第5話 白い浮浪者

 ひとしきり、僕らは黙って歩いていた。割れたガラスやよく分からないゴミを踏みしめ、壊れた家具を横目に静まり返ったホテル内をひた歩く。

 だが、それもいずれ終わる。四階建てのホテルの最上階、一番奥まった場所に来た曽根崎さんはようやく足を止めた。


「ここだ」


 低い声が、剥き出しのコンクリートに反響する。


「この場所が、異次元に繋がっているらしい」

「……へぇー」


 彼が指差した先にあったのは、白と黒の線が複雑に絡まり合った絵だ。高さは僕の身長ぐらいもあり、横は壁一面に広がっている。

 一見しただけでは、他の場所にも描かれてあったグラフィティアートと何も変わらない。けれど異次元に繋がるというからには、何か秘密があるのだろうか。


「……僕には普通の絵にしか見えないけどね」

「そうか? 俺はちょっと変だと思うぜ」

「え、どこが?」


 いくら曽根崎さんとはいえ、同い年ということで今やすっかりタメ口になった僕である。

 彼は両手をポケットに突っ込んだまま壁に近づくと、鼻先が当たるほど接近して絵の一部分を眺めた。


「――ほら、ここ。この黒い線は、まだ塗料が乾ききっていない。それなのに、始めに描かれたらしい一番下の線は、風化し掠れてしまっている」

「……えーと、それってつまり、すごく時間をかけてこの絵を描いてる、ってこと?」

「そう。しかも白い線と黒い線を一筆ずつ、交互に描いてな」


 ……何の為に?

 まさかこうやって描くことが、曽根崎さんの言う“異次元”へと繋がる為の儀式だったりするのだろうか。

 うーん、ありそうな話ではある。だけどこんなに時間をかける必要なんて……。


 そんなことを考えている内に、曽根崎さんは手のひら大の石を拾い上げていた。そして、「よし」と声を出して絵の前に立つ。


「ちょっと待て」


 ビンビンに悪い予感がし、僕は曽根崎さんの手を取り押さえた。


「何する気だ、アンタ」

「何って……壁を削って絵を消してみようかなと」

「やっぱりかよ! やーめーろーよー!」


 曽根崎さんの腕をブンブンと振って石を落とそうとする。しかしヤツは断固として手放さない。

 お前それ、ホラー映画の冒頭に出てきて真っ先に死ぬヤツがすることだからな!?


「絶対ダメだろ!」

「ダメも何も、俺はそれを検証しに来たんだが」

「何か起こったらどうすんだよ!」

「ワクワクするな」

「んんんんんんん!」


 石を取り上げようとするが、それができるくらいなら最初から水晶なんて奪われていない。五分後、僕は曽根崎さんの前で膝に両手をついて息を切らしていた。


「……曽根崎のアホウ!」

「アホウはお前だ。俺の邪魔ばかりしやがって」

「お前だってさっき四つ足のオバケ見たばかりだろ!? これも絶対その類のヤツだって!」

「お前はいやに確信的に物事を言うんだな。経験則なのか、己の妄想に絶対の自信を持っているのか。……まあどっちでもいいんだけど」


 曽根崎さんは冷たく僕を一瞥し、壁に石を押し付けた。


「……俺は、全部自分の目で見ないと我慢ならねぇんだよ」


 だが、石が壁の絵を抉ろうとするその刹那。

 曽根崎さんは何かに気づき、ガバッと振り返った。


「うぇ、ちょっ!?」


 抵抗する暇もなく曽根崎さんに腕を引っ張られ、埃まみれのソファーの陰に押し込まれる。何か言おうとする前に、すぐ曽根崎さんも僕の隣にしゃがみこんできた。


「な、何す……!?」

「静かに。……誰か来たようだ」


 唇に人差し指を当て、曽根崎さんは息を潜める。つられて、僕も縮こまった。

 曽根崎さんの言う通り、一分も経たない内に何者かの足音が近づいてくる。……足音というには、なんだかズルズルとしたものだったが。


「……なんで分かったんだアンタ」

「普通に肉眼で見えた」

「そうですか……」


 何か特別に推理をしたとか、そういうのでは無いらしい。


 そして僕らが見守る中、その侵入者は姿を現した。


 見た目は、ただの浮浪者だった。

 薄汚れた白いだぼだぼの服に身を包み、ズボンを引きずって歩いている。長い白髪とうつむいた猫背のせいで、どんな顔つきかは判然としない。


 白い浮浪者は壁の前まで来ると、ぐるりと絵を見回した。何かを吟味するようにその場に留まった後、奥の方に歩を進める。

 そして腕を持ち上げ、白いペンキのようなもので直線を描き始めた。


 ……曽根崎さんのことだから、どうせ話しかけに行こうとするのだろうな。そう思って隣に座る彼の顔を覗き込んで、驚いた。


「――何アレ」


 あの曽根崎さんが、目を見開き頬を引きつらせていたのである。


 それでも、「確かめねぇと」と呟き、立ち上がろうとする。慌てて服を掴んで引き止め、小声で問い詰めた。


「どうしたの。何かあった?」

「お前……あれに気づいてねぇのか」

「何って?」

「よく見ろ。アイツ……何かおかしい」


 曽根崎さんの真っ黒な目が、白い浮浪者に向けられる。そこでやっと、僕はその異常に気がついた。


「……腕、が……」


 ――腕、では無かった。少なくとも、人間のものでは。


 僕が人の腕だと思っていたのは、白いボロ布の下でロボットの関節のように何度も折れ曲がっているものだった。

 その上、腕の根元は肩からではなく、心臓の位置から伸びてきている。


 浮浪者がギミックを仕込んでいるのか? 何の為に?

 あるいは、この浮浪者自体も現代アートの一部だとか……。


 しかしその腕を機械と呼ぶには、あまりにも滑らかで生物的な動きだった。まるでそれ自体が絵筆であるかのように、全く塗料を途切れさせることなく優雅な白い線を描いている。

 高く、高く、自分の身の丈よりも長い腕を伸ばして。


 ――人、なのか?

 あれは、本当に僕らと同じ人間なのだろうか。


「……ダメだ。行くな、曽根崎さん」


 白い浮浪者から目を離さず、僕は彼の服を握る手に力を込めた。

 僕の全身が警告を発している。行くな、触れるな、見られるな、と。

 その本能的な直感に、僕は従うべきだと判断した。


「やりすごそう。お願いだから」

「……」

「僕は、アレに気づかれたくない」

「……」


 わかった、と小さく聞こえたその声に、安堵した。


 数分後、白い浮浪者は服の中に関節だらけの長い腕をしまい、元来た道を引き返し始めた。だぼだぼの服の裾を床に擦らせ、芋虫が這うように。


 そのみすぼらしい姿が見えなくなった頃、曽根崎さんは静かな声で僕に言った。


「……これでいいか」

「うん、ありがとう」

「後を追うのは……」

「追ってどうするんだよ。連絡先でも聞くの?」

「……分かった。じゃあ、アイツが描いた線を見に行く」

「ねぇもう帰らない?」


 だが、若い曽根崎さんの好奇心は止まらない。スッと立ち上がると、いそいそと浮浪者のいた場所へ向かった。


「……何を原料とした塗料なんだろうなぁ。景清、こういうの詳しいか?」

「曽根崎さんが知らなくて僕が詳しいわけないだろ」

「慎司でいい」

「え?」

「呼び方だよ。曽根崎さんとか長くてダルいだろ」

「えー……」

「何、不満?」

「いや、今まで人を名前で呼んだことあんま無くて」

「嘘だろ、どういう人生送ってきたんだ。まぁ呼ばれ方ぐらい何でもいいけど」


 そう言って、曽根崎さん――慎司は、落ちていた棒で白い塗料をすくった。そしてそれをじっくり眺めようとして、首を傾げる。


「……消えた」

「え、マジで。塗料が?」

「そう。壁に付着した時だけ塗料になるらしいな」

「いよいよもって訳が分からないな……」

「……」

「何?」

「よいしょっ」

「ギャーッ!」


 無造作にこちらに投げられた棒に、叫び飛び退いた。

 何すんだコイツ!


「ふざけんなよ!」

「お前もほんと謎だな。肝が座ってんのかビビりなのか」

「そんな得体の知れねぇもん投げつけられたらビビるに決まってんだろ! 僕は普通の人間だぞ!」

「普通の人間がパラシュートつけて廃墟に倒れてるかよ。ちょうどいい、今からその辺を説明してくれないか」

「お前ほんとマイペースが過ぎるぞ! 大体、もう日も暮れそうなのにそんな時間なんて……!」

「どっこい、あるんだな、これが」


 慎司はさっきまで僕らが座っていた場所に戻り、僕を手招きした。訝しげな顔をする僕に、ヤツは言う。


「何してんだ、早くこっちに来いよ。今から俺達は結構な時間、暇つぶしをしなきゃならないんだから」

「ど、どういうこと?」

「あの壁の絵。……ほら、白と黒の線が交互に重なってるだろ?」

「うん」

「で、さっき見たヤツはどういうヤツだった?」

「……白い塗料を使ってたね」

「そう。つまり、だ」


 慎司の長い人差し指が、揺れる。


「もう一人、黒い塗料を使うヤツが現れなきゃ筋が通らない。そうだろ?」


 ――え、待つ気?

 そして見る気?


「当然だろ。俺が何をしにここに来たと思ってるんだ」


 その真っ黒な瞳は、好奇心で爛々としていた。


「……ええー、帰ろうよ」

「帰りたいなら一人で帰ればいい」

「水晶返せよ……」

「嫌だ。俺のものだ」

「警察ぅー……」

「お、自首するか?」

「だからストーカーじゃねぇんだよ僕は!」


 動こうとしない男を前に、僕はとっとと諦めることにした。

 できるだけ綺麗な瓦礫の上を選んで座る。それから、隣にある温度感の無い表情に顔を向けた。


「……あんまり、身の上話をするのは得意じゃないんだけどな」

「俺も興味を持ったことはなかったよ」

「僕の話はいいのか」

「ゴーグルとパラシュート。高所から落下することを想定した格好をしていた見知らぬ男が、俺の名前を知っていた。しかもソイツは、バケモノが出てくる謎の水晶を持っているときたもんだ」


 興味に満ちて弾んだ声が、僕に向けられる。


「――気にならないわけないだろ、こんな面白そうな話」


 ……呆れた理由だが、この分だと退屈にさせる心配は無さそうである。

 しかし果たして、何から話したものやら。


 そうして僕は、慎司に長い長い事の顛末を語り始めたのである。

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