だめ。好き以外、言わせない

美木 いち佳

第1話 澱と澄

 風に勝った負けたなんて、どうでも良い。だって、やっと彼女は振り返った。俺を見ている。長い睫毛で絡めとるようにして、冷涼な瞳に俺を映している。

 その姿は、警戒心の強い黒猫だった。


 話は数ヵ月前に遡る。

 気まぐれの産物だった。全校生徒が講堂に集まるよう指示されるときは大抵、俺は保健室だか図書室だかへ隠れる。生徒総会があると言われたこの時だって最初は、寒いし、だるいし、ぬくぬくと保健室のベッドで寝ていようかなんて考えていた。でも、そうしなかった。

「この前からあったやろ、目安箱。生徒会室の真ん前に!」

 喧しい声がそう言うが、知らないものは知らない。俺はそういうことに興味が無かった。誰か、ぎゃんぎゃん吠える、躾のなっていないこいつを黙らせてくれ。

「はは、今井ー、無駄なことしとらんと行こうや」

「千早がこんなん来るわけないやんか」

「そーそー。まあたまには…ないか!」

 クラスメイトがぎゃははと笑いながら団子になって出ていく。その通りだと思いながらも、うるさい黙れとも言いたくなる。我ながら難しい年頃だ。

「千早くんが保健室行くとやったら、有紗もそうしよっかなー?」

 その流れに逆行する彼女は、俺の机に勢いよく両手をついた。巻き髪が瞬間、鼻の先まで迫る。なるべく顔に出すまいと努力はしているが、今のは自信がない。とにかく保健室はバツ、と頭で二筆走らせた。この手合いは、好かない。

 各々がまばらに移動を始める数分間、廊下、教室、隣のそのまた隣の教室まですべて、普段よりうねりを持ったざわめきに飲み込まれる。広がりながら響く、これがぱらぱらと無くなっていって、最後の一鳴きの余韻も消えて、訪れるシンとした瞬間。俺はそれが気に入っている。今日もそれを愉しむつもりだった。

「今井くん」

 生徒たちの波に運ばれながらやって来た担任教師は、息継ぎするようにこの教室へ顔を覗き込ませた。

「講堂ついたら人数かぞえて僕に報告ね」

「了解っすモッサン!」

「五分前行動だよ」

「はーい」

 このだらしのない眼鏡の学級委員に指示を飛ばすと、教師はまだ残る生徒を追い出しにかかる。

「ほら北川さんも、早く出ないと鍵、締められないよ」

「…はあーい」

 垂れ下がる巻き髪を、俺の机の上でだるそうに揺らめかせて、彼女も教室を後にする。

「つうことやけん、そろそろ行かな」

 そう言って今井は俺をじっと見下ろす。

「…何なん?」

「早くせんと間に合わんよ」

「やったら、行けば?」

「また一人足りませんって言わんといかんと?」

 そろそろ人波もおとなしくなってきた。俺たちは睨み合ったまま、とうとうこの教室で最後の二人になる。今井は俺に首輪でも着けてやろうかという顔で、譲る気は無いらしい。また煩く吠えられるのも面倒だ。保健室は使えない、図書室もこの時間はまだ寒い。勘定を終えた俺は重い息を吐ききると、机に軽く手をつきながら立ち上がる。

「…」

「ちょっ!待ってー!」

 無言で、開いたままの教室のドアから出ると、俺は流れの最後につけた。慌てた今井が鍵を掛けながら背中へ声を投げてくる。

「戸締まりあるっちゃけん!千早ー!」

 ガチャコガチャコ。響くのはもう、古い鍵を掻き回す音だけ。焦って余計に手こずる今井を、角を曲がった先で、仕方がないから待ってやった。


 講堂の入口は閉じられようとしていた。教頭にじろりと睨まれながら内へ入ると、生徒は全員着席を終えていた。気まずさの中で、控えめな喧騒だけが唯一の救いだ。今日はシューズ履き替えによる混雑を避けるため、床は全面にシートが敷かれていた。独特のまろやかなビニールの臭いが鼻をつく。俺が普段こういう場に出ないのは、これが嫌だからでもある。

 顔をわずかにしかめながら、上履きのまま段差に足を踏み入れると、後ろからパタパタと走る足音が近づいてきた。

「あっ先生!すみません!」

 何やら大量に紙ファイルを抱えた女子生徒が、教頭に頭を下げながら、閉まりかけの重いガラス戸を体で押してすり抜ける。隙間に挟まった白い吐息は、その後ろで半分に割れた。

 なんだよ、俺たちのときとは随分態度が違うじゃないか。厳めしい顔つきを一瞬ゆるめた教頭に、内心で毒づく。彼女は急ぐ道すがら、まだこんな所にいる俺たちへ一瞬だけ、驚きの視線を向ける。そしてすぐ、逸らす。だから段差を注視しなかったのだろう。

「ひゃっ!」

 パアーッン。盛大に躓いて落としたファイルは、面を叩きつけるように床へ落ちた。響きやすい構造のこの建物で、見事な爆音を演じてみせる。生徒たちの目が一気に集まった。

「ああ、大丈夫?」

 こういうとき、今井は行動にそつが無い。さっとそれを拾ってみせると、まだ粗相の余韻の残る彼女を、声色だけで気遣える。

 バランスを崩しながらも幸いこけることはなく、ふっと息をつく唇。俯いた睫毛が長く、ゆるく、弧を描いている。俺の両の瞳はそこからなぜか動けない。

 彼女は今井から落とした物を受け取りながら、さっと睫毛を上げた。

「すみません、ありがとう」

 はっとした。薄紅をふたつ落とした白磁の肌に、長い睫毛の下の清廉、媚びない唇の頑な。

 俺が彼女の顔をちゃんと見たのはその一瞬だけだ。でも随分長いこと、釘付けにさせられた気がする。ちょん、と首だけでお辞儀をしたらそのまま、彼女は壁際をステージ方面へ走って行った。黒いセミロングの上を光が滑りゆく様を見つめながら、今しがた焼き付けた、まだ幼さを残す顔立ちに、おそらく同級生だろうと思った。

「うわ、兼行さんと話したった」

 突き出した口を開いたまま興奮を隠しきれない今井が、肩を二、三度跳ねさせた。しかし教頭の圧を感じて、俺たちも小走りでクラスの列へ向かうことにする。

「カネユキさん?」

「一組の、クールな美少女やね。知らんと?」

「知らん」

「本当お前は…もてとうくせに腹立つわ」

 端に空いた並びの席につく。今井は慌てて人数をかぞえようとするが、その先の担任教師の呆れた睨みに、しぼんだように座る。

「やば、モッサン怒っとる」

「で?」

「でって、千早のせいやけんな」

「…は?」

「は、やないやろ…もおー」

 そうやなしに、と言おうとして遮られた。司会の生徒の、マイク越しの声が一際大きく、裸の声たちを圧縮する。生徒総会の始まる合図だった。


 私語は一応やめても関心は最初から無く、ぼうっと聞き流すばかりだった。このために目安箱を設けて生徒たちから匿名で議題を募ったらしいが、そのほとんどが職員会議でふるいにかけられるに決まっている。もし俺が赤髪を容認しろと投稿したってきっと、土俵にすら上がらない。だから意味の無いことだ。そうやってひねくれて前を見ず、寝たふりでもしていればそのうち終わる。

 でも俺はこの後、顔を上げずにいられなくなる。

「それでは、次期生徒会メンバーを任命します。賛同いただける方は拍手をお送りください」

 おかしな話だ。生徒会長は、俺が参加しなかっただけで先日、選挙で決められたと言うのに、他の人員は知らないところで勝手に話を進めた事後報告。もう決まったことなら賛成の拍手など、求めなくても良いだろうに。

 上澄みの綺麗なところだけを掬って舐めて、澱など、味見すらされない。そんな、底に沈む俺がどうして水面など見られようか。関係ない世界の話。望んでも届かない領域の戯れ言。生徒会なんてその最たるものだ。だからこういう場は、大嫌いだ。

「続きまして書記、」

 拍手とは言えないしけた音に少しずつ引き戻されて、

「一年一組、兼行さや果さん」

 俺は、がばっと顔を上げる。

「うわ、びっくりした、起きたと?」

「…今、兼行って」

「ああ、さっきの人な。次期生徒会長が何度も口説いとったって」

「は?」

「やっぱ生徒会、入ったっちゃねー」

「…なに、付き合ってんの」

「はっ?…もう、李一郎くんはすーぐそういう方向に持っていくうー」

 気持ち悪いおどけ方をする今井に、多少本気のいらつきを覚える。俺の無言を察してか、すぐにそのキャラを引っ込めた。

「や、付き合ってはないっちゃない?口説くって、生徒会にって意味な」

 なんだ、そっちか。紛らわしい言い方しやがって。いや、でも。結局、彼女は上の綺麗なところをたゆたう存在で、俺とは決して混ざらないと知った。解ってしまった。

「…千早?」

 ぽつぽつと弾ける乾いた音が、とてつもなく煩く感じられた。ここからは遠すぎて、袖へ隠れていく彼女がどんな表情をしているかは見えない。選ばれた嬉しさに微笑っているのか、受けた責務に凛としているのか。どちらにしたって変わらない。俺は初めて、積極的な意思で、拍手をしなかった。


 あれから俺は、教室前の廊下で彼女とすれ違うたび、人垣の隙間からその表情を盗み見るようにして集めた。一秒にも満たないその垣間見はどれも、手を伸ばせないと自覚するほどに綺麗だった、可憐だった。

 でも、笑顔は見たことがない。僅かに口角を上げるばかりで、冷涼な瞳はいつも冷涼だった。だからこそなのかもしれないが。彼女は、笑うのだろうか。

 俺の知る女という生き物は、自分を良く魅せようとどれもけばけばしく笑いかけてくる。それが一番魅力的だと知っているからだ。などと他人に語ると罵られそうだが、実際俺に近づく女は、年上も年下も同級生だって全員そうなのだから、他に言いようがない。派手なだけの、奥行きのない笑顔たち。そして、彼女とそれらはマッチしない。想像できないのだ。そのような醜さを貼り付けた彼女を。だとしたら、彼女はやっぱり、笑わないのだろうか。


 二年生に進級して間もない今日。一人になりたくて、人気の無いところで日を浴びていた俺は、偶然渡り廊下を歩く彼女を見かけた。俺は理系で、彼女は文系に進んだらしく、教室棟が別々になったため、その姿を目に留めるのはほとんど一ヶ月ぶりだった。

 彼女も一人だった。さんの下、日差しから守られるように、背筋はピンと、少し俯いた横顔に長い睫毛が色濃く上向く。これまでとは違うシチュエーションに、どくん、と心臓はけしかける。今、手を伸ばせば、もしかしたら届くんじゃないかなんて、図々しくも考えてしまっている。

 一年生の時は、彼女は割と誰かと一緒にいたし、人通りもそれなりにある廊下では障害物が多すぎた。だから、一瞬のチャンスをファインダーにおさめるように見ることしか、できなかった。

 でも、今、寂しいこの校舎の外れには、風が思い切り走っている。そう思ったら俺はもう、競争するように駆け出していた。

「兼行さん!」

 ――早く。彼女はもう半分以上を渡りきっている。

 ――早く。乾いた土は気持ち良く飛ぶ。

 ――早く。シャツの中の熱は出口を失う。

「兼行さん!」

 彼女は振り向かない。ああやっぱり、どんなに激しく掻いたって無駄。澱が清澄と混ざることなどありえない。

「兼行、さや果さんっ!」

「はいっ?」

 特別教室棟に入ってしまう直前、俺の叫びが届いた。彼女はこちらを向いた。ふ、わっ、と。広がる、黒いセーラー服の襟とプリーツ。以前より少し伸びたように思える黒髪が、風にぶつかって肌を叩く。記憶に何度も積み重ねた、冷涼な瞳が軌跡を描く間に。黒猫。しなやかで隙の無さそうなその所作に、俺はそう形容した。

 これが、今。


 辺りには俺しかいない。彼女はすぐ、光る土の上に俺を見つけて、驚きに肩を揺らす。

「…私のこと、呼んだ?」

「…うん」

 俺は振り向かせることしか考えていなかった。いざそれが叶うと、何を言うべきか搾り出そうとしても、かすすら出ない。彼女のその瞳の中心に、俺が存在すると自覚したら、頭の中は白く飛んだらしい。

 ぼけた景色の中に、彼女だけをはっきり鮮烈に浮き出させている。彼女の、先を促すような上目遣いは用心の色、浅く閉じられた唇は飾らない戸惑いの曲線。綺麗なだけでない、俺に向けられた、意味を抱いた表情。それが俺の何かを煽る。余計に見とれて、言葉などもう生産をやめる。

 風だけがここを無遠慮にさらっていく。彼女の清らかな佇まいはそれさえも味方につけて、すべて涼やかな演出にしてしまう。聞こえるのは低木のせめぎ合う音と、俺の上擦った呼吸音。

 カーン、コーン。均衡を保つ俺たちを割るのは、この音だった。

 結局俺は、ただいたずらに彼女の時間を奪っただけ。これに甘美を見出だすべきでは、無いのに。

「えっと、チャイム、鳴ったけど…」

 彼女をこれ以上、付き合わせるわけにもいかなかった。

「…ごめん、またにするわ」

 俺にとってはどうでも良い授業でも、彼女にとってはそうではない。綺麗に澄んだところから見るものは、底の濁ったところのそれとは全く違うのだろうから。

「いいの?」

「うん」

 それでも今日、針の先ほどだとしてもいい、清澄に触れた気持ちだった。ここから掻いて、掻き混ぜて、同じ景色を見ることができたなら。俺は彼女の隣で、同じ方向を向いて歩く夢を、見たっていいのだろうか。それなら俺は、何度だって彼女を呼び止める。

「分かった。じゃあ…」

 後ろ髪を引かれるように、たどたどしく館内へ入っていく彼女の姿は、これまでのどの印象とも違っていた。伏せた両の睫毛の下、情感の一端を乗せた二つの瞳は、確かに温度を持っていたから。急かす身体に逆らって、まだ俺を映す。それは紛れもなく、俺のための瞳。俺の熱が、彼女の瞳にしっかりと映り込んだ証明。そう思うほどに速度を持って何かが立ち上ってくる。俺のための瞳、俺のためだけの瞳。この刹那に強烈に望む、その先のもの。

 求めて追うごとに、彼女の姿はゆっくりと扉の向こうへ吸い込まれていく。その余韻を反響させるように、躊躇いがちな足音は次第に走り去っていく。彼女は、元の綺麗な世界へ帰っていったのだ。そこはきっと、彼女の安寧の地。

 そうと知りながら俺は、この掻く手を止められない。彼女に濁を飲ませることになっても、欲しいと、明確に自覚してしまったから。

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