第4話 光武帝と曹操

東漢(後漢)の光武帝(こうぶてい)は数多くの名言を遺している、そのうちの1つが


後漢書(ごかんじょ) 巻十七 馮岑賈(ふうしんか)列伝 第七 岑彭(しんほう)伝の 


「人苦不知足、既平隴、復望蜀。每一發兵,頭鬚為白」


訳)人は満足する事を知らずに苦しみ、既に隴 (ろう) を平らげて、復 (ま) た蜀を望む。(私は)一たび兵を発するごとに(心が落ち着かず)、髪やあごひげに白いものが増えるのだ。


という言葉であり、これは人の欲望には限りがないことを例えたもの。


だが光武帝は上記のような名言を残しながらも、なぜかギャグセンスは無く、愛妻の陰麗華(いんれいか)にそのつまらなさを指摘されており(笑)


また晋書(しんじょ)


卷一 帝紀第一 高祖(こうそ)宣帝(せんてい→司馬懿(しばい)の事)


魏武(ぎぶ→曹操)曰く「人苦無足,既得隴右,復欲得蜀!」


訳)「人は満足しない事に苦しむ。既に隴(ろう)右を得た、その上蜀を得る事を欲するのか!」


との魏(ぎ)の曹操(そうそう)の言葉が掲載されていて、彼が(上記の)光武帝の言動を、意識している事が伺える


また三国志 巻一 魏書•武帝紀(ぎしょ・ぶていき)


《魏氏春秋》→(ぎししゅんじゅう)には


王(曹操)曰「吾為周文王矣」


訳)王(曹操)は言った。

「周(しゅう)の文王(ぶんおう)に俺はなる!!」(ワンピースのルフィ風に)とあって(笑)


曹操(そうそう)は東漢(後漢)王朝を事実上滅ぼしたが、形式の上においても之(これ)を滅ぼすのは、この王朝を築いた光武帝に、彼が憧れていた事もあって、気が引けたのじゃないかな?と(他にも理由はいろいろとあったのだろうけど)


だから漢王朝(かんおうちょう)を名実ともに滅ぼすのは「息子のお前(曹丕→そうひ)がやれよ、俺は殷(いん)を滅ぼさずに、その臣下であり続けた、周の文王のようになるからな」というのは、彼の偽らざる本音だったのだと思う。


※東漢(とうかん)


光武帝・劉秀が建てた後漢(ごかん)の別称。


高祖・劉邦が建てた前漢(ぜんかん)の別称は、西漢(せいかん)という。


この呼び名は前漢の都・長安(ちょうあん)から見て、後漢の都・洛陽(らくよう)は東に位置し、反対に洛陽から見て長安は、西に位置していた事による。



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