第12話 生きてください
そんなわけで、僕は今曽根崎さんのマンションに来ている。
「え? 何言ってるんですか絶対帰りませんよ僕は。今日みたいに僕が目を離している隙に、曽根崎さんに何かあったらどうするんです。……着替え? 一度タクシーでうちに寄ってください。……大学? 明日休めば連休に入るので三日ぐらいどうってことありません」
「うん、よし、諦めた。どこまでもついてこい、景清君」
諦めと切り替えが早いのは、この人の美点であると思う。
スーツの上着を脱いだ曽根崎さんは、ソファーにゴロリと寝転んでレポートを読み返していた。僕はというと、風呂から上がったばかりの頭を拭きながら彼の隣に腰を下ろす。
「何か新しいことは分かりましたか」
「分からんなー。何度読んだところで内容は一向に変わらんなー」
「マズイじゃないですか」
「マズイなー。このままじゃ死ぬなー」
「ちょっと死ぬ前にお金を下ろして僕に渡してくれませんか。タンス預金に留めておけば、お金の出先がバレないから、贈与税を払わなくて済むかもしれません」
「オーケー、遺言状に君に渡した金額と名前を書き残しておく。追徴に怯える日々を過ごせ」
レポートで軽く頭をはたかれる。痛くはなかったが、仕返しにタオルでもじゃもじゃ頭をもみくちゃにしてやった。
ふいに、仰向けの曽根崎さんと目が合う。濃いクマを引いた真っ黒な目が、いつも通りの不健康さで僕を見ていた。
「……あと三日ですか」
「うん」
僕の問いに、事も無げに曽根崎さんは頷く。そんな彼の態度に、僕の心臓はギュッと握り潰される。
レポートを彼の手からむしり取った。そして彼の瞳から目を離さず、言う。
「ねぇ曽根崎さん。もうミートイーターとかいいじゃないですか。本当に国外逃亡してしまいましょうよ」
「おや、君は本気でそれを言っているのか」
「まぁまぁ本気ですよ。死んだら元も子もありませんから」
「……興味深い話だよな。君は確定した未来を変える為に、今という過去を変えようとしているのか」
曽根崎さんは物知り顔で頭を傾けている。何かはぐらかされているように感じた僕は、少しムッとした。
「真面目だと言っているでしょう。とにかく穴から逃げてしまえば、そこに落ちて死ぬこともありません」
「……君は、親殺しのパラドックスという言葉を聞いたことはあるか?」
「はい?」
僕を見上げたままで曽根崎さんは尋ねる。その言葉が何を定義するものか分からなかった僕は、首を横に振った。
「子供が過去に遡り、自分を産む前の親を殺そうと考える。しかし親を殺した瞬間、子供は産まれてこなくなるから、過去に遡ったその者の存在も無かったことになる。ところがそうなると殺してくる者がいない親は生き残り、結果子供は生まれてきて、また過去に遡り親を殺そうとする……。ま、タイムトラベルを語るに辺り外せない矛盾論だな」
「それがどうしたんですか」
「今の君は私に起こりうる未来を知り、それを変えようとしている。擬似的にタイムトラベルを体験していると言ってもいい。だが、果たしてその行為は本当に正しいのだろうか」
曽根崎さんは、何かの憂いに眉を曇らせていた。
「過去の積み重ねが未来を決定するのか、あるいは決定された未来によって過去が選択されるのか。例えば私の形をした死体が出るのは確定の未来だとして、しかしある方法を用い何としても私が死ななかったとしよう。するとあの死体はどうなる? 前者の説を採用するなら、忠助の言う通り死体は消えて無くなるかもしれない。だが後者の説が正しかったら? この矛盾を解決する為、実は私の姿をした別の誰かが死んでいただけだったという歴史が出来上がるかもしれない」
論を並べ立てる曽根崎さんが本当は何を言いたいのか、少しずつ僕にも分かってきた。しかし返すべき言葉が見つからず、恐怖に引きつった笑みを浮かべる曽根崎さんの肩に黙って手を置く。
彼の声は、震えていた。
「もしかすると、あれは君だったのではないか。そんな予感が私を縛ってやまないんだよ。何らかの手段で私の姿を借りた君が穴に落ち、今日死体となったのでは、と。……勿論、そんな可能性など無いに等しいのだろう。だが、それでもゼロにはならない」
大きな手で腕を掴まれる。痛いくらいに、その力は強かった。
「――ゼロじゃないんだよ」
彼の目に余裕は無く、まるで僕にしがみつくようだった。だけど、きっと僕も同じ目をしているのだろう。
――僕だって、アンタがいなくなる未来なんざ。
鮮明に浮かんだ暗いイメージを打ち消すよう、ブンブンと頭を振る。それから「痛ぇ」と呟き腕を掴む手を払うと、顔を引き締めた。
「歴史の矛盾を解決するというなら、いいことを思いついたんですが」
「……聞かせてくれるか」
「曽根崎さんに知り合いに凄腕の形成外科医はいませんか? その人に頼んで、適当な死体を曽根崎さんそっくりに仕上げてもらうんです」
「なるほど。それを私の代わりとして、三日後穴に落とすのか」
「ええ。これならタイムパラドックスは解決するでしょう?」
「しかし死後経過日数に矛盾が生まれる」
「あ、そうか」
「あと、法という法に触れる」
「僕としたことが盲点でした。じゃあ黒い男を捕まえてきましょう。多分姿ぐらい変えられるでしょうから、なんとか騙して曽根崎さんに変身させるんです。で、そこを突き落とす」
「あー、案としては悪くないな。でも不可能だ」
「なぜ」
「そういう約束をしている。穴を塞ぐまでソイツに触ることはできないんだ」
「なんだよその約束! こちとら命かかってんだ、もう破れ!」
「滅茶苦茶言うー」
つーかアンタも考えろよ! 頭使うのはそっちの仕事だ! 僕ただのお手伝いさんだぞ!
ぐだぐだ否定ばかりするオッサンにじれったくなった僕は、彼の上体を掴んで無理矢理引き起こした。そして真正面に置き、まっすぐ見つめる。
もう面倒くさい。真っ向勝負で言ってやろうではないか。
「曽根崎さん」
「なんだ」
「生きてください」
珍しく素直な僕の懇願に、曽根崎さんは驚き目を丸くした。
構うものか。言ってやるぞ僕は。
「何がなんでも生きてください。『もう絶対死なねぇぞ!』って僕に言ってください。実際生きてください。内臓破裂しようが首が取れようが、とりあえず息だけはしていてください」
「その状態で生きてたら多分それ人間じゃないぞ」
「今そういう話をしてるんじゃありません。アンタに生きろって言ってるんです」
「はい」
勢いに圧される曽根崎さんの左足首に、僕は目を落とす。そこには、黒い石がはめこまれたアンクレットが真上のライトに照らされ鈍く光っていた。
「……これ、お守りなんですよね?」
「そうだよ」
彼のアンクレットに触れた後、左膝を立てて僕も同じ石がついたアクセサリーを見せる。普段はジーンズで隠しているが、今はジャージなのでちょっとした動きですぐ露わになるのだ。
「僕もまだ捨ててませんよ」
「その言い方やめろ」
効果はあるのだろうか。だけど、色々大変な目に遭っても今の所生還しているから、意外と効いているのかもしれない。
慣れというのは不思議なもので、最初は違和感があったものの、今ではつけていないとすっかり落ち着かなくなってしまった。
あの時よりは流石に多少の傷が入った彼のアクセサリーに、僕は小声で話しかける。
「お前、ちゃんとお守りの役目を果たすんだぞ。曽根崎さんの命がかかってるんだから」
「アンクレットが受けていい重圧じゃないな。しかしオニキスの産地はインドがメインだ。日本語じゃ通じんかもしれん」
「ここは日本です。生まれがどこだろうと、そろそろ習得してもらわないと困ります」
「きっびしい……」
軽口のやり取りの後、また僕は真面目な顔に戻る。
「……曽根崎さん。僕は、あなたを助けられるなら何だってやってみせます。神頼みでもアンクレット頼みでも、縋れるなら何にでも縋りましょう。ありとあらゆる手段を使っても、僕はあなたを――金ヅルを失いたくない」
「最後の最後で台無しだよ」
「まだ僕は、あなたのそばでお金を稼ぎたい。借金こそありますが、僕のペースで返していいなんて総合的に見てもやはり曽根崎金融は割がいい。こんなところ、他にあるとは思えません」
「覚えのない副業が増えた」
「……だから」
自分のアンクレットを掴む。怪我をしている手の平が、また痛んだ。
「――曽根崎さん。僕に、あなたを救わせてくれませんか」
目つきの悪い目が、僕の前でパチパチとまばたきする。
しばしの沈黙。しかし次の瞬間、両頬を摘まれ引っ張られた。
「ほひゃー!?」
「うちのお手伝いさんにしてはやけに素直だな。本当に本物か? 私の知らない間に入れ替わってないか?」
「やめおーっ!! ふっほおふおほへはひーっ!!」
「お、今ぶっ殺すぞって言ったな? よし、本物だ」
「バカヤロウ!!」
「がふっ!!」
本気めのボディーブローが雇用主に炸裂する。
チクショウ、たまにシリアス挟むとコレだよ!!
「アレですか、やっぱ一回ぐらい死んどいた方がいいタイプの人ですかねアンタ」
「死に対してそんなお手軽な人間、この世にいないからな?」
「まぁいいや。それぐらいの気持ちで挑めば、うっかり曽根崎さん死んだ時も『アチャー』ぐらいで終わりそうだし」
「軽い軽い軽過ぎる」
ふざけたオッサンに気が抜けた僕は、一つ大欠伸をする。時計を見ると、もう深夜一時を回っていた。
「……とりあえず今晩できることは無さそうですし、そろそろ休みませんか」
「私はまだ寝られないから、まだもう少しアレコレ調べるよ。君は先に寝なさい」
「そんじゃベッド借ります」
「はいはい、おやすみ」
寝室に行く前に、一度振り返る。曽根崎さんは別段眠そうな様子も無く、また寝転がってレポートを読み始めた。
あの人は、今晩もソファーで仮眠を取るのだろうか。体とか痛くならないのかな。
とはいえ、寝心地のいいベッドを譲る気も無い。この人に対してだけはだいぶ図々しくなってしまった僕は、もう一つ欠伸をして、寝室に引っ込んだ。
直前のアホな応酬のせいか、悪夢は見なかった気がする。
午前三時。曽根崎はソファーから身を起こすと、目頭を押さえて長く息を吐いた。
少し迷ったが、膝に力を入れて立ち上がる。そして、寝室に続く戸を開けた。
中では、セミダブルのベッドの上で見慣れた若者が苦しそうに呻いている。曽根崎は彼のそばに寄ると、ベッドに座り何か囁いた。途端に景清の顔は穏やかになり、静かに寝息を立て始める。
曽根崎は、そんな彼の髪を慈しむように撫でた。
「……君の決意を、はぐらかしてすまんな」
だが、その手は鬱陶しそうに払いのけられた。
コイツマジか。
――こんな時でも、彼は彼らしい。曽根崎は半ば感心してしまった。
……ああ、しかし、やはり。
「……私は、君を失うのが怖いんだな」
払いのけられた手を、もう片方の手で握りしめる。己の利己心を自覚する男は、そのままうつむいた。
「……すまない」
景清は何も答えない。寝ているのだ、当然である。
――誰にも届かない謝罪は、真っ暗な部屋に閉じ込められ、消えていった。
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