潜在夫婦
霜月 風雅
第1話
お隣のご夫婦は、ちょっとおかしい。
僕が、そんなことを思ったのはこの家賃格安のアパートに引っ越してきて数日ほど経った頃だった。
どんなオンボロアパートなのかとちょっと恐々とやってきたアパートは、安すぎる家賃とは不釣合いなほどお洒落で立地だって確かに駅からは遠いけれど近くにスーパーがあるし、コンビニだってある。周りは、森とまではいかないが、緑豊かな公園があるし最近出来た新しい家がたくさんある、言ってしまえば閑静な住宅地だ。
そんな物件が、こんな格安で。きっと何かある。そう思っていた僕の予想は、しっかりと当たった。
「うるさあああい!!!」
今日も、聞こえてきた激しい怒鳴り声。それから、がしゃーんとまるで何かが壁にぶつかって壊れる音。それは、ガラスなんて優しいものではなくてどう聞いてもどう考えてももっと大きくて硬いものだ。例えば、そう。
「ちょっと、ソファはダメ!!ソファは、高いんだからあああっ!!」
旦那さんだろう人の怯えたような、どこか楽しそうな声とともにどかーんと部屋中に衝撃。ぐらぐらと揺れてパラパラと天井から、何か細かいものが落ちてくる。
「うるさい、うるさい、はるなのわからずうやああ!!」
「違う、違うよ!!誤解だよ、ふゆは!!」
一体、何が隣りの部屋で行われているのだろうか。どったんばったんと部屋が揺れるほどの喧嘩に毎度、警察を呼ぼうか、とも考える。しかし、慣れてしまえばただ煩いだけなので僕は黙ってやり過ごすことにしている。
くたりと横たわっている男の周りには、ついさきほどまでは家具だった物が中途半端な形を保ったまま、転がっている。その破片をぺきりぺきりと踏み鳴らしながら、一歩一歩と女が近づいていく。その手には、ぎゅるぎゅると不吉な音を出しながら、鋭いギザギザ刃を高速回転させる電動のこぎりが握られている。
「・・・っ」
怒りを込めた一撃を放つべく女は倒れた男の上に馬乗りになった。小さな少女ほどの大きさの女が持つ大きな電動のこぎりは、ぎらりと邪悪な色に光る。
「ぅ・・・え、ちょっと、冬葉!?」
「うおりゃああ!!」
女の重さか、電動のこぎりの音か、はたまた死の気配を感じ取ったのか。男は、ゆっくりと目を開けて自分に馬乗りになる女、妻である冬葉を見た。
振り下ろされたのこぎりを自分の肩に触れる寸前で受け止め、手首に力を入れて右に捻る。その動きに合わせて冬葉の持っていたのこぎりの刃が、ぐにゃりとまるで飴細工か何かのように右に曲がる。細身の体のいったいどこからそんな力を出したのか。普通の人間ではまず出来ないようなこの力技に、しかしどちらも驚いていない様子でじっと真剣な顔で睨み合ったまま。
「うう、何すんのさ!春奈!!」
「それは、こっちの台詞でしょ。いくら何でもこれは危ないよ。」
曲がったのこぎりを、冬葉の手から奪うと男・夫である春奈はそのまま、部屋の奥に向けて投げ捨てた。
冬葉が逃げないように、春奈は自分の上に乗っている冬葉の腰を掴んだままに起き上がる。春奈と目を合わせないようにふいとそっぽを向いている冬葉の尖った唇を見つめ、春奈は怒りたいのに勝手に零れる笑顔が愛おしいと思った。
「冬葉、俺を本当に壊したいなら・・どうしらいいか、わかってるでしょ?」
「・・・・べ、別に、本気だったわけじゃ・・ないもん。」
膝と上体で包むように小さな冬葉の体を閉じ込めたまま、囁くように尋ねればさっきまで電動のこぎりで馬乗りだったとは思えないほどに大人しい返事。それでも、怒りは収まらないのかアヒルのように尖った唇が反抗的だ。
「ふふ・・わかってるよ。だけど、俺は冬葉に壊されるなら本望だよってこと。」
笑いながら、出来る限り優しく包み込むように春奈は冬葉の小さな体を抱きしめた。温かく柔らかい生き物の感触。春奈はそれを愛しむように大きな手で冬葉の頭を撫でた。漆黒の髪の艶やかな感触とピクピクふわふわと揺れる、こげ茶色の獣耳。
「冬葉の愛情表現は、本当にパワフルだね。俺、冬葉と会って初めて自分がロボットでよかったと思ってるよ。」
獣耳をふにふにと動かしながら、冬葉はまるで猫が喉を鳴らすような声を出しながら春奈の頬に擦り寄る。さっきまでの殺気はどこかに行ってしまったらしい。
「私も、春奈と一緒にいられるから、妖怪で嬉しい。」
奥さんの思わぬ一言に、旦那さんは込み上げるニヤニヤを隠そうともせずにほんの少し獣臭い肩に顔を埋めた。
壊れた家具の中心で、夫婦は愛を囁いた。
なんとか直したものの、やはり投げたことで立て付けが悪くなってしまったらしい椅子は座るたびにガタガタと揺れ悲鳴をあげる。
「壊れちゃった。春くん、新しいの買いにいこう。」
「ええ、無理だよ。これ、先週買ったばっかりだよ。そんな毎週、毎週、新しいのなんて買えない。お金がなくなっちゃうでしょ。」
「いざとなったら、春くんが絶食すればいい。私は、その辺で雀とかネズミとか獲ってくればいいし。・・・そういや、昨日下の階で美味しそうなインコが、」
長い尻尾をパタパタと楽しそうに振りながら、冬葉は夢見るようにどこかを見ている。その様子を見つめながら、春奈はガタガタとなる椅子をなんとか塩梅よくしようと試みるが、どうにもならず仕方なく半空気椅子状態にすることで落ち着いた。
「別に、怒るな。とは言わないから、物を投げるのは止めよう。食費よりも修理費が多い家なんて我が家くらいだよ、きっと。」
「ううう、努力はしてるんだけど。だって、火とか出してだめなんでしょ?」
「当たり前です。火事になんてなったらどうするの?それに、火で俺の耐熱温度を超えたら、困るの冬葉でしょ。」
ピンと立った耳が、へにゃりとしょ気てしまう。それに合わせてふわふわの尻尾までもが、力なくぺしゃんこになる。それを見つめながら、春奈は机に並べられた夜ご飯を確認する。並んでいるのは、美味しそうな酢豚と餃子だ。大丈夫、これは普通のお肉だと信じよう。
この家は、冬葉のチラシ配りで生計を立てている。ことになっている。
ことになっている、というのは冬葉がそう思っている。ということで本当は春奈が研究所から貰っている給料と言う名前の維持費からちょっとくすねているお金で生計が立てられている。
「でもさ、でもさ、引っ掻いてもかじっても、春くん全然効果ないんだもん。」
「冬葉は、俺を痛めつけたいの?」
「そういう訳じゃないけど、だって喧嘩してるのに。何言っても、何しても、春くん笑ってるんだもん。腹立つじゃん!」
「・・・なら、悲鳴を上げたり逃げたりすればいいの?」
ずずっとわかめの味噌汁を啜りながら言われた春奈の言葉に冬葉は、大きな背丈を怯えるように縮めて、無理矢理掠れた高い悲鳴を上げる春奈を想像した。うむ、それはそれはおぞましい。
「ほら、嫌でしょ?だったら、今のままでいいんだよ。」
心底嫌そうに顔を顰めた冬葉を見つめて春奈は、計算通りだよ、と言わんばかりの顔だ。
「ううー・・そう、だけど。そうなんだけどう。」
ぴょこぴょこ、ぴょこぴょこ、いつの間にか元気を取り戻した焦げ茶の獣耳がまるでアンテナのように小刻みに動く。言い返す言葉を探しているのだろう、奥さんのそんな姿を見つめながら旦那さんは、奥さんお手製の酢豚に箸を伸ばした。
春奈は、いつものように研究所に行く道を普段と変わらない姿で歩いていた。まるで成長期の子どものように少しずつ変わっていく町並みを全く変わることのない姿で歩いていく。歩き慣れたと思っているといつの間にかどこかが違う顔をしだして戸惑っている間にまた町は全く違う服を纏う。何度、何年、何回、経験しても慣れないその感覚に春奈は知らずに溜め息をついた。
「あぁ、あそこのお菓子屋さんなくなったのか。冬葉が好きだったのに。」
降りたシャッターの前を通り過ぎながら、呟けば言いようのない喪失感が胸の中を駆け巡る。いや、機械である自分にそんな感情があるのかどうかも怪しいところだが、それでも胸のどこかが寂しく悲しいのだから、きっと機械にもあるのだろう。
「あら・・・あなた、春奈くん?」
「あ、え、・・・お菓子屋さん。」
後ろからかけられた声に驚いて振り向けば、そこにいたのはお菓子屋のおばさんでしばらく会わないうちに歳を重ねたというのが見てわかるほどになっていた。俺のことを驚いたように見つめている目には、会ったばかりの頃と全く変わることのない俺がいた。
「春奈くんなの?そんなまさか、」
「あ、あぁ、違いますよ。春奈は俺の父です。」
「・・・あぁ、そうよね。ビックリしたわ、だって全然。お父さんにそっくりね。」
「はあ、よく言われます。」
会った頃と全く変わらない姿で存在し続ける春奈を見つめる人々の表情は一様に同じだ。今、目の前で驚いたように怯えたような顔をしているお菓子屋のおばさんの顔だ。その度に、春奈は逃げるように顔を背け、目の前の見知った人を知らない人のように警戒する仕草で安心させる。
何度経験しても心のどこかがざわつく。まるで自分が悪いことをしているかのような錯覚に陥るこの行為を春奈はいつまでも続けなければならないのかと、泣きたいような気持ちになった。いっそ研究所に行くのをやめてしまえばいいのだろうが、貴重な生活費をそんなみすみす手放す気にもならずこうしているわけだが。
「お父さんは、元気?前はよく買いに来てたんだけど、最近は見かけなくて。」
「はい。元気です。僕が生まれたくらいの頃に引っ越しまして、けどお話はよく聞いています。マドレーヌが相当美味しくて大好物だったと。父に買っていこうと思ったのですが、お店閉められてしまったのですね。」
「そうなのよ。もう、私も歳だからね。」
遠くを見るような表情をするお菓子屋のおばさん。俺は人のその表情を見るたびに嫉妬に近い感情が生まれる。起こった出来事の全てを記憶している俺は、そんな風な顔をして気持ちを抱いて過去を思い出す、ということはしない。できない。当たり前のように記憶の中にあるアルバムを開いて的確にその出来事を見つけだす。情緒も感慨もあったもんじゃない。
「そうですか、残念です。」
「お父さんによろしく伝えておいてね。」
「はい。」
そう言ってお菓子屋のおばさんは、俺の腕にそっと触れた。認識したその肌、力、骨、その全てがあの頃と違っていて、俺は歳を取るという言葉を改めて実感した。
家の周り、そして同じ番地が冬葉のチラシを配る地域だ。だいたい千枚程度で三日ほどかかる。それだけ配っても二千円ほどの稼ぎにしかならない。寒い中配っても、暑い中配っても、その値段は変わることはない。それでも、冬葉にとって有り余る体力を消費できる天職といえるだろう。
「よおし、配り終わり!!家に帰ろう!!」
よしよし、と首から提げた鞄の中身を確認すれば見事なくらいに空っぽで今日のノルマを無事に達成したことを告げている。
来るときは、まるで札束が入っているように重かった鞄が今では何も入っていないかのように軽い。いや、事実何も入っていないのだけど。
本当は家まで飛んで行ってしまいたいんだけど、そんなことをしたら春くんに何を言われるかわかったもんじゃない。それに今のアパートを追い出されたらまた、山の中で細々と暮していくしかなくなる。あの暮らしはそれはそれで楽しかったけど、食い物にも今ほど困っていなかったし、山の中で駆け回ることもできたし、だけど、山の中は春くんにとってはあまり良い場所とは言い難かった。何せ、ちょっと錆びてたし。調子悪くなって暴走する回数も今よりもっと多かったし。
「ああ、住む世界が違うってこういうことなんだなあ。」
ロミオとジュリエットもこういう気持ちだったんだな、いや、ハムレットとオムレットだったっけ?ああ、あんまり暗いところ得意じゃないから劇場とか行けなかったから詳しくは知らないんだけど、確かそんな感じの名前の悲恋物があったはずなんだけど。
「春くんに聞けばわかるかな、春くん物知りだもんね。」
冬葉は、楽しげに呟くとさきほどよりも歩調を速めて家へと急いだ。
研究所からの帰りに、春奈は不意に後ろから抱きつかれた。一瞬、あまりの衝撃に通り魔や強盗かと思ったがそれにしては腹部に回った腕が華奢だ。
「・・冬葉?」
違う、とはわかっていても華奢な少女の腕を見ると条件反射のように愛しい妻の名前が口から出てくる。そうインプットされている、といえば聞こえはいいだろうか。
「会いたかった、お兄ちゃん!!」「・・お兄ちゃん!?」
慌てて首を回して後ろを見れば、冬葉とは似ても似つかない鮮やかな栗色の髪が揺れている。春奈は、頭脳をフル回転させてこの髪と頭の形に合致する人物を探し出そうとするが、突然言われた言葉に驚きで全ての機能が一瞬、停止する。栗色の髪が、また揺れて春奈にしがみついていた少女が顔を上げた。
ガラス玉を嵌め込んだような大きくキラキラとした瞳に、尖った鼻筋、ふっくらとした桃色の唇に少し色づいた頬。それらが絶妙なバランスで愛らしさを帯びたまま、笑う。
「やっと見つけた。私、ずっとお兄ちゃんのこと探してたのよ。」
「・・・ちょ、ちょっと待って。お兄ちゃんって、俺のこと?人違いだよ、俺に妹なんていない。」
戸惑いながらも、春奈は力を少し強めて少女を引き離そうとする。が、がっちりと腹部に回された腕は動かない。試しにもっと強めに腕に力を入れるが、まるで華奢な腕が鎖のように繋がって動かない。
なんで、まさか、この子。
「言ったでしょ。ずっと会いたかったって。もう、離さないんだから、お兄ちゃん。」
「君、もしかして・・・・ロボット?」
「ロボットなんて呼び方、可愛くない。せめて、アンドロイドって呼んでよ。なんか、年寄り臭いよ、ロボットなんて。HRN―01、初号機さん。」
しがみついたまま、まるで統計から導き出したような愛らしい仕草で首を傾げた少女は、そのまま春奈の腹部に絡めた腕に力を込めて自己紹介をする。
「始めまして、私は夏貴です。春奈お兄ちゃんの後継機であるNTK-06の五号機だよ。」
「ぐうっ、」
ギシギシと春奈の腹部が、軋む音と共に春奈の苦しげな声が漏れる。今日、研究所に行ったときには何も言われなかった。いや、それどころが俺に後継機がいるなんてことすら聞いたことがなかった。いつも通りの会話を思い返しながら、春奈は桃色の唇に笑顔を浮かべる夏貴を見つめた。
「もしかして、この世界にアンドロイドは自分一人だとか思ってた?もう、お兄ちゃんってばひどーい。夏貴は毎日、研究所の人たちにお兄ちゃんのデータを見せられてたのに。お兄ちゃんは、夏貴のことを何も知らないってこと?傷つくなあ。」
「くっ、今、傷ついてるのは、俺のボディだと思うんだけど?」
「それもそうだね。ふふ、じゃあ、離してあげる。お兄ちゃんのこと壊しにきたわけじゃないし。」
朗らかに笑うと夏貴は、春奈の腹部から手を解いた。春奈は警戒するかのように夏貴から一歩よろけるように距離をとる。どれだけ絶妙な力加減で締め付けていたのか、春奈の腹部は表面が少しへこんでいるが中は全く無傷だ。毎日、データを見せられていたというのは強ち嘘ではないらしい。
「・・で?その、俺の妹ちゃんが何の用で俺を絞め殺そうとしたのかな?」
「やだな、絞め殺すだなんて。ちょっとした兄と妹のスキンシップじゃん。」
「こんな過激なスキンシップは、奥さんとしかしない主義なんだけど。」
自分よりも、数十センチも小さい妹である夏貴の様子を春奈は油断なく見つめる。
背丈は冬葉よりも少し高いくらいで、しかし体の線は冬葉よりも細い。俺と同じ機種だというなら基本スペックは俺と同じか、しかし妹であるならばそれ以上である可能性が高い。ドラえもんだってドラミちゃんの方が優秀だ。そこまで思考が発展したところで、今朝出かけるときに冬葉がどら焼きが食べたいと呟いていたことを思い出した。この辺りでどこか和菓子が売っているお店があるだろうか。
「奥さん、ね。お兄ちゃん、奥さんのことばっかり。ねえ、お兄ちゃんは何のためにこの世界にいるかわかってる?そんな半妖の泥棒猫の世話をするためにこんなに優秀なアンドロイドを作ったわけじゃないんだよ。」
思考がトリップしている間に、夏貴はきらきらのガラス玉のような瞳を鋭く変え愛らしい表情に怒りを滲み出していた。
「そんなこと言われても、夫が妻のことを考えるのは当然だし。別に俺は世話をしているわけじゃない。夫婦として一緒に暮らしてるだけ。」
そこまで言ったところで春奈は口を閉じた。目の前の夏貴が重心を変え、攻撃の手を再開したからだ。
右に左に、上から下に、まるでその部位が別々の意志を持っているかのように夏貴の攻撃は素早く的確だ。春奈は、低い位置から繰り出されるパンチを腕で受け、高々と上がるキックをやはり腕で受け止めるので精一杯で反撃のチャンスを見つけることが出来ない。
「あんな、半妖に、渡す、くらいなら、ここで、壊す!!」
「はあ?ちょ、っと、落ち着いて、よっ。」
一体、自分は何のスイッチを押してしまったのか。と春奈はさきほどの会話を脳内で再生しながら怒りの発端を探す。それでも、細い足から繰り出されるハイキックを予測し寸でのところで避けられるのは普段から夫婦喧嘩という名の殺し合いで身に付いた技としか言いようがない。冬葉との喧嘩であれば、確実にそろそろ必殺技をお見舞いされるところだ。
「お兄ちゃん、は、私の、物なの!!」
そんな危ない台詞とともに、夏貴の身体が流れるように後ろに逃げる。春奈は、脳内で再生されていたさきほどまでの会話の映像を中断して全神経を夏貴の必殺技の回避に集中させる。腕から手の平、足先から太ももにかけてのパワーを通常の倍にして受け止めるべく準備をする。どんな攻撃かわからない以上、下手に避けるよりも受けてしまう方が安全と判断したためだ。
「誰にも、渡さない!!!」
「ぐうっ、うう。」
長い足が、縮められたと思った瞬間にはもう、夏貴の体はくるりと半回転しびゅんと風を切る音とともに春奈の左側に夏貴の履いているオレンジ色をしたブーツが迫っていた。春奈は、それを両手で受け止めたが、予想以上の威力に力を受け流しきれず横に倒れた。
「お兄ちゃんがいけないのよ。本当は、一緒に研究所に帰ろうって言うつもりだったのに。それなのに、あんな泥棒猫のことばかり言うから。私は、ずっとずっとお兄ちゃんだけを思っていたのに。」
起きようとした春奈の上に夏貴は、馬乗りになるとさっきと同じように計算されつくしたような愛らしい笑顔を浮かべた。夏貴の長い指が、そっと春奈の短い茶髪に触れる。
いったい彼女が言っている研究所とは、どこだ。さっきまでいた場所に帰ろう、とここで言うのはおかしい。いったい、彼女は、誰の妹だ。
「・・・君は、本当は誰なんだ。」
「だから、私はお兄ちゃんの妹よ。言ったでしょ?アンドロイドシステム・スサノオのプロトタイプさん。」
ゾワリ、春奈の中で何かが怯えたように鳴いた。消去したいのに出来ない記録が、呼びもしないのに勝手に再生されようとする。奥に奥にと仕舞い込んでいたデータが驚くべき速度で復元されようとする。
「なんで、それ・・・まさか、君は、」
「私は、アンドロイドシステム・スサノオの完成品。お兄ちゃんが、逃げ出した後に作られたの。ビックリした?あの研究所はお兄ちゃんが全部破壊したと思ってたんでしょ?ふふ、残念でした。資料が少しと頭の良い人間がいればあっという間に科学は復元されるのよ。」
楽しそうに笑うと夏貴は、まるでぬいぐるみでも愛おしむかのように春奈の頬を、首筋を、髪の毛を撫でた。人間であったなら、この感情をなんと表すのだろう。春奈は、夏貴の指が触れ回るのを感知しながら思考を巡らせる。まるでバッテリーがなくなったかのように指先一つ動かせない。ただ一心に何を思うでもなく目の前、すぐ上にいる夏貴の楽しげな顔を見ていた。
「・・・・う、うううわあああ、浮気だ!!」
突然聞こえてきたそんな声に、春奈の動きを止めたはずの体がビクンと大げさすぎるほどの動きで跳ねた。上に乗っていた夏貴は、楽しそうな表情を浮かべたまま春奈に馬乗りになったまま立ち上がる。その視線の先には、チラシ配りを終えて帰宅途中の冬葉がいた。焦げ茶の獣耳を隠すために被った毛糸の帽子が、しかし不自然に上に向かって突っ張っている。普段は、楽しげに揺れる尻尾を隠すための長いスカートが、やはり不自然に後ろが隆起している。
「ふ、冬葉、」「あら、見られちゃったよ。春奈くん。」
さっきまでのお兄ちゃん呼びはどこへやら、夏貴はたっぷりと色気を含んだ声音で春奈の名前を呼ぶと、下でようやく上半身を起した春奈にまた手を伸ばす。だが、春奈が一瞬早くその手を逃れるように体を回転させ夏貴の支配から抜け出す。
「浮気してる、春くんが、セクシーな美少女と浮気してる。・・・春くんが、春くんが、」
「違う、違うよ、冬葉。どこからどこまでを見てたのか知らないけど。俺、今の今までこの子に殺されかけてたんだから。だいたい、俺、こんな道端で非常識なことしないから。」
「やだ、春奈くん。非常識なことって、なあに?ふふ、だってね、春奈くん。蜘蛛のメスは交尾の後にオスを殺して食べちゃうのよ。」
「こここ、こうっ!!!」
未だに道に座りこんでいる春奈とその近くで笑顔を浮かべる夏貴を見比べ、冬葉はぱくぱくと顔を真っ赤に染め瞳にうるうると涙を溜める。さっきまで立っていた耳も尻尾も、ペタンと力なく帽子とスカートの中に縮こまってしまっている。
「違う、違うよ、冬葉。そんなことしてないから、というか機能的に出来ないから!ちょっと、いい加減にしてよ。いくらなんでも冬葉を泣かせるのは、許せないんだけど。」
「あれえ、怒ったの?本当に、この泥棒猫のことになると本気になるんだ。なんか、ムカつく。」
さっきまでの人の良さそうな表情を消した春奈の顔を見つめ、夏貴は口元を歪める。ゆっくりとしかしさきほどまでと違う動きで立ち上がる春奈から逃れるように夏貴も一歩下がり、警戒したまま一瞬だけ、冬葉を睨みつけた。
「やっぱり、邪魔だな。」
その一言を呟くと夏貴は、空高くに舞い上がった。春奈はその後を追わずに今にも泣き出しそうな表情を浮かべた冬葉に駆け寄った。顔には、いつもの人懐こい柔らかさが戻っている。
「冬葉、」「春くんの、ばかああ!!」
べちーん、高らかな音を立てて冬葉は春奈の頬を平手打った。春奈は、わかってはいたものの、予想通りの破壊力に反動で首を九十度に回転させた。怒っているのか、泣いているのか、わからないがこれは相当だ。平手を受けながら、春奈はどうしたものかと対処法を思案する。それと同時にさきほどの戦いのダメージと疲労が残っているらしく思ったよりも体の調子が悪いことも実感した。このまま、朝よりも激しい喧嘩に持ち込まれた場合果して冬葉のハードなラブをどれほど受け止められるか。
「冬葉、あのね。さっきのは本当に誤解なんだって。俺、殺されそうになって」
パタパタと走って部屋に入っていった冬葉を追い、慣れた家に事実を報告しながら入った春奈であったが、その言い分は冬葉の耳に入るはずもなく返答の変わりに今朝からぐらついている椅子が目の前に飛んできた。
「入ってこないで!!春くんの浮気者!!」「ちょ、まっ、」
玄関の扉を閉めたまま、問答無用で喧嘩に突入。いつもならリビングに入るまで待っているというのにそれすらないとは。春奈はどうしたものか、と思いながら狭い廊下でよくコントロールされた家具を壊さない程度に弾いていて防戦する。冬葉にしてみれば、道端しかも家の目の前で夫が見知らぬ美少女とまぐわっていたのだ。怒りなんて生易しい言葉では足りないくらいである。我を忘れ獣耳を毛を逆立てフーフーと威嚇の声をあげながら手当たり次第に家具を投げて投げまくる。
「わ、ちょ、ふ、冬葉!!」「うるしゃあい!!」
反撃の隙すら与えてくれない冬葉の猛攻を受け止めていた春奈であったが、さきほどの道端での戦闘に加え今朝よりも何倍も激しいその愛にとうとう体のあちこちが悲鳴をあげ、統制の限界がきたことを告げている。ガクンと膝から床に落ち、そのまま節々のパーツからもうもうと煙りを出して止まること数十秒。ガツーン、ガゴーンとりんごとまな板の直撃を受け、項垂れた春奈を見て今度は冬葉が、何かに気づいたように数十秒停止。
「・・・・は、春、くん?」
シューシューと煙りで見えにくくなった春奈をそれでもじっと目を凝らして見つめながら、冬葉は背中を冷たい汗が流れていくのを感じた。
ヤバイ、これはヤバイかもしれない。
ごくりと生唾を飲んで一歩、冬葉が下がったときだった。まるで地の底を這うような低い低い笑い声が部屋に響き、項垂れていた春奈がゆっくりと邪悪そのもののような表情を浮かべながら冬葉をロックオンした。
「よくも、やってくれるじゃねえか。この化け猫風情が。」
「にゃあああ!!!!」
いつもの温和な表情と優しさしかないような声音はどこに行ったのか、春奈はまるで性格が百八十度回転したかのようにギラギラとした目をしてさきほど自分に直撃して床に落ちたりんごを掴むとそのままぐしゃりと握りつぶした。
冬葉は、尻尾を立て怯えたように耳を伏せてじりじりと後ろに下がる。春奈は、ロボットだ。普段、怪我をすることも病気もすることもない。これと言った弱点がないように思えるが、ただ一つだけ困った弱みを持っている。それが、これだ。
「おいおい、逃げるなよ。お楽しみは、これからだろ?」
ポタポタとりんご百パーセントの果汁を指の間から垂らしながら、春奈は凶悪な笑みを浮かべ冬葉に近づいてくる。床に落ちている写真立てやら置物やらを踏みつけているが、全く気にも留めていない。
春奈は、旧型のロボットであるため稼働出来る容量が限られている。普段の生活においてあまりその域を出ることはないが稀に、強い衝撃や強い熱、それに激しい戦闘などを過剰に行われるとキャパオーバーを起し制御不能に陥る。そうすると、最早善悪の区別なくバッテリーが切れるまで破壊の限りを尽くす、という厄介な機能を持っている。
そうなれば、春奈とまともにやり合うのは無謀というもの。とにかく春奈を部屋に閉じ込めてバッテリーが切れるまで逃げまくる。というのが最善だ。
「にゃあああ、ふみゃあああ!!」
「おうおう、良い声で鳴くじゃねえか。はははっ、」
今度は、冬葉が投げられる数多の家具から逃げる番だった。人間離れした運動能力を駆使して冬葉は必死に春奈の猛攻を避ける。春奈は、それに対してまるで魔王かの如く高らかな笑い声を上げる。ビュンビュンと冬葉の耳元を何かが掠めていく音がする。
あぁ、こうなるんだったらちゃんと春くんの話を聞いてあげればよかった。なんてことを思いながら、冬葉はほとんど四つんばいになりながら部屋の中を駆け回る。しかし、如何せん狭いアパートである。気が付けば、部屋に散乱した家具が邪魔で前にも後ろにも動けない状態に冬葉はなってしまっていた。
「うわわ、こ、これは、」
「どうした?もうおしまいか、子猫ちゃん。」
「ふぎゃああああ!!」
冬葉が戸惑って足を止めている間にすぐ近くに春奈が、実に凶悪に楽しげな表情を浮かべながら立っている。なるほど、さすが腐ってもロボット。計算は抜かりなかったというわけだ。
ただ、がむしゃらに逃げていた冬葉にもう打つ手はない。このまま、春奈の気が済むまでぼこぼこにされるしかない。ぐっ、と唇を噛み締め振り向けば、ひゅんと頬を風が吹き抜ける。何かと思い、恐る恐る横を見れば壁にぼっこりとめり込むように春奈の細い腕が伸びている。
これは、まさか、パンチですか。パンチで、この威力ですか。何度か見ているからわかってはいるものの、この距離でお見舞いされたのは初めてだ。これをまともに受けたとしたら、いったいどんなことになるんだろうか。すぐ脇に手がある為か、春奈のいつもと違うギラギラとした表情が目の前にある。心臓が、ぎゅうっと苦しくなる。命の危機からなのか、それとも、それともひょっとして。
「覚悟しろよ、たっぷり可愛がってやるからな。」
「ははは、春くんっ・・・!!」
普段の春奈では絶対に言わないような言葉に冬葉は、今この状況を忘れて顔を真っ赤に染め俯く。恋は盲目とはよく言ったものだ。命の危機を迎えようとしているにも関わらず、冬葉は一瞬、かっこいい。とか、思ってしまった。
お隣りのご夫婦が、ちょっとおかしい。
いや、いつもおかしいのだけれど、今日は特別におかしい。昼過ぎに突然始まった喧嘩は、最初はいつものように奥さんが優勢で旦那さんは抗議しながらも対応していたようで、なのにさっきから聞こえてくる音は普段と比べ物にならないくらい大きな音で、しかも、どうやら主導権を握っているのは、旦那さんだ。
聞こえてくる旦那さんの声はいつもと全然違う声だ。もしかして、これが俗に言うDV。ドメスティック・バイオレンスなのではないだろうか・・・。
だとしたら、今、僕がやるべきことはこうして壁に耳を当てて隣の喧嘩を聞くことではなくて警察に通報することなんじゃないだろうか。
迷う僕の耳に突然、衝撃が走って体が後ろに吹き飛んだ。壁につけていた方の耳がキーンと耳鳴っている。何事かと今まで僕がいた場所を見れば、そこにはべっこりとこちら側に人間の手と思われる形が浮き出ていた。
これは、まさか、パンチ?パンチでこの威力?いったい、お隣さんにはどんな人が住んでいるというのか。いやいや、それよりもやはりこれは警察に電話した方がいいのではないだろうか。この威力のパンチを奥さんが受けたら、確実に死んでしまう。
けれど、もし、これがお隣さんの日常なのだとしたら、やはり警察沙汰にしてしまうのはご迷惑なのではないだろうか。
ガチャン、なんとか外に出て家全体のロックをする。ベランダの植木鉢の下にこんな緊急事態のときのために家全体を強固な壁でロックする機能がこの家にはついている。これで万が一にも春奈が外に出て暴れまわるという非常に危険な事態は避けられるということだ。本当なら壁にべっこりと穴を開けてしまいそうになる前にこれを作動させなくてはいけなかったのだけど、ちょっと今回はドキドキして・・・じゃない、油断して。
「おい!出せ!出しやがれ、この化け猫め!!」
「うう、本心じゃないとは言えども傷つくなあ。」
閉まりきったシャッターの向こうからくぐもって聞こえてくる春奈の罵声に、冬葉は耳をしょんぼりと力なく倒して俯く。それから、こういうときのためにベランダに干しっぱなしにしてある帽子を被って春奈が落ち着くまでどこかで時間を潰していることにした。
春奈が、ああなってしまった以上さきほどの浮気の真相を今日中に聞きだすのははっきり言って無理だろう。それにしても、と冬葉はどこに行くでもなく道を歩きながら考える。
あれは絶対にどう考えても春くんが悪い。誰がどう見てもあれは浮気現場以外の何者でもなかったはずだ。それなのに、それを責めたらキャパオーバーするとか、ずるい。ずるすぎる。
そもそも、春くんの上にいたあの美少女はいったい誰なんだろう。近くに住んでいる人なら見たことありそうだけど、全然知らない人だった。それに、なんだか、ずいぶんと昔に嗅いだことのある匂いがした。あれは、そう・・確か、春くんと会ったときに。
考え込んでいた冬葉は、前を歩いてきた人を避けきれずにぶつかった。
「ぶっ、あ、すいません、余所見して・・秋穂。何してるの?こんなとこで。」
「お前こそ、こんなとこで何してんだ。あのロボット野郎と喧嘩でもしたのか?」
ぶつかった青年は、冬葉と同じように帽子を被ってこの時期には少し大げさな黒のロングコートを着ていた。顔の半分は目深に被った帽子で見えないが、楽しそうにどこか人を嘲るように三日月を描く口元がやたらと印象的だ。
「うう、そ、そういうんじゃないんだけど。けど、あながち間違いじゃないというか。」
「なんだ?まさか、浮気でもされたか?」
「・・・・・。」「嘘だろ、図星かよ。」
秋穂の言葉にじんわりと猫のような瞳に涙を浮かべた冬葉に、歪んでいた口元が慌てたようにもごもごと動いて、深く溜め息を吐いた。
冬葉は、代々続く由緒正しき化け猫一族の大事な娘猫だった。いや、今もその事実は変わらないためだったなどと過去形を使うのはおかしいのではあるが、ほとんど一族とは絶縁状態にある。その理由は簡単なことで本来結婚するはずだった、これまた由緒正しき化け猫一族の跡取り息子猫である秋穂との婚約を破談してどこの馬とも知れないロボットである春奈と駆け落ち同然で山を飛び出したからである。にも関わらず、元婚約者である秋穂とはこうして時々会っているのだから不思議な話だ。そんな大それたことを仕出かした冬葉は一族から追放されそうになったのだが、秋穂も冬葉を追って山を降りてきてしまったため結局のところ今のところはただの家出中、という扱いになっている。
そんなずいぶんと前のことを回想しながら、秋穂は目の前で今さっき運ばれてきたばかりの熱々のカフェオレに必死で息を吹きかけている冬葉が白無垢を着て神社の境内を飛び出す場面を想像した。
「似合わないな、お前にそんな在り来たりなシーンは。」
「ん?なんか言った?」「いいや、いいから早く飲め。冷めるぞ。」
平日の午後、ほとんど人もいない喫茶店の隅。窓際の席に向かい合わせに座りながら、秋穂は口元に嘲るような笑顔を戻す。秋穂の楽しげな言葉に、冷ましてるんだよ、と不機嫌極まりない返事をして冬葉はまた息を吹きかける作業を再開する。
店の中に入っても帽子を外さない。非常識だとわかっていても、外すことができないのだから仕方がない。開き直るように秋穂は、背もたれに体を預けて長い足を組んだ。カフェオレを飲むまで冬葉は何も喋らないつもりだ。そう判断し、通り過ぎる人々を目深に被った帽子の奥に潜ませる鋭い目で観察する。
まるでこの喫茶店から見られているなんて思ってもいないだろう人々が、けれど何かから逃げるように足を止めずに歩いていく。そんなに急いだってたどり着く場所は一緒だろうに。肩と肩がぶつかって振り向いて相手を値踏みする。自分の方が弱ければ、小さく笑って謝る。なんだ、人間だって俺たち猫と大差ないじゃないか。毛を逆立てて威嚇して。
「春くんが、昔いた研究所の匂いだ。」
突然、思考から現実に引き戻すようにカフェオレに口をつけた冬葉が声を出した。言われた言葉を噛み締めるように秋穂は窓の外から冬葉にゆっくりと視線を移した。
「ロボット野郎の昔いた研究所?ずいぶんと懐かしい話だな。」
もう、だいぶ温くなったコーヒーを口に運びながら秋穂は笑うと無意識にわき腹に手を添えた。この傷がなかったら、俺は今こいつの隣りにいたんだろうか。秋穂のそんな考えを読んだわけでもないだろうが、冬葉は少し申し訳なさそうに眉を寄せた。
「あ、うん、そうだね。懐かしいね・・・じゃなくて、さっき春くんが道端で・・その、びび美少女と・・ちょっと、あの・・・しててね。その美少女の匂いが、」
「なんだ、交尾でもしてたか?」「ここここっ!!」
もごもごと言い辛そうに淀む冬葉とは対照的に秋穂はやはり楽しそうに口元を歪ませて、机に身を乗り出して囁いた。
「なるほどなあ。ロボット野郎もやるな。やっぱりこんなニャンコロよりも美少女の方がいいよな。」「違う、違う!!秋穂だってニャンコロのくせに!!」
顔を真っ赤にしながらブンブンと千切れんばかりに首を振る冬葉を見つめ、秋穂はケタケタと声を出して笑った。
「とと、とにかく!その春くんと一緒にいた女の子から、昔春くんがいた研究所の匂いがしたの。あそこって独特の薬品とインクの匂いがしたでしょ?どっかで嗅いだことがあると思ったんだけど。たぶん、そうだと思う。」
「はあ?だって、あそこは確かに俺たちが・・・いや、あのロボット野郎が、壊滅させたじゃないか。・・・それこそ、一人も、残さないくらいに。」
机に頬杖を付いて横を向いてしまっている秋穂の表情は、読みにくく一体何をどんな感情を思っているのかわからない。あの日のことを、秋穂はいったいどう思っているのか。冬葉は何度も聞こうとして、けれど聞けなかったことをそして一生聞けないだろうことを、聞きたいと思っていた。
「だけど、もし・・・もし、あの女の子が春くんと同じ研究所で作られたロボットだったとしたら、だとしたら・・・何しに来たんだろう?」
「普通に考えたら、あのロボット野郎を連れ戻しに来たんだろうな。」
「今更?なんのために?」
「そんなの俺が知るかよ。けど、その女がもし本当にロボット野郎と同じロボットであの研究所で作られたんだとしたら、そんでもし、ロボット野郎を連れ戻しに来たんだとしたら、冬葉、お前は山に戻るべきだ。」
「そんな、なんで?」
「なんで?・・わかってるだろ、理由なんて。お前だって、わかってるだろ。いつまでもこうして夫婦ごっこなんてしてられないんだ。俺だっていつまでもこうして傍をふらふらしてられない。冬葉、俺たちは確かに他の生き物よりも永く生きれる。けどそれは、永遠じゃない。いい加減に気づけ。」
思っていたよりも強い秋穂の言葉に、冬葉はじわりと涙が滲むのを感じた。秋穂が、どうしていつも行く先々にいてくれるのか。それがどれほど冬葉にとって救いになっているか、見えないふりをし続けていた。見えないようにしていた。
真っ暗にシャットダウンされていた意識が、不意に返ってきた。途端に目の前に広がる部屋の惨状に、今までの出来事を整理しようとしてここに至るまでの数時間がぽっかりと空白であることを認識する。
「・・・まさか、またやっちゃった・・?」
緩やかに吐き出した声が、静か過ぎる部屋に染み渡って消えていく。誰もいないのは、わかっていたがそれでも辺りを見回して生命反応を探す。それから、無駄だとわかっているのに懇願するように縋るような声で
「冬葉・・?」
春奈は、冬葉の名前を呼んだ。
壁に寄りかかるように座り込んだまま、春奈は自分の状態を把握することにした。もし体のどこかのパーツが壊れていた場合に無理に動かすのは得策ではない。本当は冬葉をすぐにでも探したい。こうなってしまったのは、自分のせいだ。もし彼女に怪我でもさせていたら、俺がこうなってすぐに逃げ出してくれているだろうか。理性で制御できない感情が膨らんで思考が追いつかない。それを追い出すように目を閉じて全神経に、機能全てを集中させる。何も、考えられないように。
「・・・・・っ、」
ジクジクと春奈の胸のどこかが痛む。原因を解明しようとしても、そこに破損も損傷も見られない。ただ、ジクジクと責めるように熱く痛い。
春奈の世界は、冬葉で構成されている。例え、冬葉が嫌だと言っても春奈は冬葉のためであるならこの地球を壊滅させることだって厭わないと思えるほどだ。それだけ、春奈にとって冬葉の存在は大きく大切なものなのだ。
もし、この身が壊れる日が来るのだとしたらそれは冬葉の行いであったなら春奈にとってはこのうえない甘美な物だった。
「さて、俺の破損は全く問題ない程度だし・・・きっと冬葉は、明日の朝まで帰って来ない。悔しいけど、こんなときは秋穂が対処してくれているはず。そうすると、俺ができることは」
さっきまで暴れていたせいで思考がまだ鈍行だ。人間なら思い出と呼ぶような昔の出来事が今の出来事と混ぜこぜになりながら頭の中を駆け巡る。今、自分がしなくてはいけないことを探し出そうとしながら、記憶の中で逃げるように追ってくる一つの景色がしつこく浮かぶ。
「片づけ。片付けをしなくちゃ、そう・・・片付けだ。」
ぐちゃぐちゃの部屋を見回して、春奈は呆けたようにその言葉を繰り返す。カウンターテーブルに片手を付いて気持ちを落ち着けるように何度か頭を振る。そうして、心を決めたようにゆっくりと顔を上げるとはっきりとした瞳で扉を捉えた。
監視カメラに映し出される姿に、夏貴は今まで抱いたことのないプログラムが生まれるのを感じた。体の下に何もないような、自分を確認できないような。今までにない感覚。
これは、きっと恐怖という感情だ。
「お、お兄ちゃんが、どうして・・ここに?」
高度なセキュリティで守られているはずの研究所にいとも簡単に、まるで自分の家にでも入ってくるかのような表情をしながら春奈は進入してくる。しかしその瞳には、ギラギラと燃えるような狂気の色が隠れているのが、夏貴にはわかった。昼間、冬葉に手を出そうとしたときに魅せたあの瞳だ。
「夏貴。彼は、俺たちに協力してくれるつもりだろうか。」
わかりきったことを、夏貴のすぐ隣りにいた研究員が不安を滲ませながら、それでもほんの少しの希望に縋りつきながら尋ねてくる。
そんなわけない。そんなはずがない。お兄ちゃんは、ここを、破壊するつもりだ。
「夏貴が、行ってくる。」
軽やかにスカートをなびかせながら、夏貴が走り出した。
夕方近い空は、綺麗な茜色に染まっている。研究所の奥に進むにつれて窓の数は少なくなり、とうとう真っ白な廊下が続くだけになった。窓の外が見えなくても時間はわかるけれど、それでも沈んでいく夕日が見れないのは少しだけ残念だな。と、春奈は感じた。冬葉が帰ってくるまでにここを片付けておかなければ。
「冬葉と俺の道に転がる障害物は、片付けないとね。」
小さく呟いて春奈は、研究所の奥に足を進める。途中に何か邪魔が入った気がするが、春奈に敵う人間などいるはずもなくただ廊下や部屋に転がって動かなくなった。
「お兄ちゃん!!!」
ちょうど、真ん中の部屋にあった機械を手当たり次第に殴り、バチバチと火花を上げさせたところにようやく春奈を見つけた夏貴が現れた。ゆらり、頼りない動きで華奢な体が振り向いた。線の細い高い背丈に優男な風貌に長めの髪、傍から見ればどこか儚い印象を与える春奈のその姿が今ほど不気味に見えたことはないだろう。
僅かに口角が上がり、微笑んでいるように見える春奈に夏貴は一歩一歩と近づいた。
「やあ、妹ちゃん。ここにいたんだ、昼間はどうもね。」
「なんで?いったい、どうしてここにきたの?」
「どうしてって、わかりきっていることだと思ったけど?俺はね、冬葉を泣かせることが一番嫌いなんだ。ちょっとでも冬葉が傷つく可能性があるなら、なるべく排除したいと思ってる。」
コツン、コツン、何も聞こえなくなった研究所に春奈が歩く静かな音だけが響く。まるで何かを憂うように目を伏せながら春奈は、至極当然のことのように言う。
「前の研究所も、あのまま放っておけば冬葉も村の人も実験体として捕獲される可能性があったからね。だから、ここもそうなる前に壊しておこうと思って。」
「そ、そんな・・お兄ちゃん、どこまであの化け猫に洗脳されてるの!?」
夏貴は、力を込めて右足を蹴り上げた。しかし昼間とは比べ物にならないくらいに素早い動きで春奈は夏貴の蹴りを避けるとその足を掴み壁に向かって放り投げた。咄嗟に受身を取ったものの、その衝撃は凄まじく夏貴は壁に大きく穴を作ってズルズルと落下した。
「洗脳?違うよ、そんなんじゃない。」
まるで宿題ができない妹を諭すようにほんのりと笑いながら、春奈は夏貴に向かって近づく。瞳には、ギラギラとした狂気と柔らかい愛情が混じりあっていた。
「お兄ちゃんは、私のなんだからっ!!」
パキパキと床に落ちた破片を踏みながら、夏貴は立ち上がり攻撃の態勢をとった。破損はしていないのにカクカクと節々が震えるのは恐怖という感情からであるというのに、夏貴にはその理由が全くわからなかった。
それでも、とにかく力でねじ伏せれば良いと今まで教えられてきた方法でしか解決法を見出せない夏貴は、春奈に向かって足技を繰り返す。それを春奈は器用にかわしながら、腹部に鋭く一発、拳を入れた。
「ぐうっ、」
苦しげな声とともに夏貴の体がくの字に折れ曲がる。それを片手で受け止め、さらに膝で胸部にも一撃。人間であったなら、確実に背中から何かが出てきていたであろうほどの衝撃に、夏貴の身体は声もなく跳ねた。
「わかってないな、妹ちゃんは。俺は、」
長い指が、力を込めて夏貴の肩を掴みギシギシと鳴らしながら春奈の顔の高さまで吊るす。そのまま、春奈が美しく狂った笑顔で囁いた。
「俺は、冬葉の物なんだよ。」
「おにい、ちゃ」
すっ、と夏貴の肩から春奈の手が離れ、次の瞬間には春奈の長い足が夏貴の横腹を捕らえた。鈍い嫌な音とともに夏貴の体が高らかに跳ね、落ちた。
別れたほうがいいんだろうか。秋穂から言われた言葉を考えながら、冬葉は家路を一人歩いていた。
喫茶店の店内で向かい合って座る冬葉と秋穂は、にらみ合うように視線を交えたままどちらも次の言葉を口には出せずにいた。
まるで口に出した思いは、間違いだとでも思っているかのようにじっと唇を噛み締めたまま。
秋穂の想いに気づいていないわけはなかった。秋穂の気遣いを知らないわけではなかった。それでも、冬葉が選んだのは春奈だった。一緒にいたいのは、春奈だった。それだけのことだ。
「・・・私、は、間違ってる?好きな人と一緒にいたいって思うのはおかしいこと?」
とうとう冬葉は挑むようにそう言葉にした。最早冷めてしまったコーヒーを口に含みながら、秋穂は帽子の下から鋭い瞳を冬葉に向けた。それが一瞬だけ、緩んで三日月の形になる。
「おかしくないし、間違ってない。俺だって、そう思う。だから、俺はこうしてここにいるんだ。」
「・・・じゃあ、やっぱり私は帰らないよ。」
「けど、俺は自分のそんな想いのせいで好きな奴を苦しめるんだとしたら、例え正しくても間違いにする。」
空になったカップを優しく机に置いて秋穂は、背もたれに体を預けた。冬葉と秋穂の距離は少し離れた。
「ロボット野郎が、また昔の仕事をしなくちゃならないことになったとして、お前が傍にいることはあいつにとってどういう意味を持つのか、お前は考えるべきだ。」
まるで難しいことを咀嚼して説明するようにゆっくりと易しい声で秋穂が告げる。さっきのように激しく責めてくれれば反論だってしようがあるのに。冬葉はそう思いながらも、じんわりと染みてくる秋穂の言葉に同意しそうな自分がいることに気づいた。
元々、春奈は対人外用として開発されたロボットだった。つまりは、冬葉や秋穂のような存在を排除するために特化されたロボットだ。それが、冬葉に出会い秋穂に出会い、いつの間にか研究所に反旗を翻し今では冬葉の旦那として暮している。それでも、きっと自分が存在する根源的理由を真っ当したいと考えることがあるだろう。どんなに春奈が冬葉を愛していたとしても、春奈にとって冬葉は排除対象であることに変わりはない。だとしたら、だとしたら、
「私と一緒にいると、春くんは・・・辛いのかな。」
もしも、あの美少女と一緒に戻るとしたら、私はやっぱり春くんの傍にいられない。春くんの決意を鈍らせてしまうなら、私は傍にいられない。
「はあ、やっぱり、あれだな。オムレットとハムレットみたいだな。」
呟いて空を見上げた。町の中は明るすぎて星があまり見えなかった。
夜も更けた頃、冬葉はアパートに帰った。部屋の扉は出かけるときに作動した頑丈なロックは掛かっておらず、春奈が元に戻ったことを告げていた。
「・・ただいま、春くん?」
カチャンと鍵を開けてドアを押す。途端に目に飛び込んでくる眩しい光は、薄暗い外を歩いていた目には刺激が強すぎて冬葉は咄嗟に目を閉じた。
蛍光灯の灯りだ。冬葉がそう思い至るのと同時にふわりと冬葉の体を優しく何かが包んだ。まるで人間の皮膚のように柔らかい質感に、洗剤の匂いに僅かに混じる独特の金属の匂い。誰か、なんて考えるまでもない。そっと背中に添えられた大きな手から、伝わる低い温度。
「おかえり、冬葉。どこか怪我してない?大丈夫?」
「春くん、」
抱きしめられたまま、春奈は心配そうに冬葉の顔を覗き込んだ。半日ぶりに見る夫の表情に妻はホッと安堵の息を吐いた。怯えるように視線を動かす春奈に笑顔を返せば、春奈はさっきよりも強く冬葉を抱きしめた。
放れた途端に春奈は、冬葉の身体を軽々と持ち上げ点検するかのように見回る。
「本当に大丈夫?俺、冬葉に何かしなかった?ミサイルとか、出さなかった?」
「何それ。春くんてミサイルも出せるの?初めて知った。あとは?あとは何が出るの?今後の参考までに聞いておかないと。もし突然、手が銃とかに変わったら困るよ。」
「うん。ごめん、それは俺にもわからない。」
「わかんないの?なんでわかんないの?自分のことでしょ?こっちは命かかってんだから、ちゃんと言っておいてもらわないと・・・」
持ち上げられたまま、いつものように春奈に手を伸ばそうとして冬葉はピタリと動きを止めた。違う、こんな暢気に話をしていていい場合じゃない。
「冬葉?」
急に黙ってしまった冬葉を、春奈は困ったように不安げに見つめる。持ち上げているせいでいつもと伸長差が逆だ。
「春くん、・・・もし、あの美少女と一緒に行くならそう言ってね。そしたら、私、ちゃんと・・その、怒ったりしないで許すから。・・あ、でも、もしかしたら一発くらいは殴るかもしれないけど、でも、ちゃんと話してね。」
「・・・冬葉、」
じっ、と冬葉の獣のような瞳を見つめながら、春奈は胸の中に優しい感情が満ちるのを感じた。これをきっと愛しいというんだ。
「春くん?」
そっと、持ち上げていた冬葉の身体を引き寄せて額と額をあわせた。吐息が触れ合って視線が絡まる。
「俺は、ずっとここにいるよ。誰がきても、どこにも行かない。壊れるその瞬間まで、冬葉の夫でいる。冬葉のことを守るから、だから冬葉は安心して。」
「本当に?でも、あの美少女が、」
キラリ、一瞬だけ春奈の瞳が狂気の色に染まった。しかし、冬葉がそれに気づく前にいつもの柔らかい笑顔を浮かべ優しい声音で囁いた。
「あの子は、俺の妹だよ。俺が元気にしてるか、研究所を抜け出して見に来たんだって。」
「い、妹?で、でも、前の研究所の匂いが、だから、春くん、」
「気のせいだよ、同じ機種だから、そう思ったんじゃない?前の研究所は関係ない。冬葉は何も心配しなくていいんだよ。全部、俺が解決したから。大丈夫、大丈夫だよ。」
至近距離から見詰め合った、一つ目小僧のような春奈の目が優しく細められた。それから、甘えるように触れ合う額を擦り合う。どちらともなく二人は声を出して笑った。
「春くん、私、春くんの邪魔になってない?私、春くんの傍にいて良い?私も、死ぬまでここにいていい?」
「もちろん。いて、何があっても俺の傍に。ずっとずっと俺と夫婦でいて。俺の奥さんでいて。」
春奈は、冬葉を抱き上げたまま抱き寄せた。ぎゅうっと少しだけ腕に力を入れて抱きしめると冬葉も応えるようにその首に細い腕を回した。春奈の耳元で冬葉の明るい笑い声がくすぐったそうに甘える。夫は、その愛しい妻の髪を、そっと優しく撫でた。
お隣のご夫婦は、ちょっとおかしい。
今日も朝から聞こえてくる激しい戦闘音。そして奥さんだろう人の高めの声が、まるで獣のような鳴き声を上げて壁伝いに響く何かがぶつかった音。
「ま、待って、冬葉、それはこの前買ったばかりの新品っ、」
「うるさい!春くんのばかあああ!変態!!!」
僕は、もう慣れたものでそんな平和な声を聞きながら朝ごはんの支度を始めた。今日は、ベーコンが余っていたからベーコンエッグなんていいかもしれない。
「変態って、普通は夫婦だったらキスくらいはするんだよ!」
「今までそんなことしなかったもん!春くん、やっぱりあの美少女とっ!!」
「違う、違うからああああ!!」
ジュウジュウとベーコンが焼ける香ばしい音が食欲をそそる。それから、今まで会ったこともないお隣のご夫婦に少し会ってみたいと思っている僕が、いた。
それにしても、そうか。お隣のご夫婦はキスをしたのか。いつだろう、全く気づかなかった。
潜在夫婦 霜月 風雅 @chalice
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