【第二十八走】他人の幸福が鬱の味

「それにしても七香なのかさん、なんだかご機嫌ですね。嬉しいことでもあったんですか?」


 ベッドから身を起こし、立ち上がりながら彼女の表情をうかがうと、満面の笑みが張り付けられた彼女の口角は、大きく上を向いた。


「んふふー。ねえねえ井戸屋いどや、なんだと思うー?」


 彼女はしばしば、こういった「ノーヒントで解るかよ」と言いたくなるような問いかけをしてくる。これは七香さんだからなのか、それとも女性全般がそうなのかは知らないが――そのたびに答える側は非常に困惑するし、何よりも面倒くさいので、正直やめてほしい。

 とはいえ――ここで付き合ってあげないと、相手はたいてい不機嫌になってしまうことを、過去の事例から俺は学んでいる。だからノリのいい俺は、顔を洗いに風呂場へ向かいがてら、一生懸命考えてあげることにした。

 洗面所を兼ねた浴室で蛇口をひねり、顔を洗いながら考えられる可能性を口にしてみる。


「便秘でも治ったんですか?」

「はい減点」

「じゃあ美味いモンでも食ったとか?」

「減点2。ナナコそんな単純じゃないよ」


 立て続けの回答に、居間から不正解が告げられる。

 冷たい水に触れさっぱりしながら、そういえばタオルを忘れたなと思い、片手間で質問してみた。


「何か悩みでも解決したんですか?」

「お、いい感じ。そっち系だよ。悩みに関すること」

「解った――身体の一部が育ったんですね? オメデトウゴザイマス」

「井戸屋、喧嘩売ってんの?」


 今度は背後から声がした。

 焦って顔を濡らしたまま振り向くと、頬を膨らませ、少し不機嫌になりかけた表情の七香さんが、タオルを片手に立っていた。


「せっかくタオルもってきてあげたのに」

「滅相もない――これはこれは、ありがとうございますお優しい七香様」

「ふんだ」


 お礼の言葉も空しく、思いっきりタオルを投げつけられた。

 彼女の厚意を顔面で受け取ると、厚意の主はどすどすと足を鳴らして居間へ引き上げていってしまった。


 これはいけない。


 そう思い素早く俺も浴室を出ると、彼女の損ねた機嫌を取り戻すべく、台所でお詫びの品コーヒーを準備することにした。

 電気ポットに水を入れ、お湯を沸かす。ブラックは飲めない七香さんのためにミルクと砂糖を準備して、インスタントコーヒーの入った容器を手に取る。最近買い足していないので不安だったが、まだ二人分はありそうだ。

 居間を覗くと、七香さんはこちらに背を向けて座っていた。感情が読み取れず、彼女の内心を測りかねた俺は、とりあえず空気を和ませるために適当なことを口にしてみた。


「えっとじゃあ――宿敵を倒した、とか」


 それは、本当に考えもなしに発した回答だった。まったく何も思い当たらず、「ゲームでボスを倒したのか?」という程度の意味合いで尋ねてみたのだが――返ってきたのは、予想外の言葉だった。


「あ、近い! ほぼ正解かも」

「マジですか――?」


 まさかの返答に、思わず電気ポットを落としそうになる。危ない。

 慌てて握り直したポットでお湯を注ぎ、二つのマグカップを持って居間へ入る。どうやら彼女の機嫌は直っているようだった。

 片方のマグカップを手渡すと、彼女はそれを受け取って言った。


「ありがと――正確には、倒したんじゃなくて見つけたんだけどねー」

「七香さん、宿敵なんかいたんですね」

「やだ井戸屋、前に話したでしょ? ナナコ、を探してるって――忘れちゃったの?」


 床に座る彼女が見上げながら尋ねる。

 女性の上目遣いという、潤んだ瞳で見上げられるこのシチュエーションは、男にとって破壊力が抜群である。ましてや顔立ちの整った七香さんのそれなのだから、通常の倍に匹敵する。それはもちろん俺も例外ではなく、ついドギマギしてしまった。

 できればもう少し、この絶景を楽しみたいところではあるが――とはいえ、このまま突っ立ってもいられまい。そこでさっさと床に腰を下ろそうとしたが、まさか七香さんの隣に座るわけにもいかず、机を挟んで反対側へ座ることにした。

 どうして自分の部屋で、座る場所に気を遣わねばならないのかと思いつつ、可もなく不可もない味のインスタントコーヒーを一口すする。

 そのままふと過去の記憶を検索してみると、彼女の言うことに思い当たるふしはあった。


「それって確か――」


 そうだ、聞いたことはある。

 それはまだ、七香さんと出会ったばかりの頃。俺が井戸屋業を始めたきっかけの話だ。

 彼女は確かに言った。「探してるがいるんだよね」と。

 しかしそれは――。


「――お父さんですよね。七香さんが探してるのって」

「そうだよ。ナナコが中学生の時、ナナコとお母さんを置いてどっか行っちゃった


 「お父さん」や「あいつ」ではなく情のこもらないその呼び方に、彼女が父親を心底他人扱いしているのが感じられる。


「見つかったんですか?」

「うん、まあ――まだ会ってはいないんだけどね。ただ、おそらく間違いないみたい。情報提供者が嫌なヤツだから、そこが少ししゃくなんだけど――でも」


 そこで彼女は俺の入れたコーヒーを口にした。

 砂糖とミルクを二杯ずつ入れた、個人的にはとても飲む気がしない甘ったるい液体を――彼女は美味しそうに飲んでから続けた。


「中学の頃からのもやもやが少し晴れただけでも、全然違うんだよね」


 その表情は、やはりとても晴れやかであった。


「良かったじゃないですか。ところでその『気に食わない情報提供者』って誰なんです?」

「それがね――浩二なの」

「田村先輩が? どうして――」


 「知っているんですか」と言いかけて、思いとどまった。

 確認するまでもない。

 田村先輩は七香さんの元カレだ。ならばそんな話をしていたって、なんら不思議な間柄ではない。付き合ってもいない俺にすら、語る情報なのだし。

 そもそも人探しである以上、広く情報提供を募ったほうが効率がいいのは間違いない。多くの人に頼めば頼んだだけ、見つかる確率は高まるのだから。

 それは解っている。

 解ってはいるのだが――。

 俺はつい、こう思ってしまった。




 ――ああ、なんだ。

 自分は特別じゃないのか、と。




 そんな気持ちを飲み込むように、再び口にしたコーヒーは、先ほどよりも苦みが増した気がした。


「ナナコも、アイツがどこから情報仕入れてきたのかは解んないだけど――でも、ナナコのために調べてくれてたみたいだから。少し、見直したよ」


 ――七香さんのためだと?

 あの、自分の欲求を最優先にして生きている先輩が、そんなことをするとは思えないが――しかし。

 それでも、この件に関しては、自分などよりも彼女の役に立っているのは間違いない。

 有り体に言えば、負けたのだ。はっきりと。

 何にって?

 決まっている。


 男として、だ。


 そんな思いに打ちのめされ――その後は、七香さんと何を話したか、はっきりとは覚えてはいない。覚えているのは、ただ上機嫌な彼女の話に対して機械的にうなずき、たまに相槌を打ちながら、コーヒーのおかわりを用意してあげたくらいことだ。

 そして夕方になると約束があるからと言い、七香さんは部屋を出て行った。彼女はその約束とやらをはっきりとは言わなかったが――こちらとて、どこで誰と会い、何をするのかなんて聞く気にもなれなかった。

 彼女を見送り、玄関のドアが完全に閉まると、つい――言葉が漏れてしまった。


「なんだよ、それ――」


 居間の窓から差し込むオレンジ色の夕日も届かない、うす暗い玄関で俺はうなだれた。

 そこへ――。




青春アオハルに打ち込んでいるところ申し訳ないのだがな――」




 と、背後から聞きなれた子供の声で話しかけられ、たいそう驚いた。「ぎゃっ」と無様な悲鳴をあげ、すぐにその声の主に思い当たる。


「まったく、今日は――七香さんといい、お前といい――心臓の耐久値を試してくれやがるぜ、ちくしょう」


 早鐘はやがねを打つ心臓をなだめつつ、悔しまぎれに悪態をついて振り向くと、そこには――。




「新たな救済対象が見つかった。仕事だ」




 いつもどおり赤い着物を着て、

 いつもどおり真っ白な髪の色をした、

 いつも以上に小憎たらしい顔の子供神がいた。

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