冬の蛍
北谷 四音
冬の蛍
「小林君、例の資料はまだかね」
その声は多分に怒りを孕んでいた。音源は僕の上司の吉田部長である。
僕は彼を嫌っている。
仕事を自力で進めていた部下が失敗したときには、なぜ人に聞かんと責め立て、仕事を彼に聞いたときには、そんなこと自分で考えろと怒鳴り立てる。その上社長なんかには媚びへつらうところが憎い。本当に嫌いだ。
僕はデスクから立ち上がって謝罪と進捗報告をする。すみません、まだ――と言いかけたところで部長は話し始めた。
「ったく、今まで重病だとか言ってたのに、三日前にふらっと戻ってきて。手当だけもらって、どうせずっとサボってたんだろ?」
彼の口からは、ひどい口臭と暴言がよく漏れる。
しかし、部長の言ったことは半分事実だ。僕は二日前まで病に伏し、虫の息だったのである。
「小林さん、あなたはもう長くはないでしょう。このままではもって三週間程です」
病室のベッドに横えた僕に医者は言った。
薄々分かってはいたが、僕はもうすぐ死ぬのか……。まだ三十歳と思っていたけれど、人生はあっという間だな……。
ですが、と医者は一言置き、顔を綻ばせて続けた。
「最近、新薬が開発されましてね。あなたは元気になりますよ」
「ぇ?」
自分の喉から発した声は弱々しく、体の衰えを痛感させられた。
医者は白衣のポケットから小袋を取り出した。中に何か入っている。
「これは秘密裏に作られた薬です。あぁ、危ないものではありませんよ。この薬を飲めば、あなたは五日間だけ元気に生きられます。まあ、五日後には必ず事切れますがね」
希望を取り戻していたところに、再び絶望が投下された。五日間元気になって、そして死ぬ……いまいち判然としない。僕は医者を見つめて、詳細な説明を求めようと目で訴える。
「例えるなら……『火事場のバカ力』でしょうか。薬によって人間の本来の力を引き出します。もちろん長くは続きません。ですから、五日後の朝にあなたはもう目覚めなくなります」
病院の屋上に出て、銀世界の街並みを眺める。寒かったが、おかげで少し落ち着くことができた。
薬を飲もうが飲まなかろうがいずれ僕は死ぬ。そもそも人間は死ぬ。薬を飲まなければ少しは長く生きられる。薬を飲むことは――もしかしたらそれは生きるのをあきらめるということなのかもしれない。けれどベッドでただ死を待つのは嫌だな。最期まで命の光を輝かせていたい。季節外れだけれど、蛍のように。
ならば僕は――。
「もう気持ちは決まりましたか。どうしますか、小林さん。飲みますか?」
僕は医者の言葉に大きく頷いた。手渡された薬を水と共に流し込む。全身を血潮が駆け巡るような感覚だった。
「――君、小林君! はぁ。聞いているのかね。ほら、サボってた分しっかり働け!」
ふと我に返ると、部長の説教が終わっていた。自分のデスクへと戻った。
薬を飲んでから何気なく二日間を過ごした。つまり、余命はあと三日。検査のため毎日病院には行っているが、今のところ特に異常はない。命の光を輝かせると意気込んだが、特にやることもなく、結局普通の生活に戻っていた。冷静になって考えてみたけれど、たった五日で何ができるのだというのだろうか。自分は社会に必要のない人間なのか、そんな卑屈な考えが浮かんでしまっている。
――そうだ、どうせ死ぬんだ。一度きりの人生、やりたいことはやるべきだ。僕は立ち上がって部長のもとへと歩き出した。
「小林君、何かよ――」
今までの恨み、怒りを拳に込め、思い切り部長の頬を殴った。オフィス全体がざわめいた。鼻血を垂らした部長は狐につままれたような顔をしていた。
「この野郎上司に向かって何やってんだ! お前クビだぞ!」
部長は烈火の如く怒った。
「ええ、いいですよ。どうせ死ぬので。どうもお世話になりました」
僕は沈黙が流れるオフィスを後にした。
余生三日間で行きたい所、見たいもの、食べたいもの、やりたいことは全部やった。映画館、テーマパーク、デパート、ショッピングモール、温泉、水族館、動物園、神社、お寺、カラオケ、公園、ゲームセンター、高級レストラン、観光名所……。本当に濃い三日間だった。普段では考えられないほどの贅沢をして、残りは今夜の宿泊費だけ。心の底から楽しいと思えた。けれど、誰かと一緒だったらもっと楽しかったのだろうなとも思った。僕には妻も彼女もいない、独身だ。親も既に亡くしている。
僕の死に場所は、世界屈指の高級ホテル『ロイヤルトウキョウ』に決めた。
最上階から望む夜景は綺麗だった。けれど僕にはその光が痛いほどに眩しかった。きっと僕の命の光はあの一つ一つにも及ばない。急に体が鉛のように重く、節々も痛んできた。こんな時になって死ぬのが少し怖くなってきた。薬飲むのやめればよかったな。でももうおわりだ。もう眠ってしまおう。明日の朝、僕は目覚めない。永遠に、おやすみなさい。
「どういうことですか! どうして僕はまだ生きているんですか?」
僕は今朝、普通に目覚めたのだ。
「実は、プラシーボ効果の実験も兼ねていて、お話できることも限られていまして……。あの薬はまだ臨床実験段階でね、あなたが、被験者に選ばれたんですよ。いやぁあなたのおかげで良いデータがとれましたよ。油断はできませんが、元気になったみたいで良かったですね。本当に人間って不思議ですよねー」
僕はひどく絶望していた。それには理由があった。
「おい、医者! 金を出せ!」
冬の蛍 北谷 四音 @kitaya_shion
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