9 一日目の夜

 その日の晩。僕は、台所で鍋をかき回していた。

 やがて温かい湯気が立ち上り、味噌汁の匂いが部屋に満ちる。僕はコンロの火を止め、曽根崎さんの舌が火傷しないぐらいの温度まで下がるのを待っていた。


「おい景清君、これどうやってシャワー出すんだ」

「えーと、目盛りをシャワーのマークに合わせてですね、そんで蛇口捻って……ええいもう、行きますよ行きます!」


 適当に曽根崎さんの相手をし、一度手を洗う。それからどんぶりにご飯をよそい、作っておいた親子丼の具をそろそろと乗っけた。多少形が崩れたが、多分味はいい、と思う。


「おい景清君、このシャワーって水しか出ないのか」

「えーと、反対側の蛇口を好きなだけ捻って……あ、うちのシャワーちょっと捻るだけで信じられない温度のお湯出るんで気をつけて……ええいもう、行きますよ行きます!」


 適当に曽根崎さんの相手をし、一度手を洗う。味噌汁をお椀に移し、食卓へと運んだ。


「おい景清君、タオルってここにあるやつを借りていいのか?」

「そんぐらい見たら分かるで……いやそれ足拭きマットだ! どんだけ手がかかるんだよアンタ!!」


 およそ三十一歳とは思えぬほど世話の焼ける大人である。色々とまどろっこしくなった僕はバスタオルでヤツの頭をごしゃごしゃと拭いてやり、残りは自分でやれと押し付けた。


 そんな僕は今、曽根崎さんを伴って自分のアパートに帰ってきている。


 理由は至ってシンプル。曽根崎さんが野宿しても問題なさそうな量の段ボールと新聞紙を、確保できなかったからである。


 晩御飯を用意する僕の後ろから、買ったばかりのパジャマを着た曽根崎さんが顔を出した。


「いい匂いがする」

「今日は親子丼ですよー」

「聞けば聞くほど業の深い名前だよな。せっかくの感動の再会、ここは二人で泣いて盛り上げてみないか」

「みませんよ。曽根崎さん、なんでちょっとテンション高いんです」


 そういやこの人、以前旅館に泊まった時も少しテンション高かったよな。案外こういうノリが好きなのかもしれない。

 曽根崎さんを追い払い、最後に温かいお茶を入れる。ぬるめの方を曽根崎さんの方に置いてやりながら、スマートフォンをいじる彼にしかめっ面をしてやった。


「今はいいですけど、ご飯中にスマホを見るのはマナー違反ですよ」

「今日だけは許せ。忠助に、藤田君の顛末について連絡を入れないといけないんだ」

「……」

「そんな顔をするな。二人とも助けると決めたんだろう? だとしたら、たとえそれがどんな苛烈な手段であっても組み込まねばならない」


 曽根崎さんは僕の方を見もせずに、長い指をスマートフォンに滑らせている。


「それが私の思う、忠助に対する誠実だ」


 事も無げに言う曽根崎さんの目の前に、僕は黙って親子丼を差し出したのであった。











 ――藤田を助けるには、ミートイーターを摘出する必要がある。

 だがその為には、俺の呪文を使って彼の神経細胞や血管を修復しながら、眼窩から寄生植物を引っ張り出さねばならない。


 ……。


 ……いや、無茶だろ。


「なぁ、もう寝たら?」


 ベッドに寝転がる藤田からの声を、阿蘇はノートパソコンから顔を上げずに聞いていた。せめてもの救いは、藤田が目隠しをしており兄からのメールを見られない点か。

 

 確かに、俺の持つ呪文は傷を癒すものだ。その効果は傷のイメージが鮮明であればあるほど力を発揮し、目に見える軽い怪我なら一瞬で治してしまうぐらい強力なものである。

 しかし、今回のような脳神経外科レベルの修復となると話が別だ。なんせ見えない箇所が患部であるため、全くイメージができないのである。

 せめて外科手術で頭を開いた状態で呪文を唱えられたら……と兄に提案した所、すぐに却下するメールが返ってきた。曰く、最も少ないダメージで剥離できるタイミングが、開花寸前で穴に近づいた瞬間らしい。まあその理屈は分からんでもない。


 阿蘇は天井を見上げ、藤田に聞こえないよう深く息を吐いた。


「少しは休めよ。添い寝が必要ならしてやるから」


 それを知らない例の友人は、相変わらずのふざけた調子である。

 兄に送るメールを打ちつつ、阿蘇は返事をした。


「いらん。さっきまた財団から資料が送られてきてな、それも今晩のうちに見ときたいんだ」

「今晩っつったってもう二時だぜ? 草木も眠る丑三つ時だよ。なぁー、ねーよーうーぜー」

「だから先に寝ろっつったろ。俺はいいから」

「オレ人肌が無いと寝られないんだよ」


 「嘘つけ」と阿蘇はキーボードを叩く手を止める。……寝られないのは、別の理由があるんじゃねぇのか。

 振り返り、寝転がる藤田に声をかけた。


「仮説は二つとも外れたろ」


 不安を抱えているだろう藤田に、阿蘇はできるだけ優しく言ってやる。


「目が覚めてもお前は生きてるし、俺に植物は生えてこない。だから安心して寝とけ」


 対する藤田は、不服そうに頬杖をつく。

 それでようやく、ヤツは俺のことを心配しているのだろうな、と分かった。


 昔から、そういう所があるのだ。

 自分の置かれた状況よりも、“周り”というものに目を向ける。八方美人とは少し違う、なんだろう、利他的というべきか。

 ミートイーターの件についてもそうだ。無視を決め込んでいても良かったのに、それが今後周囲へ危険を及ぼすと判断したからこそ、自ら首を突っ込んだのである。


 恐らくは、宗教団体の後継者として育てられた生い立ちも影響しているのだろう。

 そんな彼の特性を、阿蘇は口に出してこそ肯定はしないが、さりとて否定しようとも思わなかった。


「あのさ」


 パソコンの明かりだけが眩しい部屋の中で、藤田はため息をつく。


「ンだよ」

「何かオレにできることない?」

「は?」


 振り返ると、ヤツは起き上がってベッドの下に足を下ろしていた。

 突然何だ。どういうつもりだ。

 え、できること? 目隠しした今のお前に?


「……特にねぇけど」

「あるだろ。無くても捻り出して言えって。オレ察しいい方じゃねぇけど、今だいぶ無理してんだなってことぐらい分かるよ」

「……別に無理なんて」

「してんじゃん。バリバリじゃん。お前自分で思ってるほど隠せてないからな?」

「……」


 その一言に、阿蘇は目から鱗が落ちたような気持ちになった。


 ――無理? 無理をしている? 俺が? 今?


 それは、阿蘇にとってあまりに馴染みの無い言葉だった。彼自身の口からは、かなりの頻度で使われる言葉であるというのに。


 不気味な事件に巻き込まれ、目の前で人が巨大な穴に落ち、未来から来たという兄に協力を申し入れられ。

 挙げ句の果てに、ミートイーターに侵された藤田をこの手で救えとの指示を与えられた。


 あまりに多くの事が起こりすぎていたのである。手を伸ばせど、どれから掴めばいいか判断がつかないまま、さまよわせていた。

 それを自分は、まだ少し整理が追いついていないだけだと思っていたのである。


 ――なのに、コイツは。


 阿蘇は、訳の分からない苛立ちに奥歯を噛み締めた。


 ――ミートイーターに侵食されている“被害者”は、他ならぬ自分であるというのに。


 言葉を返せぬまま黙り込む阿蘇に、片足を抱えた藤田は更に説得する。


「……現実逃避でも、安心材料でも構わない。子守唄歌ってくれ、とかでもいいんだ」


 彼の言葉は、すんなりと阿蘇の中に入ってきた。


「とにかくなんでもいいから、オレはお前の荷が欲しいんだよ」

「……藤田」


 ――失ってはならない。


 ふと、胸に一つの答えが湧き上がった。


 ――コイツを、死なせてはならない。


 即座にそれを掴む。ずっと自分の中にあった柱を見つめ直す。

 ……そうだ。結局の所、やることは変わらないのだ。

 加えて未来から来たという兄が言うのである。ならば尚更、自分にしかそれを成し遂げることはできないのだろう。


 ノートパソコンのモニターに目をやる。先程投げた質問の回答が、兄から届いていた。


「……」


 内容は、やはり芳しくない。

 けれども、それは自分が決めた覚悟を変える理由にはならなかった。


 阿蘇はノートパソコンを閉じた。腰を上げて藤田の隣に行き、ストンと座る。


「じゃ、こっち向け」


 目隠しに手をかけ、解く。藤田はパソコンの明かりが眩しいのか、目をしばたかせていた。半日ぶりに見た彼の顔は、やはり酷く疲れている。


 その時、ふいに阿蘇は友人の顔が彼の甥に重なって見えた。……今まですっぽりと抜け落ちていたが、穴に落ちた兄が助かったということは、彼が後を追いその手を掴んだのだろう。

 あっさりと納得できた。竹田景清という人物なら、兄の為にそれぐらいするだろうと思えた。


 ――どこかの男と同じく、己の存在を人に委ねてしまっている彼なら。


 だが、今はそれを忘れることにする。明日彼に会った時に確認して、危ういと思えば一つお節介を焼いてやるとしよう。


 阿蘇は、痛む左腕を後ろに隠してようやく藤田に言った。


「……一つだけ、お願いがあるんだ」


 ……こいつのことだ。自分のかっこよさのあまり俺がキスしたくなったのかとか、またそんなアホなことを思ってんだろうな。


 だが勿論そんなはずは無く、鋭すぎる目つきの男はまっすぐな眼差しで、兄からのプレゼントを手に取ったのである。

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