自罰、畜生、拾い食い 自罰系M×少女

 家庭科室の、苔みたいな深い緑のリノリウムは、日の当たる場所だけが退色して乾いていた。

 大きな窓からの日差しの反照で天井まで隈なく明るい。オーブンの駆動音と二人分の足音に、日光の気配が寄り添っている。

 料理部の木佐木くんに手を貸してもらって、カップケーキを作っている次第。あとの工程はオーブンの専門領域だから、私たちはただそわそわして待つことしかできない。洗い終わった調理器具のうえで、光が静かに留まっていた。

「あのさ、」

 不意に響いた声が異物のようだった。木佐木くんは、押し潰したみたいに抑揚のない喋り方をする。

 彼は濡れた手をシンクに垂らしたまま私を見ていた。その淡色の瞳が強いひかりに底を晒して、眩しそうだと思った。

「聞いてなかったけど、中埜、何でケーキ作ってんの」

「上手に作りたくて、練習? 木佐木くん、料理得意だから」

「そりゃ、料理部だし」

「でも部員いま一人なんだよね。活動してるの?」

「活動しなきゃ本当に無くなるだろ」

 中埜、暇なら入部してくれていいぞ、と片頬を上げて言う彼が、どうしてこの部活をそれほど大切にしているのか、私は知らない。クラスメイトになってから半年程度の友人関係。そんなものなのだろう。知らないことも知られていないことも沢山あった。

 甘い匂いを発散するオーブンを何度目か覗き込み、また丸椅子に座る。私たちよりもずっと長い間学校に在籍する椅子は、どれも脚の長さが微妙に不揃いだ。

 不安定な椅子のせいでメトロノームみたいにゆらゆらする私のそばへ、彼もやってくる。

「木佐木くんは、いつも私にお菓子くれるよね」

「あー……何か嫌いなもの、あったか。ごめん」

「違うよ。でも、材料代とか大丈夫なのかなって、最近気になって」

「そか。ごめん、気にしなくていい。部活動の一環だから」

「そう?」

「うん。いい。……中埜は、なんで上手くなりたいの。ケーキ」

「人にあげたいの」

「それって、家族とか」

「んーん。いま、付き合ってるひと」

「そ、」

 その瞬間、声にわずかな色が乗った。つんのめって転ぶ寸前のような、不自然な間隙が生まれる。

「……そっか、だよな。そういうもんだよな。中埜みたいなやつが、ケーキなんて、作りたがる時って」

「なに……」

 会話に割り込む形でオーブンが鳴った。はっとした様子で木佐木くんが立ち上がり、ミトンを引っ掴んでオーブンへ向かう。

 ついていって、彼が天板ごとケーキを取り出すのを背後から眺める。オーブン内の熱気が私まで流れてきた。

 竹串で火の通りを確かめた木佐木くんが、満足そうに頬を緩めた。

「完成。座って食べよう、中埜」

「いい感じ?」

「いい感じ」

 広いテーブルの上へ天板を載せて、彼は近くの椅子に座る。倣って隣へ腰掛けた。

 そうして何気ない動作で木佐木くんがカップケーキを一つ手渡してくれるから、私も、なにも考えずに手を出した。

「あちっ」

 私の手から跳び出したケーキは、太腿にぶつかって床へと落ちる。びっくりして上がった足が、降ろした拍子にケーキを踏みつぶした。

「あ、や、やっちゃった。木佐木くん……」

 顔を上げて、目に入った彼の顔色が酷かったから、咄嗟に口を噤んだ。思わずなのか立ち上がった彼が、ふらりと一歩近づく。

「……ごめ、ごめん、中埜、指……。靴、汚れて」

「靴は、だいじょぶだけど……」

「ごめん、なさい……」

 なにをするかと思うと、彼は急に床へ片膝をついた。捧げ持つように、ケーキを踏んだ方の足を掴む。

 片足を持ち上げられて、付け根の方に落ちてくるスカートを両手で押さえた。

「ちょっと、あの、ぱんつ見えるから」

「ごめん、ん……」

 そして止める間も無く、彼の唇が靴先に触れた。血の気の引いた唇が薄く開いて、ケーキの滓や溶けたチョコレートを舐めとる。

「やめ、やめて……」

 ふとした拍子で顔を蹴飛ばしてしまいそうで、うまく身動きも取れなかった。肉色の舌が靴底のゴムの隙間まで探る。どこを歩いたかもわからないのに。

「汚いってば!」

 とうとう、もう片方の足で彼の肩を押した。

 緩慢におもてを上げた彼が瞬きを繰り返す。いくつも涙が滑り落ちて、今更彼が泣いていたことを知った。

 黙ったまま、彼の涙をしばらく見つめていた。教室の掛け時計から響く秒針の音が妙に耳についた。

「ええと……」言葉が見つからずに言い淀む。喋り出した以上は何か、言わなければいけないような切迫感があった。「靴、舐めるの、好きなの?」

 濡れた睫毛を光らせて、木佐木くんがぽかんと私を見上げている。

 口の中のものをごくんと嚥下して、それから彼は、首を横に振った。

「好きじゃない」

「じゃあ、なんで」

「許して、ほしかった、中埜に……」

 懺悔するみたいに跪いて、そう溢す。私が口を挟む前になおも言い募る。

「嫌だったけど、俺が苦しいことをすれば、許してもらえるんじゃないかとか」

 ──苦しむほど罪は、軽くなるんじゃないかって。

 またはらはらと涙を流しだす彼の頬には、いつの間にか朱が差していた。火照った頬の輪郭が倒錯そのもののように見えた。

 反射的に逃げかけた私の足へ、木佐木くんが縋る。男の子の力を加減する余裕すらないらしかった。腿へ爪が食い込む。

「許して、中埜、嫌わないで。なんでもする、したいんだ、中埜……」

 哀願されて途方に暮れた。

 ゆっくりと傾きかける日を受けて、カップケーキの油脂が光る。もう食べ物には見えなくて、自罰と奉仕が結晶すると、こうなるのだろうか、と思う。

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不正解な愛し方 猫村空理 @nekomurakuri

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