヌカポリもアンテリーゼの状況は知っているし、言ったところで直るわけでもないことは今までの経験上明らか。ゆえにため息を吐くだけで済ませる。
何よりトヌカポリは客人を伴っていた。彼女を待たせる訳にはいかない。
「まぁいいさね。今日は少しアンタに話があるのさ。ささっ、入ってくださいな」
「お邪魔します」
現れたるはダークエルフの女性。邪悪な勢力の重鎮にしてはやけに謙虚で丁寧な態度で入室してきた彼女は、ともにドラゴンタン譲渡に関する業務で奮戦するエムルであった。
「あら、エムルさんじゃないの! いらっしゃい」
「はい、こんにちはアンテリーゼさん」
ドラゴンタンの譲渡が正式に決定してから、エムルはこちらにつきっきりで作業にあたってくれている。
ダークエルフとエルフという関係ゆえにはじめはぎこちなかったのだが、そこはダークエルフ排斥に関与する前に故郷から出立していたというアンテリーゼの出自がうまく作用した。
共に重要な役割にあり、相談を行う中ですぐに打ち解けあった二人。
歳も近いことからまるで友人のような間柄になった相手にアンテリーゼは笑顔を浮かべながら歓迎する。
だがここではたと気づく。
トヌカポリとエムルが同時に来室するということは、何やら問題が発生したと考えても良い。もしくは何か重大な決め事を行うか……。
唐突な来訪に困惑しながらも、少しばかり嫌な予感を抱いたアンテリーゼは探るように身構える。
「えっ、もしかして何か重要な話? 今の所問題は起きていないはずだけど……」
「実はね、時期都市長について選定が難航していてねぇ……」
「ああ、確かに。うちでマイノグーラに移住決めている人にも任せられるような人材はいないし……」
ドラゴンタンの移譲における様々な問題の中で解決の優先順位が高いのがこの都市長の問題だった。
先の戦争で多くの人材が流出している上に、そもそもフォーンカヴンにおける教育水準は未だに諸外国に比べ低く、都市運営業務につける人材は常に不足している。
加えてマイノグーラへの転籍を国民へ確認する業務も滞っている。
すでに行政機能はボロボロとは言え……だからこそ、早急な新都市長選定と立て直しが必要だった。
アンテリーゼは如何ともし難い問題に頭を悩ませながら、チラリとエムルへと視線を向ける。
こればっかりは努力や徹夜でどうにかなるものではない。むしろ都市移譲先であるマイノグーラ側にこそ、積極的に都市長を出してほしかった。
「実はマイノグーラ側も似たような状況でして……ドラゴンタンに住まう人々の文化や風習を理解し、起こるであろう問題を円滑に解決できることという条件を考えるとなかなか適任がいないんです」
「大変ねぇ~」
今までの流れからなんとなくそう返答が来るであろうことは理解していた。
マイノグーラには優秀な人材が多数在籍している。目の前で困った表情を浮かべているエムルを始め、モルタール老やその部下達。
マイノグーラとその王であるイラ=タクトの指導を受けた彼らなら、フォーンカヴンが見たことも聞いたことも無いような革新的手腕でドラゴンタンを治めることができるだろう。
むろん、彼らにその余裕があればという前提である。
当然、その様な余裕は何処にもない。
故に今の困った状況が発生しているとも言えた。
とは言えアンテリーゼに責は無いし加えるならば解決策もない。こればっかりはお手上げ状態にも関わらず、何故二人はこの案件をわざわざ持ってきたのだと訝しむ。
「それでね、エムル殿と二人で話してたんだが、ちょうど良い人材がいるんだよねぇ」
「えっ? そうなんですか? じゃあすぐにでも紹介してほしいわトヌカポリさま! 引き継ぎとかもあるし、時間はいくらあっても足りないのよ」
どうやら彼女の知らぬ間に適任が発掘されたらしい。
おそらくフォーンカヴンの文化や風習に明るいダークエルフの人材でも掘り当てたのだろう。
頭を悩ませていた問題があっけなく解決したことにアンテリーゼは気を良くする。
これで溜まっていた引き継ぎ業務がすぐに処理できる。
…………フォーンカヴンにおいて有数の知恵者であるはずの彼女がその可能性に気づかなかったのは酒で気分が良くなっていたからだろうか。
アンテリーゼはエムルとトヌカポリの二人がゆっくりと、だが同時に自分を指差したことで、ようやく彼らがどの様な作戦を実行に移そうとしているのか理解に至る。
「……ちょっとまって、その指は何かしら? エムルさん、トヌカポリさま……嘘ですよね?」
「それが、嘘じゃないんだねぇ」
「えっと、ごめんなさい。アンテリーゼさん以外適任がいないんですっ!」
ペコリとエムルが申し訳無さそうに頭を下げ、ようやく気づいたのかいとばかりにトヌカポリが呆れ顔でため息を吐く。
アンテリーゼの体に残っていた酒精が一瞬で何処かに霧散し、同時に冷や汗がダラダラと顔面から噴出してくる。
考えうる中で、最悪の解決策だった。
「ぎゃああああ! 嫌よ嫌! 私はこの仕事が終わったら無駄に貯まりまくったお金でダラダラするって決めてるのよ! まだ見ぬお酒が私を待ってる! 私はもう十分働いたの! もう胃を痛める日々とはおさらばするの!」
「騒ぐんじゃないよ。あんたも薄々感づいていたんだろ、自分以外に適任がいないって」
「そ、そこをなんとか。私もアンテリーゼさんが都市長になってくれるとすごく頼もしいんです」
「確かにエムルさんと一緒にお仕事できるのは魅力的よ、お話も結構合うしね! トヌカポリさまの言うことも一理あるわ! けどそれとこれとは違うの!」
暴れながら己の主張を叫ぶ。確かにその可能性は考えていた。
自分が都市長になれば面倒な引き継ぎもないし、機能不全になった行政機構の再編成も速やかに行える。
マイノグーラが持つ軍事力と経済力を用いればきっと都市の立て直しも他の者より数倍は早くこなせる自信が去勢ではなく事実としてある。
エムルやモルタール老などの国家の中枢人物たちとそれなりに知古を得ていることもやり取りの円滑化を生むだろう。
だが、だとしても、光の妖精とまで呼ばれたエルフが闇の勢力に落ちるのは忌避感がある。
何よりもう働くのは嫌だった。アンテリーゼは働きたくなかったのだ。
まるで駄々っ子のように叫んでジタバタするアンテリーゼ。
酒瓶を抱きしめ涙目で部屋の隅へと対比する彼女に、トヌカポリは冷たい視線を浴びせながらエムルへと向き直る。
「こう言っておるが、どうするさね?」
「し、しかたありませんね……最終手段を取ります」
「な、なによ!? ひ、ひどいことしようって言うんじゃないでしょうね!!」
最終手段という言葉にビクリと体を震わせるアンテリーゼ。
相手は同盟国とは言え邪悪なる国家マイノグーラだ。もしや口にするもはばかる恐ろしい手段を用いるのではないか。
そう例えば拷問じみた……。
数日前に見た光景、破滅の王イラ=タクトの姿を思い出しアンテリーゼは途端に不安になる。
だが、彼女は良い意味で想像を裏切られた。
「王からアンテリーゼさんに新都市長就任祝いのお酒を預かっております。――すいませーん! 運んでください!」
エムルの呼び声とともに都市長室に運ばれて来たのは、木箱に入った大量の瓶であった。
「えっと……これは?」
恐る恐る中を覗き込みながら尋ねる。エムルが先程発した言葉が正しければ、どうやら酒らしい。無論、マイノグーラ産であろう。
「神の国の酒と言われるものです。こちらを我らが王イラ=タクトより新生ドラゴンタンの都市長に就任されたアンテリーゼさんへの祝い品として預かっております」
思わずゴクリと喉が鳴る。
エムルが木箱から一本を取り出し、ドンとテーブルの上においた。
ひと目で分かる。明らかに自分が知っている酒の概念とは別の次元に存在するものだ。
まず容れ物がおかしい。彼女の国で酒と言えば大抵陶磁器でできた容れ物に入っている。
高価なものであればそれなりの見た目をしているが、あくまでそこらで購入出来る程度のものである。
だがこれは違う。材質はおそらく硝子。しかも恐ろしいほどの透明感を持つものだ。
硝子はクオリアなどの北部大陸では比較的流通しているものだが、基本は宝飾品の意味合いが強く何より非常に高価だ。
加えてこの透明度。クオリア辺りで同じものを買えばそれこそ一般的な市民の年収位はするだろう。少なくともただの酒瓶に使って良いものではない。
そして何よりも酒そのものが異常だった。硝子の透明度もさることながら、その中に入っている酒の透明度がおかしい。
そこらから水を入れてきましたと言われても信じてしまうほどの透明度だ……いや、水と言われても信じることはできないだろう。
なぜならたとえ水であってもこの不毛の地にあってはあれほど清涼さと透明感のあるものはほぼ存在しないと言っても過言ではないのだから。
これが酒だとするのであれば、どれほどの純度、どれほどの卓越した製法で作られているのか。
少なくとも彼女が先程まで飲んでいた白濁した雑味の多い薄い酒とは比べ物にならない。
「今回のお話を受けてくださったら、是非こちらを受け取っていただきたいと思って持ってきました」
アンテリーゼは確信する。
これは先日彼女が見せつけられた"銃"と呼ばれる兵器の酒版だ、と。
マイノグーラの王が自らの名前で送ってきたものが、生半可なものであるはずがない、と。この未知なる酒は、どれほどの衝撃を自分にもたらすのだろうか?
邪悪なる国マイノグーラ、破滅の王たるイラ=タクトはなんとも恐ろしき方法でアンテリーゼを攻落にかかったのだ!
「だ、だめよ……いくらそんなもので釣ったってはいとは言えないわ。だ、だって新しい都市長になるってことは、私もマイノグーラと同じ邪悪な存在になるってことだもの……」
なんとか喉から言葉を振り絞るアンテリーゼ。
彼女の心に残った正義の炎が、邪悪なる誘惑を退けていた。
悪には決して屈しない。強い意志が彼女には存在している。
なお視線は酒に釘付けであり、口からはよだれがつつとこぼれている有様だ。
そんなアンテリーゼに向かって、エムルは思わせぶりに問いを投げかける。
「邪悪になると……どうなると思いますかアンテリーゼさん」
「えっ、そ、そりゃあやっぱり人を殺しても平気とか、敵に対して容赦ないとか。世界の破滅を望むとかそういうことかしら?」
根本的な質問にアンテリーゼも思わず頭に疑問符を浮かべる。
確かに邪悪になるとはどういうことだろうか? 彼らが敵対するものに慈悲が無いことは今までの交流でよく知っている。
言葉の節々に王への忠誠と自らの平穏を脅かす者達へのすさまじい憎しみがこぼれていることからもそれは間違いない。
だがどうやらエムルが言いたいことはまた別にあるようだった。
首をかしげるアンテリーゼにエムルはふっと微笑みかける。
そして今まで見たこともないような邪悪な笑みを浮かべて、世にも恐ろしいことを言い出した。
「邪悪な都市長は、仕事中にお酒を飲んでも怒られません」
「なっ、なんですって!?」
衝撃が、アンテリーゼの脳を揺らした。
「当然ですよアンテリーゼさん。なぜなら我らは邪悪な存在ですから、仕事さえ出来ていれば道徳や作法に縛られることはないのです」
驚愕の一言である。
なんと恐ろしく、なんと傲岸不遜な言い草だろうか!
だが彼女たちは邪悪なる存在。人の理から外れた者たち。どうして一般的な常識で語ることができようか。
「そして就業時間もまた邪悪なんですよアンテリーゼさん。なんとお仕事が残っていても日が暮れたらお家に帰って良いんです!」
「う、う……そ、そんな悪魔的所業が許されるなんて」
「緊急時以外において業務が貯まり処理が滞るのであればそれは人材の問題ではなく仕組みや配分の問題。その問題は都市長の努力にて解決されるものでなく、抜本的な見直しと変更が必要とされるより上位の者が処理すべき問題です」
だから――定時で帰っていいんです。
その言葉を聞いたアンテリーゼは思わずその場にへたり込んでしまう。
恐怖、もとい羨望のあまり腰が抜けてしまったのだ。
「もちろん、毎週必ず一日は休みがあります。邪悪な我が国では仕事はなるべく効率化してさっさと処理し、残った時間でダラダラしようと言うのが一般的な考えなんです」
「そんな、でも、私は……」
アンテリーゼの心がグラグラと揺れる。ちらっと見たトヌカポリは絶対零度の視線をアンテリーゼへと向けていたが、特に何も言ってこないのでとりあえず無視する。
今重要なのは新しい雇用主が提供する実に魅力的な労働条件に関してだった。それ以外は余計な事柄である。
「そういえば、私も王よりお使い代として特別にお酒を頂いていたのでした。失礼しますトヌカポリ様」
「ちょ、何してるのエムルさん、まだお昼だわ!」
懐からまた別の酒瓶を取り出し、キュポっとその蓋を開けるエムル。
ふわっと香る上質な香りに一瞬うっとりと心を奪われるが、慌てて正気に戻りエムルへと叱咤する。
彼女は仕事中に酒を飲もうとしてるのだ。それも堂々と。アンテリーゼたちの目の前で。
祖霊の怒りをも気にせぬ、恐ろしい所業であった。
「面白いことを仰るんですねアンテリーゼさん。先程言ったじゃないですか。マイノグーラは邪悪だと。だから私も……お昼からお酒を飲むんです」
「あ、ああ……ああ、だめよアンテリーゼ。闇の誘いに負けないで……」
香りだけでわかる。あれは極上の酒だ。こぷこぷと小さな杯に注がれる液体はやがてエムルの喉を通ってその胃の腑へと落ちていく。
ふぅっとため息とともに吐かれる強い酒精の芳醇な香りと、エムルの恍惚とした表情。
目の前に極上の酒があるという事実が闇の抱擁となってアンテリーゼを包み込み、深淵へと引きずり込もうとしている。
「くぅっ! 相変わらずすごく美味しい! さすが神の国のお酒です! あっ、トヌカポリ様もいかがですか? 互いの国の友好の証にどうぞ一献」
「お、こりゃ悪いねぇ。ではお言葉に甘えて」
なんたることか! トヌカポリまで酒を飲み始めた!
フォーンカヴンでは仕事中に酒を飲むことはよくないとされるとは言え、国家の客をもてなす時はまた別である。
ここでエムルの酒を断ることは逆に無礼となる為、トヌカポリが酒を飲むことは至って普通の外交作法だ。
だが理性で理解したとして心情で納得できるかはまた別の話である。
単純にアンテリーゼはトヌカポリが羨ましかった。
「こ、こりゃすごい!! 極限まで澄み渡った清水の如き飲みごたえに、喉にカッとくる酒精の深み。いや、酒の概念が崩れるよ!」
「飲みやすい割にすごく強いお酒なので気をつけてくださいね」
「ああ、そうさね。まさに神の酒という名にふさわしい逸品だよ!」
「くっ、ぐぬぬぬぬ!」
アンテリーゼが歯ぎしりをする。
トヌカポリがすでに自分への説得を忘れ酒に夢中になっているのがよく分かる。
長きを生き、世の酸いも甘いも噛み締め、よほどのことでは動じないあの老杖持ちがここまで驚きと喜びを顕にするとは、神の国がもたらした酒とはいかほどばかりの名品か。
苦渋に満ちたアンテリーゼに向かって、エムルはやや上気した頬で蠱惑的に誘う。
「どうですアンテリーゼさん。神の国のお酒、飲みたくありませんか?」
「屈しない! 私は絶対に屈しないんだから!!」
アンテリーゼは叫ぶ。
エルフとしての誇りを胸に抱き、決して悪に飲まれることはないと高らかに正義の心を邪悪なる者へと突きつけるのであった。
………
……
…
「マイノグーラばんじゃーいっ!!」
アンテリーゼは悪に屈した。
そもそもが故郷から半ば喧嘩同然で家出してきたような娘だ。真面目や道徳と言った言葉からは残念ながら少しばかり遠かった。
だが今の彼女に後悔は無い。マイノグーラの王――自らの王となったイラ=タクトより賜った酒は極上の逸品と呼ばれる程のものであったし、もうこれからは誰に咎められるでもなく昼間から酒が飲める。
今のアンテリーゼは輝いていた。人生で一番、輝いていた。
「で、出来上がってしまいましたねぇ」
「いい子なんだけど、酒癖だけは悪いんだよこの娘は」
呆れたように酒を呷るトヌカポリ。この結果を望んで仕向けたわけだが、アンテリーゼのご機嫌極まる様子を見ているとなんとも釈然としない気持ちになる。
「本当にいい酒だねぇ。あの飲んべぇにやるのがもったいないくらいだよ」
これで重要な課題の一つが消化された。
アンテリーゼの性格だ、マイノグーラに移っても楽しくやっていけるだろう。
むしろ先進的なかの国の統治手法を学び、さらなる飛躍を遂げるかもしれない。
どちらにしろ……今の彼女を見る限り憂いはないように思える。
少しばかりの寂しさを感じながら、トヌカポリはアンテリーゼの情けない姿を眺める。
「しかしよろしかったのでしょうか? アンテリーゼさんはフォーンカヴンでも相当重要な人材だと思いますが、我が国に誘ってしまって……」
「まぁこればっかりは仕方ないさね。実際あの娘がドラゴンタンにいてくれたほうがこちらも話がいろいろ通しやすくて助かるんだよ。顔見知りの好で便宜を図ってくれるかもしれないしね」
実際のところ、フォーンカヴンがアンテリーゼを差し出すのは少々つらいものがある。
彼女の力量であれば本国で活躍する場など山ほどあるだろう。
だがもはやドラゴンタンという街はただの一都市ではなく、フォーンカヴンとマイノグーラ両国にとって最重要視されるべき街へと変貌しているのだ。
今後の両国との円滑な交流を続け他の強国や驚異に当たるためにも、この街の立て直しは急務である。
そして現状最良とも言える適任がいるのであれば、その人物を都市長に据えない理由はどこにもなかった。
アンテリーゼもどこかでそれを理解し、あえて道化を演じてくれているのかもしれない。
でなければそう安々と闇の属性に落ちるなどという選択を取るはずがない。光の妖精とまで呼ばれたエルフがその決断を下す覚悟はいかほどばかりか。
だとすれば彼女には辛い選択をさせたかもしれない。
「ふふふ、じゃあ私達はアンテリーゼさんが昔のことを忘れちゃうくらい。いっぱい甘やかしちゃいますね」
エムルの可愛らしい言いぐさにトヌカポリもクスリと笑う。
案外大丈夫かもしれない。マイノグーラが身内にとても甘く仲間を大切にすることはよくよく理解している。
きっとあの子も幸せに暮らせるだろう。
なによりマイノグーラとフォーンカヴンが同盟国である限り、嫌でも顔をあわせる機会はある。
トヌカポリは寂寥感を振りほどき、話題を変える。
「ついでにあの子の旦那も探してやってくれれば嬉しいんだけどねぇ……」
「旦那……結婚相手ですか? 失礼ですが、アンテリーゼさんはご結婚されていないので?」
「そうなんだよ。あの子ったらいつまで経っても結婚しないんだよ。まぁあの性格だからできないって言う方が正しいんだろうけど」
「そ、そうですね……結婚できたら、い、いいですね」
何処か言い淀んだ曖昧な返事におやとトヌカポリはエムルを見る。
そうして、この可愛らしいダークエルフの女性が目を反らしながらバツが悪そうにしている様子を見て全てを察する。
仕事ができすぎる女性が男性から遠ざかるという問題は何処の国でも同じらしい。
どうやらアンテリーゼの結婚への道はまだまだ長そうだ。加えてエムルも。
「私の時代がやってきたわよぉ! 仕事中に堂々と飲むお酒さいこーっ!!」
ベロンベロンに酔ったアンテリーゼが一升瓶を掲げて叫ぶ。
願わくばこの二人に良い出会いがあることを。
トヌカポリはそう密かに祖霊へと祈るのであった。
=Message=============
アンテリーゼ=アンティークがマイノグーラに移籍しました。
偉大なる指導者のもと、マイノグーラを讃えよ!
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