【第四十走】言葉にできない

 ユキが「ごめん」という理由も、初めて俺を名前で呼んだ意図も、なにひとつわからないまま俺はアパートへと帰宅した。大学を出るときには日の長さを感じたものだったが、家に着くころにはあたりはすっかり日が落ちていた。

 それまでに、ユキに対してその真意を問う時間はあったけれど、なぜかそうすることはためらわれた。


「――じゃあな」

「ええ。また明日」


 いつものように挨拶をしてから部屋へと戻る。彼女の態度に多少のぎこちなさは感じられたが、それでもおおむねいつも通りのようだった。

 ドアを開け、電気もつけずにリビングへ入ると、俺はそのまま床に座ってしばらくの間考え込んだ。


(どうしてユキは、あんなことを言い出したのだろう?)


 俺は何か、彼女の気に障るような行為をしたのだろうか?

 例えばそう、美桜みおさんに向かって知りもしないことをさも知ったかのような顔をして、彼女に無視されたときのように。

 しかし今度ばかりは、本当に思い当たるふしが無かった。

 そもそも大学を出る前までは、いつものようなくだらない煽り合いをしていたではないか。それは俺たちにとっては当たり前のコミュニケーションで、多少相手をからかうようなニュアンスがあったとしても、決して尊厳を傷つけるような真似はしていないはずだった。

 それとも、実は彼女自身、そういった煽り合いが好きではなかったのだろうか。今まではそれを胸の内に秘めていたのだが、ついにそれに耐えかね、もうこれ以上俺には付き合えないと言ったのだろうか?

 その可能性も無くはないが――しかしそれはあまりにもユキの性格からはかけ離れている。

 嫌なことは嫌だといい、気に食わないことは気に食わないと言い切るのがアイツだ。たとえそこに若干の遠慮や気遣いがごくごくまれにあったとしても、他者――まして俺――に対していつまでも言い返さずに胸に秘めているようなヤツではない。ユキという存在は、左の頬を張られたら、右の頬を助走をつけて殴り返すような相手なのだ。

 なによりも、間違いなく彼女は言った。


 「ごめんね」と。


 俺に非があるのならば、決して彼女は謝ったりはしないはずだ。だとすれば、原因は彼女のほうにあるということになる。

 けれど彼女は、それについて語ろうとはしなかった。

 そうなると結局――彼女の態度の変容にある意味を、現状の俺が理解するのは不可能に思われた。


(――しかし、とはいえ)


 解らないからといって、考えないわけにはいくまい。

 今必要なのは、正解ではない。

 彼女が言葉にできない何かを、俺がどれだけくみ取ろうとしているか――その姿勢が試されているような気がした。

 俺は過去の経験から「言葉にされなければ、相手の気持ちなど解るわけがない」と思っている。もっと言えば、仮に言葉にされたとしても、伝わるとは限らないとも思っている。ひとはたやすく相手のことを疑ったり誤解したりする生き物だからだ。人間同士が本当の意味で誤解なく解り合えるようになるには、いずれアニメやSF小説のように、他人の思考を読み取るテレパシーのような超能力でも身に着けない限り不可能だろう。

 ――このことを考えるといつも、過去の苦い思い出が蘇り、思わず歯ぎしりをしてしまう。

 目を閉じたまま眉をひそめ、それでも思考を続ける。

 他人の気持ちは秘めてしまえば解りえない。だからこそ、ふだんなら「思ってることがあるくせに察してもらおうと黙っている」ような人間に対しては、ひどく腹が立つ思いを抱いていた。どうして言葉という最上のコミュニケーションツールがあるというのに、それを放棄してしまうのだろうかと。


 だがしかし。


 ユキと付き合うようになって、その考えは多少変わりつつあった。

 たしかに、言い出しにくいことを口にせず、相手に悟ってもらおうとする、いわゆる「誘い受け」という行為をする人間はいる。

 けれど、ひとが思いを口にしないとき、なんらかの想いを胸の内に秘めるときというのは、必ずしもそれだけではないと知った。

 つまりそれは、『言葉にできないとき』でもあるのだ。


 ここまで考えて、無意識のうちにため息が出た。

 この考えに至る境地こそが、しばしば彼女が口にする「オトメゴコロが解る」ということなのかもしれないが――あいにく俺は今さらそんなものを知りたいわけではなかった。


 ただ、このひと月を共に過ごしてきた相棒――いや、彼女の心を知りたいと願っただけだ。


 だからこそ、今は訊ねることを控え、ただ彼女が話してくれるのを待つことにした。

 目を閉じて、これまでのことを思い出す。

 そして確信する。

 きっとユキは、黙っていなくなったりはしない。

 何を考えているのか理解しがたいヤツではあるが、それでも言うべきことだけは、いつも言葉にして伝えてくれた。きっと今はまだ、それを伝える言葉をアイツ自身が持っていないだけなのだ。ならば急かしてはいけないだろう。


(アイツがそれを口にできるようになるまでは、なるべく普段通りに接するしかない)


 今の俺にできるのは、どう考えてもそれだけなのだから。

 それが彼女の望むことかどうかは定かではないが――とにかく、相手を想うならできることをやるしかない。

 決意を固め、閉じた目を再び開く。すると、目の前には赤い着物の子供神が浮かんでいた。思った通りだ。


「よぉ、そろそろ来る頃だと思ってたぜ」

「なんだ貴様、落ち着きはらいよって。つまらんヤツめ」


 おおかた、気配を消して近づくことで、俺が目を開けた瞬間に驚き慌てふためくさまを見て笑い飛ばそうとしたのだろう。しかし今や、俺にはこの人外の気配すら感じとれるほどの第六感が備わっていた。おそらく人ならぬものと接しすぎた副作用だろう。


「毎度毎度、気配を消して忍び寄るテメーの悪趣味さは身に染みてるんだよ。俺が灯りも無い中で、何かを思いつめたような表情をしていれば、これ幸いと茶化してくるのがテメーってヤツだからな」

「フン――愚か者なりに、過去から学んだか。殊勝なヤツだ」

「なあに、これは学習というよりは信頼だぜ。そう――『子供神テメーならきっとこうする』っていうな」

「そこまで信頼されるとは。無駄に時間を過ごしたものだ」

「お互い様だ。とはいえ、それもようやく終わりなんだろう?」

「つくづく勘の鋭いヤツだ――気に食わん」


 心底つまらなさそうにつぶやいてから、子供神は本題を切り出した。


「ああそうだ。以前にも言った通り、次が最後の救済対象だ。それは貴様にとっては身近で意外な存在かもしれん。その対象とは――」

「ユキだろ」


 もったいぶる子供神の言葉を遮り、俺は答えた。

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