初戦 金華剣戟

 慶永けいえい六年九月一日。『よろこながらえよ』とのいのりとともに新たな時代を迎えた日ノ国は、ここに来て亡国の危機に晒されていた。

 現世うつしよ幽世かくりよを隔てる境界の崩壊という未曾有の大霊災に襲われ、霊魔れいまと呼ばれる異形いぎょうの者どもの手によって、帝都夕京ゆうきょうは陥落——その東半分を喪失した。

 夏の終わりに内閣府の長である藤森フジモリ史郎シロウが急逝し、その後継も決まらぬ慌ただしさの中起こった大事件であった。南条ナンジョウ志信シノブは速やかに新内閣を組閣し、この霊災に対応すべく、首都機能を榎坂えのざかへと移転、『内閣告諭こくゆ第四ごう』および『勅令三五六號』によって夕京市内の花守はなもりを参集する。


 花守——それは、現世うつしよ幽世かくりよの境界たる霊境れいきょうを守る巫子みこたちのことである。しかし彼らの力をってしても、霊魔との戦いは混迷を極めた。


 霊魔の持つ〈けがれ〉。それは魂を蝕み、きずとなって花守たちを同じ霊魔へとせしめる。


 その苦悶を、少女・杏李アンリは目の前にしていた。


 魂が変質することへの悲痛な叫びが、おぞましい咆哮へと変わった。姿形は、名状しがたいけだもののそれとなり、赤く濡れた瞳が杏李を見据える。


 月の美しい夜だった。


 いや、迫る死を前にして——そう錯覚しただけかもしれない。


 先ほどまで杏李を守護し、気遣きづかっていた花守の青年は、今や自我を失った異形かいぶつと成り果てている。杏李は突然のことに怯え、たたらを踏んで尻餅をつき、呆然とそれを見上げていた。


 異形の腕が振り上げられる。杏李は目をつむり、上体をひねって背を向ける。


 逢魔時おうまがときの人気のない路地。都合の良い助けなど、あるわけがない。異形の爪が杏李の背を深く抉った。


 ほとばしる鮮血は致命傷を意味している。あまりの痛みと熱に、杏李は声なき悲鳴をあげた。恐怖が支配する胸に去来するのは後悔と懺悔ざんげである。


 この時間に出歩くことを戒められていたにもかかわらず、彼女は無理を言って外出した。瘴気しょうきに侵され伏せる義兄のからだを癒す薬を手に入れた、その帰りだった。

 一夜明けてからのほうがいい、夜は霊魔が跋扈ばっこするとの従者の諫言かんげんを、彼女は受け入れなかった。薬を届け、義兄の苦しみを和らげたいと願ったばかりに、従者の青年は命を落とし、杏李もまたそれに続こうとしている。


(私は、死ぬのか)


 脳裏に浮かぶのは、義兄の顔だ。幼い時から焦がれ、ついぞ手に入らなかった尊い輝き。今もきっと杏李の無事を願い、帰りを待っている、優しい人。


(死にたくない……)


 滲んだ涙は痛みからではない。そんなものはとっくに麻痺してしまっている。ただ悔しさから溢れ出したものが視界を洗い流し、明瞭にする。


(死にたくない!)


 見開いた目が捉えたのは、血に濡れた刃。すでに息絶えた従者の持ち物か、か。あゝいずれにせよ、少女にとってそれは

 少女の動かないはずの腕を動かしたのは、華奢きゃしゃな指に刀を握らせたのは、運命の糸か、あるいは妄念の鎖か。


ね——化け物!」


 血に塗れた羽織がひるがえる。月光を反射して弧を描いた一閃が、異形の首を捉えた。


 無茶苦茶出鱈目でたらめに振るわれた刃は少女の小さな手をも傷つける。それに構うことなく、ただ立ちふさがる死に真っ向から対峙する少女の目は、恐ろしいほど怜悧れいりで——金色こんじきに輝いていた。

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