天使と好敵手

第1話 鴨川稽古

入部試験の翌日から、私とルーカスを加えた新生剣道サークルは、大学の講義が終わると松竹寺に集まり、稽古に励んだ。


私たちが入部した時点では、剣道歴の一番長い浦賀氏が主将を務めていたが、自らルーカスへの交代を申し出て、これを松尾女史が認めた。


当初、交換留学生が主将を務めるのはおかしいと言って、ルーカスは主将就任を躊躇していたが、私を含む部員全員が後押ししたこともあり、最終的に快諾した。もともとルーカスは、周りから頼られる存在だ。これまでの競技人生においても何度もキャプテンを任されてきた。頭のネジが一本抜けているようなところはあるが、誰よりも声を出し、そして、誰よりもチームワークを大切にする。ただし、ルーカスが課す練習はキツい。ルーカスが鴨川沿いを5キロ走ると言い出すと、私を含む部員全員が容赦なくブーイングを浴びせた。しかし、松尾女史に一睨みされると何も言えなくなり、ルーカスに続いて走り始めたのであった。


部員たちが必死にルーカスの後を追いかけている一方で、ぽっちゃり体系のダンディー霧島だけが徐々に遅れ始めた。数分後には他の部員たちとの差は100メートル以上開いていた。


ここでルーカスのキャプテン魂に火がつく。ダンディーが遅れていることに気づくと、ルーカスは私たちに先に行くように指示し、ダンディーを仁王立ちで待ち構えた。三分ほど経過するとダンディー霧島がやって来た。走っているのか歩いているのか分からないペースにも関わらず肩で息をしながら。


ダンディーは、ルーカスが鬼の形相で待ち構えていることに気づくと、大幅にスピードアップした。ライオンに追われるインパラ、いやイボイノシシの如く、あっと言う間に残りの部員に追いつき、そして、追い越していった。その後を砂埃を巻き上げながらルーカスが爆走していく。おかげで私たちも全力でダンディーとルーカスを追いかけざるを得なくなった。


松竹寺に着いた頃にはルーカスを除く全員が疲れ果て、素振りもできない状態であった。


しかし、道場に松尾女史と一緒にやって来た女子学生を見た途端、私は元気になった。図書館で一目惚れしたあの美人学生がやって来たのだ。


奇跡だ。


私は心の中で快哉を叫んだ...つもりであったが、

「キター!!」

と私の大声が道場内に轟き、メンバーたちから好奇な目で見られた。


女子学生は、思い思いの格好で休憩する部員一人一人に冷えたスポーツドリンクのペットボトルを配っていく。そして、女子学生は最後に私の前に来ると、ペットボトルを差し出し、

「はじめまして、佐々木由紀です。えっと、武田君って呼べばいいかな、それとも、真夢君の方がいいかな?」

と言った。実に爽やかで、涼しげな声であった。私の目は一瞬にしてハートマークになった。そして、柑橘系のシャンプーの爽やかな匂いが私の鼻こうをくすぐった。

「おい、真夢、よだれが出てるぞ」

ルーカスの忠告でようやく我に返った私は、大いに照れて、

「た、武田で構いませんよ」

と答えた。


そこへ防具を身に着けた松尾女史が現れた。メンバーの間に緊張が走る。

「今日は鴨川デルタで立会稽古をします」

と気合十分の松尾女史は宣言した。部員たちの表情が一瞬にして曇るのが私には分かった。


嫌な予感がした。

「20分後に鴨川デルタに集合」

そう言うと松尾女史は、佐々木由紀を伴ってスタスタと道場を後にした。


二人を見送ると部員たちは慌てて防具をつけ始めた。私は隣で、青い顔で防具を身に着けていた長身の木田氏に話を聞いた。

「なんで、みんな浮かない表情をしているんだい?」

木田氏は大きなため息を漏らし、

「武田君、京都の夏はクソ暑いんだ。さっきも鴨川を走ったから分かると思うけど、九月下旬とは言え、今日も三十度ある。その炎天下の中で防具をつけて立会稽古をしようって言うんだ。命賭けだよ」

とボヤくと、続けて浦賀氏が愚痴をこぼした。

「武田君、この前僕が松尾さんに、熱中症になったらどうするんですか、って聞いたら、あの人なんて答えたと思う?」

「分からないなぁ。こまめに水分補給しろとでも言ったのかい?」

僕の率直な答えを聞いた浦賀氏は、顔を大きく横に振った。

「あの松尾さんがそんな当たり前のことを言うわけがないじゃないか。あのひとは、こう言ったんだ、川に飛び込めば何とかなるって」

佐々木由紀との奇跡の再会を果たし、夢見心地だった私も憂鬱になった。

「あの辺は浅いから溺れることはないとしてもね、川の水で身体を冷やせというのは、いくらなんでも乱暴だと思うよ」

とダンディー霧島が言ったところで、全員準備ができたため、重い足取りで再び鴨川へと向かうことになった。


ちなみに鴨川デルタの近くには京阪電気鉄道、通称ケーハンの京都側の終着駅である出町柳駅があり、同じく京阪電気鉄道が運営する叡山電鉄の駅もある。この叡山電鉄に乗れば鞍馬や比叡山方面に足を伸ばすこともできる。


近辺には私が留学している冷泉堂大学に加え、国立の大学もあり、夕暮れ時ともなると、デートを楽しむ学生や五山送り火で有名な大文字(如意ヶ岳)を背に語り合う学生を目にする。


そして、その雰囲気を破壊する集団が現れた。


そう、我ら、冷泉堂大学剣道部改め剣道サークルである。


涼を求めてやって来た人々の前に、防具をまとった暑苦しい集団が現れ、竹刀を振り回し始めたのだ。しかし、私には周りを気にする余裕はまったくない。松尾女史の立会い稽古があまりにも厳しかったからだ。


松尾女史は実力者であった。鴨川デルタに来る前に木田氏から聞いた話によると、過去に京都府で学生チャンピオンになったことがあるらしい。実際に松尾女史の攻撃は実に多彩で、自称サムライの父に鍛えられた私やルーカスでさえも苦戦を強いられた。


ただ、松尾女史の実力よりも気になったのは、佐々木由紀の視線だ。佐々木由紀にアピールしたいがために、私は稽古を忘れて本気で竹刀を振りまくった。


木田氏やダンディー霧島は次々と私の必要以上に派手な攻撃を受けて倒れていった。松尾女史は私の意図には気づかず、私の張り切った稽古に感銘を受けている。しかし、私の意図をとっくに見抜いている男がいた。ルーカスだ。


ルーカスはさぼり癖のあるダンディー霧島を鍛えていたが、松尾女史に指導を代わるよう要請し、意気揚々と稽古に励む私の前に立ちはだかった。


私とルーカスはともに中段に構えた。鴨川デルタに緊張が走る。松尾女史は、私たち二人のただならぬ雰囲気を察し、

「みんな、ルーカス君と武田君の立ち合いを見学しましょう」

と言って、残りの部員を座らせた。すかさずマネージャーの佐々木由紀が冷えたペットボトルを手渡した。その様子を横目で確認した私は、『チェッ、ついてないぜ』と心の中で愚痴った。


百戦錬磨のルーカスが私の一瞬の心の乱れを見逃すはずはなかった。超高速の胴打ちが私の右腹に決まり、私は川まで吹っ飛ばされたのであった。私に滅多打ちにされていた部員から歓声が上がった。


悔しさと哀しさで打ちひしがれた私は、しばらく陸に戻ることが出来なかった。この辺りは水深が浅く、溺れるような危険はない。


私は大の字で寝そべり、九月の夕空を見上げた。すぐ横には亀や鳥の形をした飛び石が一列に置かれており、石を渡っていくと川を渡ることができる。


気づくと飛び石を渡る人々の行列が出来ていた。どうやら、学生らしきカップルが私の近くの飛び石に移るのを躊躇しているようだ。無理もない、剣道の防具をまとった男が三十センチも離れていない場所で大の字で寝そべっているのだ。

「ヤダ、死んでるんやないの?」

「どざえもん?」

とカップルが青い顔で囁き合っているのが聞こえた。


私は警察や救急車でも呼ばれたら面倒なことになると思い、勢いよく立ち上がった。するとカップルから大きな悲鳴が上がった。

「まだ生きてるよ、バカやろー」

と私が大声で毒づきながらデルタに戻ると、飛び石を渡る行列、そして、三角州のデルタで物珍しそうに稽古を見ていた海外の観光客が一斉に視線を逸らした。危ないやつだと思われたらしい。


デルタではルーカスを含む部員全員と松尾女史が、輪になって休憩を取っていた。私がビショビショのまま無理やり座ると、両隣りの木田氏と浦賀氏から露骨に冷ややかな視線が注がれた。憤怒する私を見て、ルーカスが笑いをこらえながら、

「川は冷たくて気持ちよかっただろう?」

と感情を逆なでるような言葉を吐いた。私は殴りかかろうとしたが、松尾女史の鋭い視線を感じ、振り上げた拳を降ろすことにした。

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