第7話

 風見優の取り巻きの少女の一人――烏谷からすやは嫌な気持ちになっていた。不快とも食傷とも少し違う。ただただ嫌な気持ち、としか言いようがなかった。


 入浴を終えてパジャマ姿になった烏谷はリビングに顔を出す。妙な焦燥感に駆られながらARフォンを左耳に付けると視界の端に時刻が表示された。22時20分。夕食を終えた家族は既に皆、自室に戻っている。

 

 ガラスのコップに麦茶を注いで、一気に飲み干した。深い息を吐く。喉の渇きはちっとも癒された気がしない。


 ここ数日、烏谷はずっともやもやとした思いを抱えていた。烏谷がこびを売っている風見は負け組だ。風見は美人だし、頭もいい。なんとかいうIT企業の社長令嬢だというのだから家柄いえがらもいいのだろう。


 だが、それでも風見は負け組なのだ。そもそも本当の金持ちは烏谷たちと同じバーチャルスクールになど通わない。金持ちの子息にとっては現実世界の学校に通うことが一つのステータスになっている。


 コスト削減のために生み出されたバーチャルスクールだが、裕福な人々にはあえてコストをかけることこそが贅沢ぜいたくなのだろう。その気持ちは烏谷でも分からなくはなかった。


 だからこそ、烏谷たち庶民と同じバーチャルスクールに通う風見は白い目で見られていた。お金持ちの家の子なのにリアルの学校に通わせてもらえない可哀想な子なのだ、と。


 風見の親にとっては普通の子供と同じ環境で生活させたいだとか、教育方針もあったのかもしれない。だが、風見本人にしてみればきっと全て余計なお世話だったろう。


 そんな境遇だから風見自身も下手を打てば周囲から孤立しかねなかった。だが、風見は世渡りが得意だった。バーチャルスクールの学校内でも彼女は上手に立ち回った。


 そういう子だということが分かった瞬間、烏谷はもう一人の女子生徒――猫塚ねこづかとともに風見にすり寄った。発言力や権力の強い者のそばにいるのは何かと便利だ。風見は役に立った。


 だが、それは烏谷がそういう性格だったからだ。別に一般的な価値観ではないというのも分かっている。VR世界では、人間関係が煩わしければミュートやブロック機能を駆使すれば事足りる。当然、風見を意に介さない生徒も多い。


 それは、仕方のないことだと思う。そういう時代なのだ。だから、だろうか。風見が魔女だとか呪いだとか言い出したのは。


 他の生徒をからかったり笑い物にするのはいい。向こうからシャットアウトすることもできるのだし、これは示威じい行為の一種だ。だが、あんな方法で三國を登校できないようにするのはやり過ぎだと思う。あれではただの犯罪だ。


 しかも、三國の一件を機に、風見は歯止めが効かなくなっているようだった。次は三國と仲の良かった柳崎りゅうざきという女生徒に目を付けたらしい。


 自分の気に入らない生徒が一人もいなくなるまで続けるつもりなのかもしれない。友達でいるメリットよりも、デメリットの方が多くなってきたなと思う。烏谷は普通の権力があればそれで良かったのだ。どうにも嫌な気持ちだ。


 ――ガタン、と。玄関のドアが開く音がした。


 静まり返ったリビングに音が響く。烏谷は飛び上がりそうになった。不審者、ではあるまい。夜はいつも玄関を施錠してある。誰かがコンビニにでも行っていたのだろうか。昔はコンビニエンスストアは二十四時間営業だったと聞くが、営業時間が短縮されてからしばらく経つ。買い物に行くなら0時に店が閉まる前しかないから、あり得ない話でもない。


 玄関に何者かが立っている気配がする。しかし、気配は一向にそこから動こうとしない。何か妙だ。


「お母さん?」


 試しに玄関に声をかけてみる。すると、ずるずると引きずるような音を立てながら何かがこちらに近付いてきた。


「お母さんでしょ?」


 ずるずるという音は止まらない。徐々にリビングに迫ってくる。おかしい。


「ひっ!?」


 つい声が漏れた。リビングのドアは半開きになったままだ。アレをここに入れてはいけない気がする。烏谷は半ば突進するような形でドアを思い切り閉めた。


 どさり!

 

 ドア越しに重い感触が伝わる。衝撃からして、烏谷の半分ほどの背丈しかない。人間ではない。


「嫌っ!」


 思わず大きな悲鳴が出た。その悲鳴に反応したのか、扉の向こう側にいるものが床をいずり始めた。烏谷は体重をかけてドアを押さえつける。


 ドアの向こう側から何かを引きずるようなずるずるという音と低いうなり声が聞こえてきた。


 「帰って……!」


 そう念じながら必死に目をつむった。これが、風見の言っていた呪いだというのだろうか。いや、そんなはずがあるものか。あれは呪いなどではない。それに、烏谷には風見に呪われる理由などない。


 もしや、風見を疑ったことがいけなかったのだろうか。風見は相手が心の中で何を考えているのかすら分かるというのか。それでは、本当の魔女ではないか。扉の向こうにいるのは本物の化け物か。烏谷はドアを押さえる手にいっそう力をこめる。


「どこか行ってよ……!」


 どれだけそうしていたろう。いつの間にかドアの外を走り回る音が聞こえなくなっていた。そっと目を開ける。


 視界の端に出ている時刻表示は五時になっている。もう夜が明けていたのか。小さく溜息を吐く。外のアレはもういなくなっただろうか。烏谷は恐る恐るドアノブに指先で触れる。


「あなた、そんなところで何してるの?」


 向こうから聞こえてきたのは聞き慣れた母親の声だ。朝になって起きてきたに違いない。


「お母さん……!」


 烏谷は慌ててドアノブに手をかける。


 ドアを開けると、そこには青黒くぶよぶよとした小柄な者が立っていた。肩の辺りから伸びた両腕だけが異様に長い。垂れ下がった肉の塊のような口が上下に開いた。


「あなた。そんなところで何してるの」

 

 目の前の廊下は真っ暗だ。視界の端の時刻表示も22時20分のままだった。ああ、まだ夜じゃないか。騙された。


 青黒くぶよぶよとした者は細長い両腕を引きずりながらこちらに近付いてくる。不格好な腕が床に擦れてずるずると音を立てていた。


「あなた。そんなところで何してるの」

 

 ずるずる。

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