第16話 武田 真剣
冷泉堂大学の面々がルーカスに再会した頃、私はテキサス州の自宅から最寄りのジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル空港に到着していた。空港で母に連絡すると、母は慌てて車を飛ばして迎えに来てくれた。
「あなた、帰ってくるのは三月じゃなかったの?」
母はとても驚いていたが、どこか安堵しているようにも見えた。
「いろいろあって」
私は詳しいことを話す気にはなれなかった。負け犬として逃げ帰ってきたなど口が裂けても言えなかった。
車窓の外に広がるテキサス州の雄大な大地を黙って眺めている私を横目で見た母は、
「家に帰ったら道場に行きなさい。お父さんがお話があるそうよ」
と言った。嫌な予感がした。そして、この予感は的中した。
家に着くと、私はスーツケースを部屋に置き、広大な庭に建てられた大きな日本家屋に足を踏み入れた。引き戸を開けると、いつものように紫色の座布団に大事そうに置かれた赤い甲冑が視界に入る。その時、兜の下にある仮面の目の部分が赤く光った気がした。私は寒気を感じながら、一礼すると、道場に入った。
床張りの道場の真ん中では、父が稽古着姿で座禅を組んでいた。父のすぐ脇には二本の竹刀が置かれている。私に気づくと、父は黙って立ち上がり、竹刀を私に投げた。
竹刀を渋々受け取った私の目の前には、鬼の形相の父が既に中段に構えていた。
『ルーカスのやろう、ちくりやがったな』
その通りだった。ルーカスは私の携帯電話の電源が切られていることを知ると、すぐに私の実家に電話し、父に私が姿を消した理由を暴露していたのだ。
私もしょうがなく中段に構えた。
今日の父の稽古は普段以上に厳しかった。
正直、私は自分が父よりも強いと思っていた。
中学生になった頃から、自分の実力がめきめきと上がっていくことを実感していた。実際にアメリカで開かれた剣道大会では、私は負け知らずであった。同門同士の戦いを好まない父が、同じ大会に私とルーカスの二人が参加することを許さなかったため、ルーカスと正式な試合で対戦することはなかったが、練習ではスポーツ万能のルーカスと互角、いやそれ以上の戦績を収めていた。
そのため、私は父との立ち合いでは知らず知らずのうちに八割程度の力で戦うようになっていた。今日もそのつもりであった。
しかし、今日の父は強かった。焦った私が本気で挑んでも簡単に跳ね返されてしまう。あの北村雄平よりも強いとさえ私は思った。
私は何度も倒れた。その度に父は「立て!」とげきを飛ばした。
そして、この日の父は、私を倒す度に呪文のような言葉をブツブツと繰り返していた。
「疾きこと風のごとく...」
私にはさっぱり意味が分からなかったが、この呪文のような独り言は後々大きな意味を持つことになる。
私は初めて父を怖いと感じた。父が何かに取り憑かれているような気がしたからだ。
疲労と苦痛で意識が朦朧としていただけかもしれないが、父の分身を見た気がした。しかし、その分身は父ではなかった。道場の入り口に置かれた、あの赤甲冑をまとった武士であり、その手には竹刀ではなく、真剣が握られていた。
三十分ほど経過したころには、私はボロボロになっていた。竹刀を頼りに、立ち上がるのがやっとであった。そんな私を見て、父は竹刀を引き、
「ここまで」
と言って、一礼すると、入口に向かった。私は床の上に大の字になると天井を見上げた。
『助かった』
しかし、疲労困憊の私に対して、父は振り向きもせずに、
「明日から毎朝六時に稽古を始める」
と言い放ち、道場を後にした。
私は這いつくばって家に戻ると、シャワーを浴びた。全身が痛む。身体はあざだらけであった。
シャワーを済ませた私は、漂ってきた牛肉のいい匂いにつられてリビングルームに向かった。テーブルの上には四百グラムはあろうかと言う分厚いステーキが置かれていた。
肉にかぶりつく私を母が呆れた目で見ている。私は五分でステーキを食べきった。部屋の窓から、広大な庭が見える。
父が馬に乗り、芝生を疾走していた。すると、次第に怒りがこみあげてきた。傷心で帰国した息子を立てなくなるまで痛めつけるなんて、いくら何でも度を超えている。
そこで、私はリビングでテレビを見ていた母に訊いてみた。
「なんで父さんはあんなに怒っているの?」
すると母はテレビを消し、私の目の前の椅子に座ると、私が生まれる前の話を始めた。それは、今まで聞いたことのない話であった。
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