第4話 海
稲村ケ崎の駅のホームに降りると、潮の香りをふくんだ風が鼻先を吹き抜け、圧倒的な蝉時雨が潮騒とともに降ってきた。湿気をたっぷり含んだ生暖かい空気がじっとりと肌にまとわりつく。もうお盆を過ぎたとはいえ、まだ夏は盛りといった風情で強い光が街中に照り付けていた。
首筋を伝う汗を拭きもせず、急ぎ足で蒼馬は改札を通り抜ける。いつも彼の方が早いのだが、今日は待ち合わせの時間に十分遅れてしまった。
息を切らしながら辺りを見回す。きっと怒ってるだろうな。また口うるさく説教してくるであろう愛桜衣の姿を想像して、蒼馬はしかし小さな笑いを漏らす。いつもの彼女の姿。この暑いのに相変わらずスーツに身を包んで。仁王立ちして眼鏡に指をあてて。
すぐに見つけられると思っていた愛桜衣の姿はしかしどこにもなかった。蒼馬のわきを抜けて明るい陽光の下を去ってゆく人々の中に彼女の背を探すも、やはり見当たらない。
(おかしいな。彼女も時間に遅れることはないのに)
改札わきにしばらく突っ立って視線をさまよわせる。五分、十分……。時間だけが無為に過ぎてゆく。そしてあの灰色スーツを見出すことはできない。
コツコツとヒールの音がきこえた。そちらの方に顔を向けると、スーツの女の人の姿が目に入る。蒼馬は思わずホッと息を吐いて口を開きかける。
「あ。せんせ……」
声をかけようとして彼はすぐに口を閉じた。ハンカチで汗を拭きながら彼の目の前を通り過ぎたその人は、眼鏡もかけてなければお団子ヘアーでもない、愛桜衣とは全くの別人だったから。
出しかけた言葉はため息に変わって蒼馬の口から漏れる。なんだか落ち着かなくて、彼は無意味に何度も目の前の道路を往復した。でも、灰色スーツの女はいない。
(なんだよ、あいつ。こんなに待たせて)
連絡を取ろうとスマホを取り出し、画面を見る。その時、突然背後で声がした。
「こら。あなたいったい何やってるのよ」
振り返ると、そこには水色のチェック柄のワンピースを着た女の人がいた。腰に手を当てて、蒼馬を見上げている。白いつば広帽子をかぶった彼女は、ずり落ちそうになった黒ぶち眼鏡を人差し指で押し上げて……。
「なによ。お化けでも見たような顔して」
ぷうっと頬をちょっと膨らませたその表情。愛桜衣が不貞腐れた時によく見せるその表情をみて、彼女のその声を聴いて、蒼馬は思わず笑いだしていた。
「ちょっと、どうしたのよ急に。失礼ね。近くにいたのにずっと知らんふりして。そんなにこの格好がおかしいの」
「ごめん先生。違うんだ。全然気がつかなかったんですよ。何ていうか……会えてよかった」
愛桜衣はあきれたように口を半開きにして眉をひそめた。
「気づかなかったって。私だと分からなかったの」
「スーツを着てなかったから」
蒼馬がほほ笑みを浮かべてうなずく。
少しできた沈黙の間。そこにセミの鳴き声や潮騒が入り込み、家々の屋根や窓などに反射してきらめく光が空間を照らす。しばらく唖然と蒼馬を見つめていた愛桜衣は、やがて毛先をいじりながら視線を斜め下に流した。
「それで……。似合ってる? これ」
「ええ。似合ってます。とても素敵ですよ」
そんな言葉を簡単に口にしてしまった自分に、蒼馬自身が驚いた。ちょっと気障かなとは思ったけれど、でも、取り消したり訂正しようという気にはならない。それは偽りのない感想で、心の内からまったく自然に出てきた言葉だったから。
「お、お世辞なんか言っちゃって。さあいくよ」
そう言って帽子をかぶりなおした愛桜衣の頬が、ほんのりと紅く染まっていた。
坂道を下って国道を渡ると、視界を占める光が明るさを増したような気がした。それと同時にそれまでとは全く違う圧倒的な大きさで潮騒が体を包む。見渡す限りに広がる海が、幾千の眩しい粒をゆらしながら目の前に横たわっていた。
「海だねー。暑いねー。富士山、見えないねー」
白い日傘をさした愛桜衣は砂浜を歩きながら、そんな意味のない言葉を歌うように口ずさむ。今日はよく晴れているが、江ノ島と陸の間に見えるはずの富士山はぼやけていて、よくその姿を見ることはできなかった。
富士山は見えないけど、でも、蒼馬は自分の気持ちがいつもより弾んでいるのを感じていた。由比ガ浜のそれよりも黒みがかった砂浜には星屑のように光の片が散り、そこに寄せる波が空の色を映して輝く。沖にはより大きな光の群れが流動し、その間をカラフルな帆を張ったヨットが行きかい、サーファーたちが波の間を泳いでゆく。
蒼馬は目を細めてそれらの風景に腕をのばし、筆で色を塗る仕草をした。
「何してるの」
愛桜衣が怪訝そうに訊くと、彼はそのしぐさを続けたままつぶやいた。
「不思議だな。以前はそんなに色なんか気にしなかった。世界の色はもっと単純だと思ってた。でも、違った」
彼は空気の筆を摘まんだ指を海に向ける。海の色はただの青じゃない。浜辺と沖とではその色は全然異なるし、波と波とでも微妙に違う。光の浮かぶところとそうでないところも。はるか沖のあそこは何で緑がかった色をしているんだろう。
海だけじゃない。空も、雲も、砂浜も。それらをつくりだす色の重なりや絡み合いを、自分はどうやって表現したらよいのだろう。ああ、今風景と一緒に自分の心を照らしているこの光を、この色合いを自由に描き出すことができるならどんなに素敵だろう。
「絵って、表現することって、難しいね。僕はもっと上手になりたいよ」
そう言って愛桜衣の方に顔を向けると、彼女は手で帽子を押さえながら笑みを含んだ目で静かに蒼馬のことを見つめていた。
「上手になったよ君は。最近、とてもいい絵をかくようになってきた」
いろんな色を含んだ光に包まれながら、彼女は柔らかくほほ笑む。風にあおられたその髪がふっくらとした唇にかかる。ワンピースのスカートが翻ってふわりと膨らみ、白い太ももがちらりとのぞく。
蒼馬はなんだか恥ずかしくなって視線を少し下げた。
「なあに。頬を紅くしちゃって」
おかしそうに笑い声を漏らす愛桜衣の眼鏡が少しずり落ちた。片手で日傘を持ちもう片手で帽子を押さえているので、眼鏡を戻せない。眼鏡がずれたままの顔で、しかし彼女はにこやかな表情で小さく笑いつづける。
(ああ、きっと自分は……)
愛桜衣のちょっと間抜けなそんな表情を、心底可愛らしいと蒼馬は感じる。そしてそんなことを思う自分の気持ちの中にあるものを、彼はようやく発見する。きっと自分は、この人のことが好きなんだという感情を。
「今はまだまだだけど。何年かかるかわからないけど。もし、もっと上手になったら……」
気づくと同時に、彼は衝動的に口を開いていた。その気持ちを逃さないように。好きという文字を胸に抱きながら、蒼馬はかみしめるように言う。
「そしたら、描かせてよ。先生を」
「そう……」
愛桜衣は海の方を向いてつぶやき、帽子から手を放して眼鏡を押し上げた。優しい声だったが、なぜかその横顔がとても寂しげに見えた。
「観たいな。君が描いてくれた絵……」
はるか沖を見晴るかす彼女の目からふいに涙がこぼれた。涙は砂浜や海面に浮かぶ光にまじって瞬きながらその頬を伝う。
どうしたの? そう問いかけて、しかし蒼馬にはどうしても声をかけることができなかった。ただ唖然と彼女の様子を見つめるばかり。その涙の意味を彼が知るのは、秋も深まってからになる。
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