第10話「旅立ちの日と、期限1年間の恋」
人もまばらの駅のホーム。アイリの乗る終電は間も無く到着する。アイリと手を繋いでいたトーマは、突然その手を解いた。
アイリは驚きと恐れとが混じった目を見開いて、トーマを見た。トーマはアイリの方を向いて、今できる精一杯の笑顔を見せた。アイリは全てを悟った。目が、強張ったまま潤んでゆく。
彼女は、今日来る気がしていた。今日、トーマとアイリの物語が、終わりを迎える時が。そしてふたりの手が離れたその瞬間、アイリは、とうとう来たのだ、と思った。
「アイリ、……1年間、ありがとう。アイリといた時間は、これまでで一番、素敵な日々だった」
「うん、……」
アイリの頬を、湛えきれなくなった涙が伝う。
「ねえトーマ、もう、これで終わりなのかな」
「1年前、ぼくたちは約束した。1年間、恋人同士になってみようって。それでうまくやっていけそうなら、それから先も恋人でいようと」
「ねえ、あの約束は無かったことにして」胸の奥から絞り出したような声のアイリ。「わたしは、トーマのことを愛しているの。だから、トーマがどこに行っても、トーマの傍にいさせて。なんでもするから、お願い」
「けれど、それはできないんだ」
「どうして」
「落ち着いて聞いてほしい。アイリの未来を奪うことは、ぼくにはできない」
「未来を、奪う? どういうこと」
「アイリは1年前から、いつも何かに怯えているように、緊張していた。ぼくと一緒にいる時、落ち着かなかった。それは、ぼくと一緒にいるからだ、と思うようになった。近いうちに、ぼくとアイリの関係に終わりが来るかもしれないという恐怖が、繋いだ手から伝わってきたんだ。だからこれ以上、アイリを苦しめ続けることはできない」
アイリの涙は止まらなかった。手の内をすべて読まれてしまっているという動揺が、感情に追い打ちをかけた。
「それでも、わたしはトーマといたいの。これから先も一緒にいたい」
「ぼくはこう思う。百歩譲って、これから先アイリといることが可能であるとしても、アイリはぼくといることを恐れ続けるだろう。いつしかアイリは、恐怖に打ちのめされて衰弱していく、ぼくにはそんな未来が見えたんだ」
「どうして……。そんなの、嘘だよ。わたしは、トーマの為なら死んだっていい」
擦れた、悲痛な声で訴えつづけるアイリに、トーマは1枚のスカーフを差し出した。アイリは即座に受け取り、両目を覆った。トーマの匂いがした。
「ぼくから、ひとつお願いがある。ぼくはもうすぐ、行かなくちゃいけない。最後の最後に伝えたいことを、そのスカーフに書き留めておいた。だから、最後までほんとうにぼくのことを愛してくれたらでいい。ぼくが見えなくなって、ぼくと過ごした時間を、笑いながら思い返せるようになってでいい、それを読んでほしい。――今からいちばん辛いことを話さなくちゃいけない」
アイリはスカーフにうずめた顔を上げた。トーマは深刻そうな顔をして、少し俯き加減だった。
「ぼくの過ちを、許してほしいとは言わない。もう終わりだから」
トーマはアイリをちらりと見て、また目を伏せた。
「ぼくには、半年前、婚約者ができたんだ。ぼくの両親は、ぼくの結婚相手としてふさわしい女性を選ぶために、『期限1年間の恋』と名付けた制度で、いろんな女性とぼくをめぐりあわせた。最初はひとりずつだった。けれどぼくがだんだん慣れていくうちに、効率のいい恋を生産するようになった。現在進行中の恋は、アイリを含めて3人。ぼくはその3人のうちのひとりと、婚約することになった。ぼくはもうすぐアイリのことを忘れて、他のひとと結婚することになる」
その長い独白を叩きつけられたアイリは凍りついていた。まだ季節は初秋だというのに、雪風にさらされたような悪寒が、全身を駆け巡る。スカーフが手から落ちる。
トーマがこれまで見せていた不安そうな表情は、つまり……。アイリの心に、怒りが隆起した。あっという間に肥大していく。
「それじゃあ、さよならだ」
お互いの顔は、もう合わさることはなかった。
間もなく終電がホームに到着して、ドアが開いた。アイリは、車内から吐き出されるようにして出てきた人混みにまぎれて、改札を抜けた。
アイリと、トーマは、遮断された。少しホームから離れた夜の街に佇むと、狂おしいまでの虚無感が襲いかかってきた。両手を眼窩に押し当てた。
「お嬢さん、これ」
肩を叩かれ、ぐしゃぐしゃになってしまった顔を上げると、白髪頭の女性が、にこやかに白いスカーフを差し出しているのに気付いた。震える手でスカーフを手に取ると、そこからかすかにトーマの匂いがした。それは、彼女を欺いたトーマの、最後の嫌がらせであるようにしか思えなかった。
アイリに見える世界は、悪い夢のように、不鮮明なモノクロになっていた。さきほどの女性が見えなくなってから、アイリはうつろな表情で、スカーフをぐしゃぐしゃに丸めた。トーマの匂いがわずかに残存するようで、アイリは自分で自分が信じられない気がした。
トーマは、どうしてだか、いつまで経ってもそこにいられる気がした。事はこれからだ。けれど何も起きそうにない。それが心の中に巣食う魔物となって、ホームに佇むトーマを苛んだ。
アイリのことを想った。少し残酷な最後だったけれど、どのみち、きっと彼女はまた光を見つけるだろう、と。それでも、トーマはずっとアイリのことを忘れないつもりだった。
駅の時計は間もなく午前零時。その時間を過ぎても、ずっとアイリと過ごした日々の思い出を、彼女の手のぬくもりを、どこへ行っても忘れまい、と思うのだった。
刹那、突風が、トーマの背を押した。思いがけないほど強い風に、トーマは圧され、足のバランスを崩した。
アイリはその瞬間、腐り果てようとする幻想から呼び覚まされた。どういうわけか、もう一度、あの男を信じてみようと思ったのだ。トーマは確かに裏切った。だが、そんなそぶりをひとつとして見たことは無かった。
直感を、信じてみることにした。ホームに駆け足で向かった。――私が感じていた不安感は、トーマが言っていた「期限1年間の恋」とは別のところにあるのではないか。
息を切らしながらホームに辿り着いた。まだどこかで、トーマが待っている。アイリは不確かな希望にすがるように、また改札を抜けて、ホームじゅうを駆け回った。しかしどこにもトーマの姿は見えなかった。
――やっぱり、トーマはうそつきだったんだ。
トーマへの怒りと、彼を信じ切っていた自分自身の情けなさに、自然と涙が溢れ出た。
そのとき、どこかから、懐かしいトーマの匂いが漂ってきた。振り向く。誰もいない。けれど、気付いたら、ジーンズのポケットにさっきのスカーフが入っていた。
アイリは震える手でスカーフを取り出した。広げてみると、淡いイエローの下地に、黒いペンで書いたと思われる文章が、びっしりと書き込まれている。
――アイリへ。もしこの文章をどこかで読んでいれば、ぼくの推理が当たったということになる。きみのことだから、きっとどこかで読んでくれてるよね。
『期限1年間の恋』というのは、アイリとぼくを引き離すための嘘だったんだ。でもぼくは、今日に至るまで、ずっとずっと不安だった。なぜなら、ぼくとアイリの恋は、期限1年間だったからだ。
アイリがぼくを好きだって言ってくれた瞬間を、ぼくは決して忘れない。あの日は、ぼくの人工脳が無効になって、動かなくなる日からちょうど1年前だった。ぼくの一生の最期に、素敵な時間をくれてありがとう。
アイリ、愛しているよ。
アイリは、それを読み終えると、スカーフを顔面に押し当てた。――なんてことを。わたしはなぜ気付かなかったのだろう。なぜ。なぜ。なぜ。最期にもういちどだけ。もういちど、トーマの胸のなかで泣きたい。そう思ってるなら、出てきてほしい。なぜ最期に、こんなことをして、わたしから逃げたの?
トーマの匂いが鼻腔いっぱいに広がる。――でも、結局わたしたちは、こうすることしかできなかったんだ……。
夜空は、いつのまにか厚い雲で覆われ、小粒の雨を降らせた。アイリはトーマの存在のかけらが無くなるまで、そこにとどまることにした。
結局、線路の上のトーマに、アイリは気付かなかった。けれどトーマは、それが答えだとでも言うように、安らかな顔をして、長い眠りについていた。
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