12 なでなで
「曽根崎ィー死ぬなってぇー。行けば死ぬんなら行かなきゃいいだけの話じゃねー? そんなに死にたいなら僕がザクーッと一思いにやったげるからー」
「先生、その手のやり取りは昨晩済ませたので、今日は結構です」
「どういうこと?」
目の前を、曽根崎と烏丸、そして景清が通り過ぎていく。未来から来た曽根崎は彼らが通り過ぎるのを待ってから、ある部屋へと向かった。
しばらくの後、ペタペタとサンダルの音が近づいてくる。それがピタリと止んだかと思うと、曽根崎がいる部屋のドアが開かれた。
「あれ? 帰ったんじゃなかったの」
気怠げな声に、曽根崎は黙って首をすくめてみせる。しばらくぼーっと彼を観察していた烏丸だったが、やがて目を細めて言った。
「……アンタ、さっきの曽根崎じゃないな?」
「流石先生、ご名答」
「ネクタイの色が違う。加えて、あんな帰り方をした曽根崎がすぐここに戻って来るはずがない」
腕を組んだ烏丸は壁にもたれた。薄暗い手術室の中は、まだうっすらと腐臭が残っている。
「そんで、アンタはどういった種類の曽根崎?」
「えー……二日後に穴に落ちた種類の曽根崎です」
「なるほど、そんなら無事で帰ってくるってのは保証されたってわけだ。ちょっと安心した」
烏丸は、何の警戒心も無く曽根崎のそばに近付く。彼は小柄なので、長身の男と対峙すれば自然と見上げる形になる。
白衣のポケットに手を突っ込み、彼は言った。
「……何しに来たの」
この問いに、曽根崎はチラリとトレイの上のミートイーターに目をやる。そして視線を戻し、烏丸に答えた。
「一人、先生にご紹介したい方がいまして」
「交友関係広がるの面倒くせぇんだけど」
「まあそう仰らず」
うっすらと開いていたドアに顔を向け、曽根崎はとある名を呼ぶ。
遠慮がちに入ってきたのは、少し腹の出た壮年の男だった。
曽根崎さんと別れた後、僕は阿蘇さん達がいるレントゲン室に向かっていた。
だがその前にトイレに立ち寄る。仕方ない。予想より廃墟が寒かったんだ。仕方ない。
そうして用を済ませて手を洗っていると、誰かが激しく嘔吐する音が聞こえてきた。
「……?」
一番奥の個室である。
……警察病院なんだし、患者さんだろうか。そう思った僕は、ノックし声をかけてみることにした。
「すいません、大丈夫ですか」
「……ッゲホッ、ガハッ、……ッ!」
「だ、誰か人を呼んできましょうか?」
その呼びかけに、苦しそうな咳が止まる。数秒後、弱々しくも聞き慣れた声が漏れてきた。
「景清……?」
――藤田さん?
ブワッと全身から嫌な汗が吹き出た。
……やっちまった。
慌てて否定しようとしたが、名を特定された今となっては時すでに遅しである。
どうしよう。接触禁止をものの十分で破ってしまった。怒られるかな。いや、怒られる云々よりも歴史が変わったって事自体がまずいのか。
けれどこうして声をかけてしまったからには、無かった事にもできない。それに何より、この状態の藤田さんを放っておくなんて……。
ノックした手のまま固まり、ぐるぐると考える。
そして僕は、一つの結論に達した。
……仕方ない。こうなったら、藤田さんには僕と会ったことを秘密にしてもらおう。
彼が誰にもバラさなければ歴史の辻褄は合うはずである。うん、それでいこう。多分セーフ。
開き直った僕は、はっきりと彼に肯定した。
「はい、景清です。そう言うあなたは藤田さんですか?」
「そう、だけど……。なんでお前がここに?」
「ちょっと秘密の用事です。なので僕がここにいた事は曽根崎さんや阿蘇さんには黙っててくれませんか? バレたらしこたま怒られるので」
「え? あ、うん。分かった。言わない」
よし、了承を取ったぞ。これでひとまずは大丈夫だ。
水が流れる音がして、ドアが開けられる。そこから出てきた藤田さんは、派手な目隠し越しでも分かるほどに真っ青な顔をしていた。
人のいい彼は、それでも無理矢理僕に笑みを作ってくれる。
「……ごめん。心配かけたね。もう平気だから……」
「いいですよ、藤田さん。気にしなくて」
「はは、ほんとよくできた甥……ッ」
だが突然笑みを引っ込め、口元を押さえて身を翻す。そのまま、便器に向かって嘔吐した。
……既に胃の中のものはカラになっているのだろう。固形物と呼べるようなものは、ほぼ口から出てきていなかった。
僕はしゃがみこみ、藤田さんの背中を撫でる。
「……ッごめ……ゲホッ、かげ……」
「僕は大丈夫です。藤田さんが落ち着くまで、ここにいますから」
「……ハッ……クソ、ごめん……」
……本当に辛そうである。
けれど無理もない。なんたって、今の彼の頭の中には命を脅かす寄生植物が根を張っているのだ。しかもその進行速度は凄まじく、かつ外科手術での除去は難しいとすら告げられている。
普段明るい藤田さんとはいえ、やはりこれらは精神を侵食するほどに恐ろしいものだったのだろうか。
「……」
いや、違う。
――“異物”が、己の体内に入り込んでいる。
その事実こそが、彼の精神的負荷を計り知れないものにしている要因なのだ。
「……藤田さん」
自らの血を至上とし、“血に混ざる”可能性のある異物は一切を排除するという教義。そういえば、歯の治療の為の銀歯なんかも入れちゃダメだと言われてたっけか。
だから、彼のこれは“拒否反応”なのだろう。あるカルト教団の後継者たる自分の血を汚す、憎き異物への。
「……もう、オレは……大丈夫、だと、思ってたんだけど」
息も切れ切れに、藤田さんは言う。
「人なら……大丈夫。人が作ったものなら、大丈夫。だけどまさか、人ならざるものがこうして……」
そこから先の言葉は続かなかった。彼が激しく咳き込んだからである。だけどかつて彼に近い境遇にいた僕は、その続きが想像できてしまった。
――“オレの血を穢すなんて。”
「……呪いだなぁ、これは」
苦しさに混ざる悔しさに、僕は胸が詰まりそうになる。けれど何か声をかけなきゃと焦った僕は、咄嗟に口を開けた。
閉じていれば良かった。勢い、僕は妙なことを口走ってしまったのである。
「あ、あの」
「ん?」
「ぼ、僕、思いついたんですが……その……例えばこれ、“ウイルス”みたいなものだと思うことってできませんかね?」
「……ウイルス……?」
目隠しをつけた顔が緩やかにこちらを向く。
ヤベ、何言ってんだ僕。でも一度出したものを腹に戻すこともできない。
故に僕は、極論を押し通さねばならなくなった。
「そうですよ。ほら、あれも人じゃないけど人を侵すじゃないですか。藤田さんだってインフルエンザとかかかったことあるでしょ。予防接種もしたことあるじゃないですか。あのノリですよ」
「……」
「これは病気なんです。人にかかる、新種の。だから、その……」
けれどすぐに言葉が選べなくなる。見切り発車のしどろもどろでは、あっという間に立ち行かなくなってしまったのだ。
……大したことじゃないです、は違うよな。
心配ないです、もダメだ。
大丈夫? 大丈夫なわけあるか、明後日には目からミートイーター出してんだぞ。
自分のあまりの間抜けっぷりに、言葉が紡げないまま涙が滲みそうになる。そりゃあ、彼の辿る過酷な未来そのものは変わらないだろう。けれど僕は、今この瞬間の藤田さんの気持ちをどうにか軽くしたかったのだ。なんとかしたかったのだ。
でも、それすらうまくできない。
「……藤田さん……」
名を呼ぶ。目の前の藤田さんは、笑い飛ばすこともなく、バカにすることもなく、黙って僕の話を聞いてくれている。
その優しさに罪悪感でたまらなくなり、僕は頭を下げた。
「……藤田さん、ごめんなさい! 僕余計なこと言って――」
「確かにそうだな! お前天っ才だわ景清!」
「本当に――! ……え?」
ん?
今僕なんて言われた?
戸惑うこちらの表情には気付いてないのだろう。藤田さんは両手で拳を握ると、明るい声で言った。
「景清の言う通りだ! ノリ的にミートイーターでこうなるなら、ウイルスでもショック吐きしてなきゃダメだよな! 体の中に入ってるって点では同じだし!」
「え……いや、え?」
「いやー、景清はマジで頭がいいなぁ! オレ全然思いつかなかったよ! よーし、もう怖くないぜミートイーター。どんとこい、ミートイーター!」
「そ、その、藤田さん」
「うん?」
「あの、えーと……」
「ああ、ご褒美? 頭撫でてやりたいけど、今は手が汚れてるから後でね」
「そ、それは不要ですが……え、本気で言ってるんですか?」
「何が? なでなで? 本気だけど」
「そこじゃないです」
先ほどの苦しそうな様子はどこへやら、あっけらかんと立ち上がる藤田さんである。そして、手探りで洗面台に歩いていく。
「ちょっと手ェ洗ってくるから、そこで待っててー」
「なでなでいらないですよ」
「いいからいいから」
遠慮してるわけじゃねぇよ。本当にいらねぇんだよ。
瞬く間に立ち直った藤田さんに毒気を抜かれた僕は、その場に立ち尽くしていた。
……元気になったのだろうか。もしくは、僕を心配させまいとする空元気なのかもしれない。実際は後者だと思うし、だとしたらそれはすごく申し訳ないのだけど。
――でも、表面上だけでも、いつもの明るい藤田さんに戻ってくれた。
その事に、そんな彼に、そんな光景に。ガチガチに強張っていた僕の気持ちは、情けないほどすっかりほどけてしまっていたのである。
……やっぱり、僕はダメダメだなぁ。そう思いつつ、ふと曽根崎さんから借りた腕時計を見た。
ギョッとする。彼に指定された約束の時間まであと少しだったのだ。
「ヤバい」
呟き、慌てて手帳を取り出す。あらかじめ書きこんでいたページを破り、それを手を洗う藤田さんのズボンのベルトにねじ込んだ。荒っぽい手段だが、阿蘇さんならこれで気付いてくれると思う。
けれど流石に違和感があったのだろう。藤田さんが後ろを向いた。
「何かした?」
「いえ、何も」
「そっか」
「はい。……藤田さん、僕もう行きます。あの、くれぐれもお気をつけて」
「……」
その言葉に、彼は一瞬真顔になったものの、すぐに笑み崩れてくれた。
「……お前もね、景清。ありがとう、オレの側にいてくれて」
「そんな、大したことじゃ」
「ここに来てくれたのが景清で良かったよ。すごく元気が出た」
頭を撫でられる。完全に油断していた。
けれどじきにその手も離れて、藤田さんは優しく微笑む。
「じゃあな。曽根崎さんにもよろしく」
「はい」
最後に一度頭を下げて、そういやこれ見えないんだよなと思い直す。だから僕は「それでは」と一言残し、走ってトイレを出た。
撫でられた優しい手の感触は、消えずにずっと頭に残っていた。
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