第3話 花火
夏は海水浴場には近づかない。それが蒼馬の夏の掟だったが、この年はそうはいかなかった。
「監視所の前あたりの浜にいるから。あと、私焼きそば食べたい」
その言葉に反論する間も与えられず、愛桜衣からの電話は切られてしまった。
夕暮れ時はもっと静かな寺や神社の境内で、蝉時雨を浴びながら涼んでいたいものだ。そんなことを考えながら蒼馬は、海の家で買ったあっつい焼きそばを両手に持って、浜を埋め尽くす人の間をさまよっている。時々立ち止まって見上げる空は、澄んだ淡い紫のガラスの椀をかぶせているようだ。西側に突き出た稲村ケ崎のあたりだけまだ茜に染まっていて、黒い影になった岬の上に浮かぶ雲が、物憂げな橙色のきらめきを西空に散らしていた。
薄い闇の幕がおりはじめた砂浜は、昼の街のようににぎわっている。立ち並ぶ海の家からは若者たちの笑い声と一緒に眩しい光が放たれ、焼かれた肉の匂いが潮の香りと混ざり合って、押し合う人々の鼻先を流れる。もうすぐ夜になろうというのに、この喧騒は収まるどころかますます大きくなってゆく。
当然だろう。今日は花火大会の日なのだから。
(やっぱり苦手だな。こういうところは)
派手な水着の女の背中を目で追いながら、蒼馬はそんなことをぼやく。にぎやかなところが嫌いなわけではないけれど、家族連れや恋人や友達の集団であふれかえったところはなんだか居づらい。とくに、夏の海水浴場は。自分の孤独をより強く実感させられるから。
(今日は僕も独りではないけれど……)
蒼馬は周囲を見渡して、浜の観覧席で待っているはずの愛桜衣の姿を探した。湿気を含んだ潮風は昼よりも少し冷気を含んでいる。しかし相変わらず蒸し暑い。この暑いのに焼きそばかよ。そんな愚痴をこぼしながら、彼女の名を呼んだ。
こんな人ごみの中でそう簡単に見つけられるわけがないと思っていたが、愛桜衣の姿は意外とあっさり探しだすことができた。
指定された、監視所の前あたりの観覧席の、最後列。水着や浴衣など、夏らしいリラックスした姿の人々の中でただ一人、灰色のスーツを着込んだ女の人がいる。砂の上に背筋を伸ばして正座をして、まっすぐに海を見つめている。一本の毛のほつれもなくきめたお団子ヘアーは、宵の海風にも乱れることはない。
自分にまとわりつく空気の温度が二三度も上がったような錯覚を覚えながら、蒼馬は愛桜衣の隣に座って焼きそばのパックを差し出した。気づく様子を見せないので声をかけようとして、しかし彼は開きかけた口を閉じる。海を見つめる彼女の横顔が、なんだかとても寂しそうに見えたから。
「あ。焼きそば持ってきてくれたんだね。ありがとう」
ようやく振り向いてかけてくれた声は、実にそっけない。その態度に蒼馬は少しムッとする。なんだよ。こんなところに呼び出しておいて。もうちょっとうれしそうな顔でもすればいいのに。そう思いながら、蒼馬は彼女の表情をちょっとほぐしてやろうと、冗談を口にする。
「そんな恰好で暑くないんですか先生。もっともそれじゃあ、ナンパされずにすんでいいか」
すると愛桜衣は横目でじろりと彼をにらんで、
「そのとおり。あんたみたいなスケベの視線にさらされずにすんでいいわ」
「スケベとは心外だ。いったい何を根拠に」
明月院で胸を触ったのは事故だからな。そう自分の中で言い訳しながら言い返すと、彼女は鼻で笑って焼きそばをすすった。
「水着の娘のお尻ばっかり、目で追っちゃってさ」
そ、そうだったかな。全力で否定しようとして、しかしちょっとは見ていたかもしれないと思い、言葉を詰まらせる。
「もっと景色も観ようよ。でないと、絵もうまくならないよー」
「でも、この前の課題の紫陽花の絵は、なかなかのものだったでしょ」
先週の課題。紫陽花の絵はなかなかうまく描けたと、蒼馬は自負している。色づかいもよかったと思うし、何より描いてて楽しいと思えた。愛桜衣からは相変わらずダメ出しされたけれど、嫌な気持ちはしなかった。それは文句ではなく、次につながるようなアドバイスだとわかったから。
「まだ。まだ」
愛桜衣は焼きそばを飲み込んでから、深い紺色に沈んでゆく空を見上げてつぶやく。まだ、まだだよ。と。
「次は、花火の絵だからね」
そして、かすかに笑みを浮かべた。
その愛桜衣の表情を見つめながら、蒼馬はふとあることを思う。
なぜ、愛桜衣は僕を誘うのだろう。僕と一緒にどこかに行こうとするのだろう。いい年なのだから、行きたいところがあれば一人でも行けばよい。お供がほしかったのだとしても、もっと他によさそうな人がいそうなものだ。少なくとも口答えをしたり、からかったりするような自分よりも……。
そこまで考えて、蒼馬はあることにハッと気づく。もしかして、この人は僕のことが……。
「ねえ、先生……」
震える声で蒼馬は恐る恐る愛桜衣に声をかける。ねえ先生。ひょっとしてあなたは、僕のことが好きなのかな。その問いを喉に押しとどめながら。
「ん。何」
音を立てて焼きそばをほおばった愛桜衣が振り向く。ほっぺたを膨らませてもぐもぐとそばを咀嚼している、その口元には青のりや紅しょうがのカスが髭のようにくっつき、眼鏡は湯気で曇っている。
蒼馬はさっきまで喉に引っかかっていた言葉を飲み込んだ。
「いや。何でもないです」
すみません。どうやら、僕の勘違いのようでした。
ちょっとほっとしたような、しかしどこか寂しいような気持ちと一緒に膝を抱えて、蒼馬は空を見上げる。宵の色を漬けこんだ雲の浮かぶ空に、花火大会開始のアナウンスが響き渡った。
暗い空を割いて、光が、川魚のようにのぼってゆく。
「もっとだよ。もっと君は、上手になる」
光を目で追いながら愛桜衣は、うわずった声でつぶやいた。
音もなく、大倫の光の花が夜空に咲く。紅い光。青い光。緑の光……。いろんな色の無数の光が、放射状に線を描いて散ってゆく。一瞬の間をおいて、とてつもなく大きい、鼓を打つような炸裂音がとどろく。浜から歓声があがり、空いっぱいにちりばめられた光は、きらめきながら闇に溶けていった。
「世界はいろんな色であふれている。それを見て」
間髪を入れず、何本もの光の線が、生を得たかのように空に昇っていく。
「きっと闇の中にだって、色はあるはずなんだから」
蒼馬が見つめた愛桜衣のメガネの表面を、幾輪もの光の花が埋め尽くす。次々と咲いては消える花火の色に顔を染めながら、彼女は幸せそうに笑っていた。
最後まで観ていると帰り道が混雑して大変なので、二人は途中で海岸を後にした。
あんなに浜の界隈はにぎやかだったのに、丘沿いの小路に入ると、古い住宅街は嘘のように静まりかえっている。愛桜衣は特に言葉を発することもなく、その隣を歩く蒼馬も何も言わない。ただ、時々遠くで響く花火の音が、祭りの名残のようなもの悲しさで、うつむき加減の二人の上に注ぐ。
ある寺の楼門の前で立ち止まった愛桜衣は蒼馬の方を向くと、にこりとほほ笑んでようやく声を発した。そこは短い石橋の脇で、闇に響くせせらぎの音が彼女の声をかき消してしまいそうだった。
「今日はありがとう。また、教室でね」
そう言って、彼女は分かれ道を左に折れて去っていった。蒼馬のアパートは右の道を行った先にある。しかし彼はその道に入らず、橋の脇に立ったまま、愛桜衣の去った街路を見つめていた。ところどころに薄暗い街灯の灯りが照っているばかりの、何の変哲もない細い路。しかしその街路の暗闇に、花火の残り火のように光のきらめきが残っているのを、彼は見たような気がした。
翌週の絵画教室の課題は、愛桜衣が言った通り花火だった。
最後まで教室に残った蒼馬の絵を、愛桜衣は長い時間をかけてじっと見つめている。西日が入ってきて茜色に染まった教室。セミの鳴き声が汗のように耳にまとわりつくほかは、物音ひとつしない。ただでさえ蒸し暑いのに、今日も暑苦しいスーツに身を包んだ愛桜衣は、眉一つ動かさずに彼の絵をにらみつけている。何の感情もうかがわせない、まじめそのものの表情で。
「あの。先生。何かアドバイスはないかな」
たまりかねて蒼馬は汗を拭きながら彼女に訊く。構図が変かな。色もおかしいかな。手抜きはしてないつもりだけど、もっと大胆に描いた方がよかったかな。
やがて大きく息を吐いた愛桜衣は蒼馬の肩をたたいた。それに続いて突然、こぶしを彼の目の前に突き出し、親指を上に立ててみせた。
顔をひきながらその親指を見つめていた蒼馬は、目をぱちくりしながら愛桜衣の顔に視線を移す。すると能面のようだった彼女の表情が、パッと笑みに変わった。
「上手く描けたね。いいよ、これ。やったじゃん」
そして彼女は目を細め、白い歯を見せて笑った。
愛桜衣に挨拶をして教室を後にした蒼馬は、人気のない廊下で立ち止まり、暮れ色に染まりゆく空を見上げた。上手く描けたね。そう言った時の彼女の笑みがそこに浮かぶ。蒼馬は言い知れぬ衝動に駆られてステップを踏み、そして小さくガッツポーズをした。
「よっしゃ!」
控えめに言ったその声が、蝉の声に混ざって静かな廊下に響いた。
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