第2話 光と陰

 何故かなんて分からない。だって、彼はあんなに私を呼ぶ。私を見ている。言葉無き代わりに、直情な瞳に熱を束ねている。私もきっと、惹き付けられたたくさんの中の一人。

 私の知る彼は、人懐こい狼犬だった。


 精一杯丸くした、持ち前の鋭い両目がいっぱいに私を捕まえる。その瞬発力に、群れから脱走する狼を見た。

 乱暴に遊ばせた髪は少し赤っぽく、時折ある抜き打ちの頭髪検査では確実に、教師と一悶着があるだろうことを窺わせる。不良と言う訳ではないけれども、多少の反抗心が表れた制服の着こなし。この攻撃的な魅力に惹き付けられる女子生徒が多いことは、私ですら知っていた。そんな外見とは裏腹の、人好きのする穏やかな微笑がそれを、ぐっと離さないことも。まさにその彼の姿が、すうっと私の瞳へ滑り込んでくる。

「兼行さん!」

 呼び止められるのはこれが初めてではない。前にここで名前を呼ばれたときは、こんな珍しい苗字の生徒が他にまだいるのかと、振り返ることもしなかった。

 その埋め合わせの気持ちからか、今日は声が飛ぶより先に、彼を見つけていた。ふくよかな風をせき止めるみたいにして、渡り廊下の中腹で待つ。

「うん、なに?」

 用があるにしては少し離れたところで、彼は土を蹴るのをやめた。くっきりと横一線に走る明と暗。その境界のすぐ手前で、陰にくるまれた私を遠慮がちに、見ている。

「…いや、ここ通るのが、見えたけん」

 ボタンなどひとつも留まらない学ランが後ろに、わっと吹かれる。向かう風が追いやったのか、その瞳も一瞬、横へ流れていった。それでも日の光が照りつける彼の髪、その輪郭は一層赤く透けて、烈火のように暴れ揺らめいて。

「うん」

 鎖骨より下まである私の髪も、制御を失い前へ前へとひとりでに黒く手を伸ばす。まるで彼を捕らえようとせんばかりに。その隙間から細めた両目に映る、彼とその炎は次第に鳴りを潜めていく。

「…移動教室?」

「うん」

 左から、視線を感じる気がする。私と同じ、家庭科の教科書を持った女子生徒たちだろう。スカートを押さえるようにして持っていた教科書とペンケースを、慌てて持ち上げる。今や灰色に沈んだスカーフを更に黒く押し潰すように、それを胸へと隠し込んだ。そしてプレッシャーは、音もなく背中から右へかけてじいっと舐めていく。特別教室棟へ踏み入れた足音はふたつ。そこで封印が解かれたようにきゃあと響かせた声が、よく覚えのあるものだった。

 それがすっかり遠退いてから私は、乱れた髪をささっと順に、耳にかける。

「…もう行くね」

「…うん」

 伏せた睫毛で会釈をして、私は足早に渡り廊下を抜けていく。ずんと重く冷えたこの棟内の空気が、くっきりと思い知らせてくれる。二度目の魔法も、とけたこと。

「千っ早ー!何しよっとー!?」

 元気な声が彼を呼ぶのを背で聞いて、群れへ戻っていくのを確信する。そして、強張った両腕を解放した。


 今日も不可侵領域は守られた。私は日の下まで出掛けていくことは無いし、彼も翳ったこちらへ不用意には訪れないだろう。それで良いと思った。そもそも、それぞれの領域の果てにまで近づくのは危ういこと。こんなことは繰り返してはいけない。興味本位の探検も、ほどほどにしておかないときっと足を踏み外す。まっ逆さまに落ちてしまえば、元の場所まで辿り着ける保証は、無い。

「次は回り道をしよう…」

 教室の引き戸を滑らせると、チャイムが鳴った。


 ここでは昼食は皆、お弁当だ。四限目が終わると同時に、教室は一気に騒がしくなる。自らの机を引きずり移動したり、他人の席に当然のように座ったりして、仲良しのメンバーと好き好きにランチタイムを過ごす。

 男子生徒は一人で摂る者も珍しくないが、女子生徒がするとほんのり事件の匂いを漂わせる。自ら進んでそうしたがるものではないからだ。最も群れを好む種であり、大半は自分が独りでいるところを見られることに、激しい抵抗を覚える。私も、例に漏れず。

 だから今日もこうして、ただの景色の一部としてでも、机を寄せ合いランチボックスの蓋を開けるのだ。


 あれは四月の、新学級がスタートして間もない頃のことだった。学校生活は出だしが最重要。特に女子生徒にとっては、最初の付き合いがこの一年間の命運を占う。どのクラスにもいるであろう、所謂一番目立つ女子生徒が絶対的権力者であり、この庇護下に入れるかどうかで全てが決まると言っても過言ではない。特に一年生のときに仲良くしていた友人たちとは皆、クラスが離れてしまった私は、他のクラスメイトとは違い、一歩出遅れての出発になる。

「せっかくやし、この辺の女子集まろ!」

 一際通る、華やかな声。彼女は見た目もそうだった。きっと厳格な人なら、高校生らしくないと口を歪ませ震えることだろう。でもその美貌はそれすら、上から押さえつけるくらいの力強さも持ち合わせていた。器用に巻かれた色素の薄いロングヘアに、しっかりグラデーションのついた目元はぱっちりと。いつまでも楽しそうに、艶めいた唇からは色々な話題が飛び出す。その活力溢れる様子は、ここまでの支度の裏の苦労を感じさせないのだから、すごいことだ。


「やけん有紗、どっちにしようか迷っとーっちゃけどー」

 そして今日も彼女は饒舌だった。左右を固めるのはいつも一緒にいる二人。この中で主に発言権を与えられているのは、彼女たちだ。しかしリアクションは抜かりなくしておかなければならない。風が吹けば木々は葉を擦るもの。景色は景色らしく、その役目を全うしなければ追放、あるいは。

 私は序列で言うとおそらく最下位にあたる。彼女から一番遠いところにいる分、しっかりやらなくては。周囲と足並み揃えて笑顔を浮かべ、間を読みながら在り合わせのおかずを口に入れる。なんでも良いのだ、どうせ味など分からないのだから。

「そーいやさあ」

 ぼうっと咀嚼していたので、有紗の語りが止まったことに気付くのが一拍遅れた。私が顔を上げたとき、潤んだリップはいびつに吊り上がっていた。

「え、それマジなん?怜奈」

 有紗の不満げなトーンに、右の彼女、怜奈は大きく頷く。

「家庭科の前。亜矢も見たし、ね?」

「うん。何喋っとったかまでは、聞こえんかったっちゃけど」

 呼応するように、左の彼女、亜矢も首を縦に何往復もさせた。そして三人は、私を射抜く。

「ねえ、兼行さん」

 急に与えられた発言権に仰け反り、咄嗟にごはんを飲み込んだ。狭くなった喉を上手く通れない塊に、箸ごと手で覆う。

「え…っ?」

 苦しくて少し涙目になっているのが自覚できた。

「有紗が保健室で休んどう間にさあ、千早くんに色目つかったってマジ?」

「えっ!?」

 他の従者たちは一斉に下を向いた。それは最敬礼。私がこれから、処刑の間へ落とされることに異論なしという、不作為の意思表示。彼女たちはなるべく女王の気に障らぬように、必要最小限の動作で細々と食事を進めていく。それらすべてが一様に、じゃりじゃり、ぼそぼそ、土の味がすることは、私も知っている。だから責められようはずもない。喉からせり上がってくる泥の気持ち悪さに、つんと熱を持った涙が反射的に湧く。

「そんな、こと…」

「じゃあ千早くんがなんで兼行さんと話すわけ?」

 有紗の誤解を解かなければと思うより、逆鱗に触れてはならないというアラートのほうがけたたましく、私の思考を支配する。だがもう遅いらしかった。彼女の中ではそれが真実で、私を駆逐する対象として決め込んだのだ。それは発言を即座に殺したことで、すでに示されている。否定らしい否定もできないまま、有紗の中で私の罪状が着々と完成していく。ここでは女王が法。白薔薇は赤く。

「…」

「てか何泣いとうと?有紗がいじめたみたいやん」

「違う、泣いてな…」

「酷くない?有紗、ただ訊いとうだけやのに」

 そして有紗は下を向く。伏せた睫毛は太く厚く、真実の瞳を隙間なく隠す。時折目尻を撫でる指先に、質量の無い光る粒を乗せて。皆には見えている。でも私にだけは見えない。怜奈と亜矢の辛辣な視線は鮮やかに、ここまで届くのに。

「最悪、有紗泣かせるとか」

「…ごめん」

 粛々と刑は執行されていく。女王が両手に携えた二本の剣で、私は貫かれている。ぎりぎりと、捩じ込まれている。

 もう何も言えないと思った。そのたび罪が重なるくらいなら。私は食べ掛けのランチボックスを乱雑に掴むと、逃げるように立ち上がる。椅子を勢いよく膝裏にぶつけて痛いけど、構う余裕は無い。二つの涙が混じって、こんな顔を見られたらまた、罪と罰の繰り返しだ。

「うわ逃げるんや、マジ最低」

 追撃はいくつも背に刺さる。耳をもぎ取ってしまいたかった。不恰好にお弁当を抱えたまま私は、人気の無い方へ、無い方へ。


 光の間際で、危うい探検をしたから。身分違いにも、陰から手を伸ばそうとしたから。私はまっ逆さまに落ちてしまった、明暗の狭間に。陰より暗い、闇が迫るのが怖い。

 どうか彼は落ちないで。ずっと光の中にいて。私もここから這い上がる。遠くからでいい、それでも見ていたいから。

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