第9話 別人論

 風呂から上がったら、着替えが用意されていた。


 ……置かれてるってことは、借りていいんだよな? 自分には少し大きめのジャージをありがたくかぶっていると、凶悪な目つきをした慎司がリビングからやってきてビクリとした。


「だ、大丈夫?」

「……」

「考えはまとまった?」

「概ね」


 そう答えると、彼は服を着たままのそのそと風呂場に入っていった。数秒して、シャワーを浴びる音が聞こえてくる。

 ……え、どういうこと?


「慎司」

「何」

「服脱がないの?」

「……」


 一分ほどして風呂場の戸が開き、びしょ濡れの服が突き出された。


「洗濯機に入れといて」

「……」


 ……この時代の曽根崎さんも結構、生活能力に難があるんだな……。

 慎司の服をタオルで包み洗濯機まで持っていきながら、僕はそう思った。










「考えてると他のことがどうでも良くなるんだよな。一度ずぶ濡れのまま、布団に入ったこともある」

「ヤベェ人じゃん……。風邪引かなかった?」

「流石に気付いて着替えたからセーフ」

「アウトだろ」


 何をもってセーフと断言しているのか、全く不明である。

 だが、その集中分の成果は出たらしい。慎司は大雑把に拭いた髪から雫を散らし、僕の前でバンとノートを開いた。


「タイトル『未来の俺と今の俺が別人かもしれないのはどうしてだろう』」

「僕に優しいタイトルにしてくれてありがとうね」

「で、お前数学得意?」

「苦手」

「そっか。何学部?」

「文学部」

「じゃあ文章を文脈で捉えるのは得意だろ。本来なら数学を使うのが適切に決まってるが、今からお前にそこまで講義してやるのは面倒くさい。よって理屈は全て言葉で理解してもらうことにする」

「分かった。……そう言う慎司は何学部なの?」

「お前と同じだよ」

「へぇー」


 文学部卒とは初耳だったので素直に驚いた。なんせ色々知っている人なので、どんな分野を専門にしているか想像すらつかなかったのである。

 しかし、なんで文学部にいてこんなややこしそうな数式が書けるんだろう。やっぱすごいなぁ、この人。


 しげしげとノートを眺める僕に、慎司は尋ねる。


「……黒い男は、未来や過去すら重なり合った無数の事象の一面を観測者が介入することで現実として確定させていると言ってたな」

「うん。ちょっと自信無いけど」

「故に、今から“観測者”の定義は、“重なった事象に介入し現実を確定させる者”とする。いいな?」

「はい」


 言っていることはややこしいが、“観測者”は現実を生きている僕や慎司などを指すってことでいいのだろうか。

 同意した僕を一瞥した慎司は、顎に手をあてて語り始める。


「……波動関数の収束に観測が必須かどうかは不明とされてきたが、少なくともヒトの現在認識においては無くてはならないものらしい。これは俺の持論になるが、射影仮説なるものは……」

「いやいや待って待って待って」

「ンだよ」

「ごめん、早速難しい。そもそも波動関数の収束って何?」

「おー、そこからか。じゃあエヴェレットの多世界解釈とかも知るはずねぇよな」

「申し訳ないです」

「謝らなくていい。無知を自覚するヤツは愚かじゃない。……それじゃ、最初は諸々の単語の解説から始めてやるとするか」

「お願いします」


 なんだか出だしから足を引っ張っているようで申し訳ない。肩をすぼめつつ、しかし何とか話を理解しようと前のめりになる。

 そして、慎司の講義は再開された。


「ではまず、男の言ってた“面”と“観測点”についての定義から」

「はい」

「頑張ってついてこいよ。えー……“面”とは、“複数の観測者が同時観測して確定させた世界”であり、“観測点”とは、“ある観測者が面を観測して個人の歴史として確定させた世界”のことである」

「うん?」


 おいどうした。またも難しいぞ、慎司。


「重なり合った事象は、観測者が介入することによって現在として収束させられる。だが、面という言葉を使うからには、あらゆる角度からの観測が可能ということだと俺は解釈した。とりあえずここで確認しておきたいのは、空間を同じくする各観測者の認識は完全に一致するかどうかであり……」

「ストップ」

「なんだ」

「僕まだ面と観測点で思考が止まってる」

「おう、考えたまえ。待っててやろう」


 いちいち偉そうなヤツである。とはいえ時間の猶予はもらったので、話を飲み込むべく必死で頭を回転させた。


 えーと……複数の観測者ってのは、慎司とか僕のことだったよね。だからつまり“面”ってのは、僕や慎司が同時に見てるこの世界って解釈でいいのかな。

 で、そうやって考えると、多分“観測点”は僕だけが見てる世界を意味すると思うから……。


 僕は、ノートを開いて自分の前に持ち上げた。ちょうど慎司からは背表紙しか見えない角度である。


「……つまりこういうこと? 僕からはノートが見えるけど、慎司からは見えない。よって僕という観測者の観測点にはノートの情報があるけど、慎司という観測者の観測点には情報が無いってことになる。でも僕らが共有する面という観点においては、僕や慎司が直接見るに関係無くノートに文字は書かれている。……みたいな」

「おおー……お前結構やるじゃん! ちょっとだけ見直したぞ!」

「わっ、びっくりした! いきなり大声出すなよ!」


 いきなり慎司が嬉しそうに肩を叩いてきたので、つい体を引いてしまった。どうやら正解したらしい。


「よしよし、分からなくてもちゃんと考えるヤツは好きだぜ、俺。その通り、俺たち観測者は事象を観測し無数の面の連なりを確定させて観測点とし続けることで、歴史を作っているんだ」

「無数の面の連なり? ……あ、そうか。現実として確定できるのは観測したその瞬間だけなのか。一秒でも過ぎたら過去になるもんね」

「そう。映画のフィルムとかコマ送りみたいなもんかな。一瞬一瞬を無限に繋げて、俺たちはそれを過去とし生きてきた歴史として確定させている」

「でも映画フィルムみたいなもんだとしたら、なんで今の慎司と未来の曽根崎さんが別人になるの? 面が連なりになるなら、連なった先に曽根崎さんがいるんじゃないのか?」

「うん、そこがややこしいんだがな」


 慎司は「無論仮説ではあるが……」と前置きをして続ける。


「――この面というものは、あまりに無数に存在するが故に、ズレが発生する可能性が高いと俺は考えている」

「ズレ?」

「ズレ。たとえばほら、これ」


 何か固いものが投げて寄越される。慌ててキャッチしたそれは、何の変哲も無いルービックキューブだった。


「それを見て答えろよ。第一問、赤の反対は何色?」

「オレンジ……だけど」

「うん、俺の持ってるルービックキューブも同じ色だ」


 ふと見ると、慎司も同じ形、同じ大きさのルービックキューブを持っていた。


「第二問、白の反対は?」

「黄色」

「第三問、青の反対は?」

「緑」

「いずれも俺のと同じだな。――つまりそういうことだよ」

「ああー……」


 なんとなく腑に落ちた。

 つまり、このルービックキューブが“面”ってことか。


 そう言うと、慎司は頷いてくれた。


「そうだ。そしてそれが“観測する面がズレる”ということだと思う。実際は細かな傷や色合いなどが違っているのに、俺たちはそれを認識していないから、同じものを見ていると錯覚する」

「なる、ほど……? あ、いや、でもそれだとおかしいだろ」

「何が?」

「僕ら観測者は同じ面の上に存在してるんじゃないのか? 同じ面に存在しているからこそ、僕らは互いを認識できるんじゃないの?」

「お前は本当にいい所を突くな。量子力学の観点を応用して考えれば、一度確定された面は他の事象からの介入を受けないと捉えるべきだ。ならばそう考えると、観測者は必ずしも面の上にはいるとは限らないのかもな。もしかしたら、もっと別の次元の存在のものとして考えなければならないのかもしれない」

「また訳の分からないことを言い出した」

「うん、これに関しては俺も理解してもらえるとは思ってないよ。まあ、とにかくこの面とやらにはズレが発生する可能性がある。そしてそのズレは、俺たち観測者がコミュニケーションを取り続けることで修正されると考えられるんだ」

「コミュニケーション?」

「そう」


 いきなりハートフルな展開になったものである。

 だけど慎司は大真面目だ。


「そりゃそうだろ。少なくとも、俺とお前が互いに見える位置にいて、互いに情報交換を続けていれば、別人になることは無い」

「……それってつまり、別人になる可能性もあるってこと?」

「ああ。離れている間に面にズレが生じて、そのまま別の面にいた俺とシレッと入れ変わる可能性はゼロじゃないだろ? とはいえ、そうなったとしても最小限のズレの面の俺なら、影響は無いかもしれねぇけど」

「今見てるものしか確実じゃないってことか。……結構怖い話だな」

「気づかなけりゃ変わっていないのと同じだよ。……と、ここまで聞けばお前なら察するかもしれないが……」


 慎司はニヤリと僕に視線をくれる。望まれている回答を察した僕は、一つ頷いた。


「……分かるよ。無限にあるのは、面だけじゃないんだな」

「ご名答」


 パチン、と指が鳴らされた。キザな仕草だが、コイツがやると不思議とサマになっている。

 機嫌を良くした慎司は、大きな手振りで朗々と解説をくれた。


「面だけじゃ無い、“同一人物の観測者”も無数に存在し得るんだ。絶対的に互いに干渉しないから、認識できないというだけで」

「……でも、それって」

「そうだ。同一人物だからといって、全員が全員、同じ歴史を歩むとは限らない」


 ――そうか、そういうことだったのだ。

 やっと、僕にも慎司がしてくれた長い説明のゴールが見え始めた。


 無数の観測者と、無数の面。面が少しずつズレるたびに、観測者が歩む歴史も少しずつ変わっていく。


「……それが、未来の曽根崎さんとお前が別人かもしれない理由なんだな」

「……。パラレルワールドという呼び方をしたら分かりやすいのかもな。もっとも、同一の別観測者が同じ面を観測する可能性を考えれば厳密には違うのだろうが。勿論、何人かの俺は微々たるズレのみで、殆ど同じ歴史を確定させていくのだろう。けれど、多少のズレも揺らぎ続ければ大きなズレになる。……そして、ここにいる俺と、お前の観測してきた曽根崎慎司。この両者にどれほどのズレが生じるのかは、俺には推測することができない」

「……むしろ、慎司が僕に会わない未来自体だって考えられるのか」

「……」


 慎司は黙って首を縦に振る。

 何故だか少しテンションが下がったように見えて、慌てて僕は明るい話題を持ち出してやった。


「でもさ、逆にこうは考えられない? 未来の曽根崎さんはえらいことになってるけど、少なくとも三十一歳まではピンピンしてんだよ。だから慎司がこれからどんなに無茶をしたとしても、五体満足で帰ってこられるよっていう」

「……へぇ。それって元より寿命は決められてるって前提が無きゃいけねぇんだけど、その証拠はあるの?」

「光。始点。終点。これらは神の定めし確定だって、黒い男は言ってたよ」

「……」


 この僕の一言に、慎司はよいしょと立ち上がった。何だ何だと見守る僕を無視し、ヤツはキッチンへ向かう。


 取り出したるは、包丁。

 

 ――彼が何をするか察した僕は、思い切り飛び蹴りをくらわした。


「やめろ!! 試そうとすんな!!」

「未来の俺に右耳はあった?」

「あったけどやめろ! 死は確定してても、その過程は確定してないかもしれねぇだろ!」

「なるほどな」

「もし死ななくても、寝たきりで数十年過ごす事になったらどうするんだよ!?」

「……確かに」

「分かってくれた?」

「おう。頸動脈にしとく」

「だから! 確実に死ねる方法を試そうとするな!!」


 やはりとんでもない男である。こんな無鉄砲でよく今まで生きてこられたな、コイツ。


 ――でも。


 僕は慎司を踏みつけて包丁をしまいながら、嘆息した。


 ――コイツと未来の曽根崎さんは、辿ってきた歴史を共有しない“別人”かもしれないのか。


 それだけは、何故か寂しい思いがする気がした。そんな気持ちをごまかすように、僕は足の下にいる慎司を踵でぐりぐりとしてやったのである。

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