絡繰り糸を伝ふ〈三〉
杏李が無事退院し、神鷹とともに朝霞邸に戻る日取りが決まった。神鷹が
杏李が話を聞きつけて部屋に駆けつけた時には、すでに医者は診察を終えていた。部屋の前にできている人だかりをなんとか潜り抜ける。
「朝霞様、」
狼狽える杏李に気づき、寝台の脇に立っていた女が振り返った。
年嵩は五十ほどだろうか。背筋はぴんと伸び、髪はきっちりとまとめられ、厳格な雰囲気を醸している。思わず杏李も背筋を伸ばし、女と向き合った。
「ああ、この子が深山のお嬢さんね」
あちらからして見れば、小娘が突然部屋に飛び込んできたのだ。注意深く杏李を見聞していたが、やがてくしゃっと笑みを深める。その優しげな声に、杏李の肩から力が抜けた。
「じんちゃんはそう大したことないわよ、安心なさい」
「じんちゃん……?」
まるで孫でも呼ぶかのような調子に、杏李は目を丸くした。それに、寝台に横たわり細い息をしている神鷹が答える。
「囲様は昔から僕をそう呼ぶんだ。もう大人なのに……」
「あら、いくつになっても子供は子供ですよ。百歩譲って大の男というのなら、お嬢さんを慌てさせないようどんと構えていなさいな。ちょっと血を吐いたくらいで」
「……相変わらず手厳しい方ですね……。杏李、心配をかけたね。もう大丈夫だよ」
神鷹はゆっくりと身を起こすが、心なしか笑みが引きつっている。無理をしているのだろう。
「鏡を見てからおっしゃってください。ひどい顔色です」
杏李は慌てて駆け寄ると、神鷹の肩を押して寝かせた。布団をかけ直し、額に浮かんだ汗を手ぬぐいで拭う。
二人が息をつくと、先ほどの女が野次馬を追い払って戻ってくる。
「ほら、杏李、囲の御当主様だよ。ご挨拶なさい」
「み、深山杏李と申します、囲様」
神鷹に促され、杏李は深く頭を下げる。顔を上げてつぶさに目元を観察すると、なるほど血筋を思わせた。もっとも、この柔らかで優しげな目を、斉一はその性格で台無しにしているのだが。
「なんとなく考えていることがわかるわ」
「えっ!」
杏李が驚いて声を上げると、麗華は上品に笑った。
「孫が苦労をかけているようね。あの子は息子の教えには従順なのだけど、私の言うことはとんと聞かないのよ。尊重はしてくれるのだけどね」
「尊重……?」
斉一が誰かに敬意を払っている姿など、想像もできない。彼が仕える主上であるところの天皇は別として。疑わしげな杏李に、麗華は笑う。
よく笑う人だ。五十くらいと思っていたが、囲の当主なら八十近いはずであるというのに、それを一切感じさせない。
「あの……よろしいですか」
和やかな空気に、おずおずと割り入る声がある。そういえば診察中の医者がいた、と杏李は思い出し、居住まいを正した。医者は咳払いを一つすると、杏李に向き直る。
「結論から申しますと、絶対安静を保っていただく必要があります」
「そんなに悪いのですか」
「山郷の戦いで瘴気を吸いすぎたことが原因ですね。肺が
薬の値段を聞いて、杏李はぴんと来なかったが、神鷹はわずかに眉をひそめた。出せない額ではないのだろうが、その様子を見てなかなかの大金であるということを察する。
「はやく朝霞に戻って皆を安心させたいのだけど……」
「そんな体で戻っても余計に心配させるだけですよ。守るべき者たちに気を遣わせてどうするのです」
「先程囲様は、大袈裟だという旨のことをおっしゃっていませんでしたか……」
「あら、お医者様の見立てを疑うことなんてしませんよ」
達者な口だ。神鷹の胡乱げな視線をひらりとかわして、麗華は「お医者様の言うことを良くお聞きなさい」と言い残し、部屋を出て行った。
「杏李の傷を診ていただこうと思っていたのに、すっかりそれどころではなくなってしまったね。ごめんよ、杏李」
医者もまた出て行ったところでようやく気づいたのか、神鷹は申し訳なさそうに眉根を下げた。杏李は首を横に振る。
「私はこの通り元気ですから、後でも構いません。朝霞様もご自愛くださいませ」
「そうだね……ああ、そうだ、今日は椿が来る予定なんだけれど、この様子だと早めに来そうだ」
「
ぶっきらぼうでお世辞にも愛想がいいとはいえないが、神鷹は特に気にしていない様子だ。
「でしたら、お茶を淹れてまいります」
「杏李、それは他の人に頼んでもいいんだよ」
「手すきなのです。それにお茶の淹れ方なら習いました」
最初は散々だったが、今はだいぶ美味しく淹れられる。緑茶から紅茶までお任せあれだ。張り切る杏李に、しかし神鷹はどこか心配そうな面持ちだ。
「杏李、」
「火傷には気をつけます」
先回りされ、神鷹は口を
❈ ❉ ❈
湯を沸かしながら茶葉を選ぶ。できるだけ神鷹の体に良さそうなものをと考えるが、正直茶の効能の勉強まではしていない。
散々悩んだ末に舶来品の紅茶缶を棚から取り出すと、白磁の茶器に湯を注いで温める。神鷹は緑茶も紅茶も嗜むが、紅茶のほうを好んでいる。色々気を働かせるより、本人の好みに合ったものを出すのがいいだろう、と杏李は考えた。
(……朝霞様のお体は、良くなるのかしら)
羽柴で調達した肺の薬は、在庫が少ないとの話だった。市外から取り寄せるために手間賃もかかる。今後それを継続的に服用するとなれば、帳面をやりくりする必要が出てくるだろう。杏李という養女を抱えた上で、だ。
(お裁縫は……多少なりできるわ。洋書の翻訳とかもできたらよかったのだけど、英語は苦手だし……)
正直、幽閉されていた杏李に職能らしい職能は皆無に等しい。教育は受けていたが、専門職に就けるほどではない。奉公に出たとして、そもそも深山家の令嬢という奉公に出る必要のない身分の人間を雇ってくれるようなところもないだろう。
「どうしよう……」
「……なにがですか?」
肩を落とした杏李に、声がかかる。顔を上げると、
「い、いえ。なんでもありません。独り言です」
杏李は口ごもる。花霞邸は彼の仕事場であるため、こうして顔を合わせること自体は不思議ではないのだが、独り言を聞かれたことがやや恥ずかしく、俯いた。羽瀬は「そうですか」と追求することもなく、
「……湯は余っていますか」
「あっ、はい。どうぞ」
神鷹を相手に
茶を淹れている間、二人はただ黙っていた。先日のことがあって杏李はどうも居心地が悪く、着物の裾に触れたり、床の木目をじっと見つめて気を紛らわせる。茶葉を蒸らす時間が、やけに長く感じた。
(いや、
やがて至極単純なことに気づいた杏李は立ち上がる。盆にいそいそと茶器を並べて、場を辞そうとすると、羽瀬が口を開いた。
「先日は、急な話で驚かれたでしょう。申し訳ありませんでした」
それが形式的な謝罪に過ぎないことは、杏李にも察せられた。大方上から苦言を呈されたといったところだろうか。杏李はしばし考えて、盆を長椅子の上に置くと、再び腰を下ろした。
「羽瀬殿。私は、あまり霊魔との戦線については詳しくありません。状況は、そんなにも悪いのですか」
大霊災から四ヶ月あまり、花守たちは
神鷹はあまり多くを語らないが、噂だけを聞けば
羽瀬の表情は変わらない。適切な表現を選んでいるように思える。目を伏せ考えているその
「……正直に申せば、予断を許さぬ状況と言えるでしょう。花守たちはみな消耗しています。
人手は常に不足している、と羽瀬は言っていた。杏李はそれに、ひとつ提案をする。
「羽瀬殿。もし、万に一つ、私が戦えるとして……あるいは、なんらかの形でお手伝いができるとして、その見返りを望んでも良いのでしょうか」
「……と、申されますと?」
「お薬を、」
杏李はそこまで言って、一度言葉を切った。神鷹は、杏李の勝手な行動をどう思うだろうか。少なくとも好意的には受け止めまい。
それでも、もう言ってしまった。神鷹を悲しませることはしたくないが、これは神鷹の命を永らえさせるためなのだと言い聞かせ、杏李は深呼吸の後、はっきりと口にした。
「朝霞様の病を癒すお薬を卸してください。そのためならば、この命を捧げることも
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