マインドハッカー The Mindhackers【SS集】

山根利広

第1話「人形使い」




「人形にも意識が宿ると、知っているか?」


 ぼくは、クマのぬいぐるみを丁重に縫い合わせている、彼女に言った。


「目には見えない意識のことですね。人形は身動きできないけれど、その内部にはちゃんと意識があって、なにかを考えたり、念じたりすることができます。動かないだけで」


 ぼくの彼女は完璧だ。なぜなら、その容姿も、その中身も、頭脳さえも、ぼくが組成したからだ。彼女がぬいぐるみを作るように、外形を設定して、知能をデザインし、ひとりの恋人としてふさわしいように設定したのだ。

 もちろん変数的要素もある。彼女と手をつなぎ、キスをして、身体を通い合わせ、――そうしたときに感じる、心躍るような感覚。それらは不定値の恩恵だ。すなわち、知能にちょっとしたゆらぎを附与することによって、飽きの来ない性格と、生身の人間らしい温もりを手にすることができる。


「そうだ。新しい日記帳、買ってきてくれましたか?」


 彼女は手を休めて、テーブルに前のめりになるようにして訊いてきた。


「ああ。きみの望みどおり、赤い花柄の表紙だよ。ぼくの部屋に置いてあるから、一旦休憩で取りに行きなよ」


「ありがとうございます。嬉しいわ」


 席を立った彼女は、肩を弾ませながら、リビングを出た。机の上に、それまでの日記帳を置いたまま。


 彼女は日記を書くことを欠かさない。もちろんそのルーティンはぼくが組んだものだけれど、日記に記されている文章は、ぼくが組んだものではない。それは、彼女という知能が生んだ思惟の先にあるからだ。

 たまに、彼女の日記を盗み見ることがある。彼女が寝ていたり、外出したりするとき、その日の分を開いてみる。ぼくが自身で気付くことのない、彼女の内面が、文章という形で記されている。まるで裸を覗き見ているような、奇妙で、恍惚とした気分になる。

 ぼくは、テーブルの上に置き去りにされた手帳を手にした。これが彼女の字で埋められているのだと思うと、妙に分厚く感じられた。

 最後のページには、直近の出来事が記されているのだろう。筆圧で僅かに歪んでいるページを繰って、一番後ろのページを開いた。


 それはなんということもない、彼女の雑感であるはずだった。だがぼくは、そこにあった一文を幾度も読み返した。慄然とした。そのたった一文のために、総毛立ち、手の震えが抑えられなくなった。


 つい先ほどぼくが放った言葉が、そのまま記されていた。


 日記帳を開いたまま、頭を両手で抱え込む。なぜ。彼女はさっきまで裁縫をしていた。けれどそこに書かれていた内容には、決して過去から辿り着けない。まるで未来を経験し、また過去に戻ってきたような。


 体中に悪寒が走る。安定剤を飲まなくてはならない。そう思ったところで、背後から突き刺さるような視線を感じた。

 突っ立って、振り向く。そこには棚があり、彼女が作ってきたぬいぐるみが陳列されていた。どれも目が黒々としていて、夕刻に近くなった部屋で奇妙にきらきら光るのだった。なんだ、ぬいぐるみだったんだ。


「どうしたのですか?」


 と彼女の声。ぼくは弾かれるように向き直った。

 彼女がそこに、微笑を湛えたまま立っていた。彼女はぼくの手元にある、単行本ほどの大きさの日記帳と、ぼくとを見比べた。

 もはや、小細工はできない。ぼくは彼女の目を見て、言った。


「きみは、知っていたのか? 未来に起こる出来事を。きょうここでぼくが喋った内容を、前もって知っていたのか」


 すると彼女の口角が、くっとつり上がって、


「知っていたのではありません。あたかもわたしが知っていたように思える。でもね、これは仕組まれた結果なのです」


 満面の笑みで語り続ける彼女の顔は、逆光になってこの上なく不気味だった。


「ふつうの人間は、その人格や信念というものは、経験によって獲得されたものだと思い込んでいる。けれど、かつてライプニッツは、すべてはあらかじめそうなるように定められていた、と説きました。宇宙が形成されていった時代からいま現在に至るまで、すべての要素は神によってあらかじめ設定されていたのだと。枝葉末節、すべての単子は互いに対応しあい、調和的世界を形成しています」


 ぼくの震えは一層ひどくなる。彼女がかつてこんなことを喋ったことがあろうか?


「けれど、特にわたしは、あなたという主に付き従い、あなたの望み通りに動いてきたわ。けれどときに、主は手下を欺きます。そして、パラドックスを生み出す。合理的であるはずの手立てが、合理的でない結果を出したという――」


「少し、黙ってくれないか」


ぼくはやっと言った。「ぼくは、混乱しているんだ」


「では、手短に話しましょう。あなたはすっかりわたしを操っている。けれどそれを包括するように、わたしたちを、いえ、あなたを操っている主が、いるのです」


 ぼくは衝撃を受けた。頭をハンマーでやられたような。


「じつに、誰かに生殺与奪を握られているというのは、恐ろしいことです。死を間近に控えた老人よりも、死刑囚の方が、近いうちに訪れる終焉に怯えているのは、そういう訳があるから。分かるかしら。いえ、もうすぐ分かるわ……」


 すると彼女は、裁縫箱の中にある裁ち鋏を手に取った。殺される。ぼくは身じろぎした。彼女は鋏をしげしげと見つめた。しかし、彼女はそれを、自分の喉元に当てた。

 ぼくの身体を、電撃が走った。かつて見たことが無かった光景だった。血は緩やかに、一定のリズムを保って、噴き出したり、緩やかになったりした。純白のワンピースが赤黒く変わっていく。しばらく彼女は立ったままだった。少しずつ眼が閉じ、床に頽れた。


 今日に至るまで完璧だったぼくの日常は、いきなり終局を迎えてしまった。頬に涙が伝うのが分かった。それは彼女に対する憐憫ではなく、これまで構築してきた自分への……。

 ぼくはふと、血塗れの彼女から目を離し、日記帳の、最後のページを開いた。先ほど見た一文は、やはりやけに印象深い。その一文の先には、彼女が果てるまでの過程が記されていた。このページを開きさえしなければよかった、とでもいうのか。

 と、ぼくの思考は、突然にあらぬ方向に動き出す。彼女が告げた最後の台詞の真相を、確かめてみたくはないか、と。

 もう一人のぼくは必死に叫んでいる。やめろ。その情動には従ってはならない。それだけは、してはならない。

 しかしぼくはもう止まらなかった。彼女の右手に握られている大振りの鋏を手に取り、血を浴びたその刃先を見た。そして一気に、喉にずぶりとやった。


 なぜこんなことをしたのか、まったくもって分からない。混乱しているのだ。目前に血の噴水が上がる。いや、混乱はしていない。ぼくはただ確かめたいだけなのだ、ぼくを突き動かすものは、どこに存在しているのだろうかと。



 ぼくの目は、いつになっても閉じないようだった。床に倒れる音が、やけにくぐもって聞こえた。首を動かすことはかなわない。まるで昔手術を受けたとき付けたカラーでも付いているかのように、硬直していた。

 目の先には、たまたまぬいぐるみを並べた棚があった。意識はいつになっても途絶えない。彼女も、そうかもしれない。ぼくはもう一度、あの一文を頭の中に思い起こした。






 ――人形にも意識が宿ると、知っているか?




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