第38話 握りしめたアンクレットに

 呪文の効果が切れて自由になった僕は、暴れ、喚き、穴に飛び込もうとしたように思う。いや、動こうにも全身の力が抜けてしまって、その場にへたり込んだだけだったかもしれない。


 よく、覚えていない。


 次に目が覚めた時、僕は曽根崎さんの事務所のソファーの上で寝転がっていた。


「……」


 起き上がり、スマートフォンを探す。

 ……そういえば、あれは深馬を撮影する為に神菅大学の講義室に置いてきたんだった。マズったな。現代日本、スマホが無いと結構困るのに。

 外は薄暗い。時計を見ると、短針は六の数字を指していた。

 どれぐらい眠っていたのだろう。


 ……朝ごはん、何にしようかな。

 確か、冷凍したご飯があったような。あれをチンして味噌汁作って……それでいいか。ご飯と味噌汁出しときゃあの人満足するんだから、楽でいいよな。


 ソファーから足を下ろし、下に置いてあった靴を履く。キッチンに向かいながら、不眠症の雇用主に声をかけた。


「曽根崎さん、おはようございます。どうせもう起きてるんでしょう? ドタバタしてロクに材料も買ってませんし、朝ごはんはいつものメニューでいいですよね?」


 返事は無い。

 もう一度声をかけてみたが、返ってくる声は無かった。


 ……寝てるのかな? キッチンから頭だけ出して、彼の定位置である事務机を見る。


 そこには、誰もいなかった。


 少し、出かけているのだろうか。

 もしくはトイレとか。

 だって、それ以外に曽根崎さんがいない理由なんて……。


 そう断定しかけた脳が、ズキリと痛んだ。


 ――曽根崎さん、が、いない理由、なんて。


 洪水のように記憶が蘇る。

 逆さまの笑顔と、落ちる体。動かない体に落ちる雨と、背中から回された細い腕。


 ――ああ、ああ。

 ――いなくて、当然だ。 


 ドクン、ドクンと跳ねる心臓を、上から押さえつける。

 それでも、気持ち悪いぐらいに嫌な音が、僕の鼓膜を突いていた。


 ――いるはずが無いのだ。

 あの時彼は、僕を助ける為に深馬と共に穴に落ちたのだから。


「あ……あ、あ」


 後ずさる。後ずさった所で、僕を支える壁は無い。

 僕は、何にもすがれない。


 誰もいない事務所。二度と彼が戻らない場所。そこに存在している生き物は、どうしようもないほど役立たずだった僕だけで。


 ――救えなかった。

 僕は、運命を変えられなかったのだ。


「うあ、あああ、あっ……!!」


 突きつけられた現実に立っていることもままならず、僕はその場に崩れ落ちた。


 嗚咽が漏れる。だというのに、涙が出てこない。

 けれど僕は泣いていた。乾いた目のまま、慟哭していた。

 体が震える。空っぽの胃はひっくり返り、床に胃液をぶちまける。脳はごちゃ混ぜに掻き回されて、息などできるはずもない。


 いやだ、いやだ、いやだ、いやだ。

 理解できない。したくない。無理だ。


 なんで、なんであの人だったんだ。他の人だって良かったじゃないか。なんであの人なんだ。あの人が落ちるぐらいなら僕が穴に落ちたのに。なんで。どうして。


「――ッ!」


 頭が痛む。心臓が痛む。胃が痛む。僕の体に収められた、その全てが痛かった。


 いつだったか、曽根崎さんと過ごすことになった病室で言われた言葉を覚えている。

 僕の居場所は、この事務所だと。僕がアルバイト募集の張り紙を見て、曽根崎さんの元を訪ねたあの日からずっと、そうなのだと。


「……違、うんだよ……!!」


 拳を床に叩きつけた。

 あの言葉は、違っていた。何もかも、あの人は分かっていなかった。


 “場所”ではないのだ。

 僕が居場所と思える所にしれっと立っていたのは、いつも、いつも――!


「……曽根崎さんっ……!!」


 ――よりにもよって、他の誰でもないアンタだったんだよ。


「……あああああ、ああ」


 言葉が続かない。何も出てこない。胸に渦巻く感情の名前を、僕には見つけることができない。

 ただ、そのやり場のない激情を抱きしめるように、呻きながらうずくまっていた。


 ――どれぐらい、そうしていただろうか。


 事務所のドアをノックする音に、僕は現実に引き戻された。


「……」


 涙の出ない、ぐしゃぐしゃの顔を持ち上げる。

 ……依頼人だろうか。あるいは……。


「……開いてますよ」


 けれど、誰でも良かった。それこそ泥棒だろうが、僕を殺しに来た人だろうが。……彼を救えなかった今の自分にとって、それほどまでに命は軽かったのだ。

 だが、ドアは開かない。そういや鍵をかけっぱなしだったかもな、と僕はよろよろと立ち上がる。


 ノブを回すと、ドアはあっさりと開いた。


「あれ?」


 誰もいない。

 おかしいなと思い、階段を覗き込もうと一歩踏み出す。すると、靴の下で何かがガサリと音を立てた。


「……袋?」


 それは、ビニール袋で雑に梱包された塊だった。持ち上げてみても、片手で平気で支えられるぐらいの重さしか無い。

 何が入っているのだろう。

 僕は、何の考えも無しにその場で袋を破った。


「……え」


 中に詰め込まれていたのは、血と泥にまみれたスーツだった。


 僕の体が、一気に冷たくなる。


「え? え? え?」


 動揺と勢いで袋をひっくり返す。どろどろの靴と、ベストと、シャツが次々に床に落ちる。


 そして最後に、夜を内包したかのような黒い宝石が嵌め込まれたアクセサリーが、チャリンと音を立てて――。


 歯を食いしばる。こぼれそうになった悲鳴を飲み込んだ。

 ――間違いない。これは、これらのものは……!


「だ、だ、だ、誰が」


 ――誰が、こんなものを。


 恐怖とも怒りともつかない感情に、汚れたアンクレットを握りしめる。


 ――誰だ。誰が曽根崎さんが死んだ時の服をよこしやがった。こんな回りくどいことをされなくたって、彼が死んでしまったことぐらい僕にだって分かっている。

 今から外に飛び出せば犯人に追いつけるだろうか。誰であろうと一発ブン殴らないと僕の気が済まない。済ませてはならない。


 物騒な考えと共に駆け出しそうになる。だが、足元に散らばった服に奇妙な違和感を覚え、動きを止めた。


「……」


 なんだろう。どこかおかしい気がする。

 ……足りない?

 ああそうだ、この一式には何かが不足しているんだ。


 一つ一つ物を持ち上げ、確認する。ほどなくして、僕はある答えにたどり着いた。


「……ネクタイ」


 そう、ネクタイが欠けているのだ。

 僕があの朝、わざわざ曽根崎さんに締めてやったグレーのネクタイだけが、ここから消えてしまっている。


 だからといって、それが何を意味するというのだろう。

 いや、それを言うなら、そもそもどうしてこれらが事務所に寄こされたのかも謎なのだが……。


『……汚したとしても、手放さないようにするさ』


 ふと、ネクタイをあげた時の曽根崎さんの言葉を思い出した。

 “手放さないようにする”。

 その一言が、僕の胸の内にわんわんと反響した。


 ――もしかして。


 思いついた一つ仮説に、僕は縋りつく。

 ただの希望的観測かもしれない。だけど、ほんの僅かな可能性であっても、僕の中の何かに火が灯るのには十分だった。


 ――もしかして、もしかして、もしかして。


 考えれば考えるほどに、僕の内側から奇妙な熱が広がっていく。それは高揚感にも近く、僕の心臓の奥の血を滾らせていった。


 背筋の伸びた立ち姿。まともに切ってるのか分からないもじゃもじゃ頭。濃いクマを引いた目。尊大な態度から出てくる言葉は、嘘か本当か分からないものばかりで。

 そんなあの人が。

 僕を助けて消えていった、曽根崎さんが。


「――生きて、る?」


 手放さないと約束したネクタイが、ここに無いのなら。

 まだ、あの人が持っているのだとしたら。

 これが、あの人なりのメッセージなのだとしたら――!


「曽根崎さん!!」


 窓に走り寄り、開け放って名を叫んだ。けれど、早朝の路地に人の気配は一つも無い。


 荒い息が、冷たい空に混ざる。真っ黒だった胸の内が、新しい空気に入れ替わっていく。

 ――会えるかもしれない。また、あの人に。

 そう思うと、いてもたってもいられなかった。


「……!」


 だが、冷静にならなければならない。窓の縁に両手をつき、深く息を吸って、脳に酸素を巡らせる。


 曽根崎さんは、深馬を伴って穴に落ちた。それは間違いない。加えて、死体だって三日前に上がっているのだ。


「……」


 死体の確認をすれば、曽根崎さんの生死ははっきりするだろう。だけどそれはできない。あの時阿蘇さんから受けた忠告が、未だ僕の中にしっかりと残っているからだ。


『もし、兄さんが穴に落ちることになってしまったとしても――君は絶対に、その死体を見てはいけない』


 その言葉の意味も、まだ分からない。

 途切れ途切れの情報が何一つまとまらないまま、強い焦燥感だけが僕を襲う。


 ……僕は、何かやらなければならない事があるのではないか。

 あの意味深な袋が届けられたということは、僕はそれに気づかなければならないのではないか。


 ――考えろ。

 考えろ、僕。

 今ここに、曽根崎さんはいない。

 僕一人で、考えるしかない。

 僕一人で、正解を導き出すしかないのだ。



 あの人と、また言葉を交わしたいのなら。



 顔を上げて、前を睨む。

 少しずつ明るくなる空に、僕は主を失ったアンクレットを握りしめていた。




 第4章 完

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