第9話 夜への誘い
「じゃ、ボク達は帰るわね」
「明日もよろしくお願いします、曽根崎さん、景子さん」
「ねぇ光坂さん、その呼び名、わざとやってるんじゃないんですよね?」
阿蘇さんがやってきてしばらく経った頃、空気を読んだ柊ちゃんが光坂さんを連れて帰ってくれた。
ここから先の話は、内容がストーカー事件から連続失踪事件に切り替わる。あまり光坂さんを関わらせるべきではない。
阿蘇さんは資料をテーブルに乱暴に広げると、曽根崎さんに言った。
「追加資料だ。昨日の夜、また一件発生した」
「馬鹿な。早すぎる」
「その前は一週間前だったな。更にその前は一ヶ月前、一ヶ月半前……」
「……間隔が狭まっているな。過激化している? 今回の失踪人数は何人だ」
「一人。二回目の事件では二人消えたから、これで合計六人になる。……早急に手を打ちたいんだが、兄さん、犯人の目星はまだついてないのか?」
「一人いる。だが、極めて線が薄い」
「それでもいい。難癖つけて取っ捕まえようぜ」
「手段そのものも分かっていないんだ。今の状態で捕らえると、容疑を逃れる為に事件を起こす可能性もある」
「クソッ……何とか食い止められりゃいいんだが」
テーブルを挟んで額を突き合わせる異母兄弟は真剣で、僕の入れた飲み物に手をつけることさえしない。
曽根崎さんは、睨むように阿蘇さんを見た。
「……私を現場につれていけ。昨日事件が起こったというなら、まだ状態も保たれてるだろ」
「そうだな。ちょっと連絡取ってみるわ」
阿蘇さんは、スマートフォンを片手にソファーを離れる。僕は今度こそその隙を逃さぬよう、水晶のことを伝える為に曽根崎さんの元へ行った。
「曽根崎さん、あの……」
「ああ!? また例の失踪事件が!?」
しかし、僕の言葉は阿蘇さんの怒号に遮られた。曽根崎さんは青ざめ、彼の方を向く。
「昨日事件が起こったばかりなんだぞ! ……は? 失踪じゃない……? 分かった、詳細は現場で聞く。例の男も連れて行くが、いいか? ……おう、すぐ出発する」
荒い声のまま電話を切った阿蘇さんは、曽根崎さんに向き直った。
「兄さん、ついさっき新たな事件現場が発見されたらしい。場所はここから車で二十分。行くぞ」
「分かった。すまん景清君、話は帰ってきてからで頼む」
「いや、僕も一緒に……!」
「その格好でか?」
言われて、僕は今の自分の姿を思い出す。
……脱げば済む話だ。大したことじゃない。
そう思ってワンピースを脱ごうとする僕だったが、服を噛んでしまっているのか背中のファスナーが全く下りなかった。
悪戦苦闘している内に、曽根崎さんは資料をまとめて出掛ける準備を完了させる。
「二時間ぐらいで戻ってくる。留守番を頼んだぞ」
「でも」
「景子君、今日の晩飯は冷やし中華がいい」
「……」
都合の良い女性設定の復活にシラケる僕だったが、阿蘇さんも軽い敬礼を見せてきた。
「景子、俺の分もよろしく」
「阿蘇さんまで何を!? チクショウ、僕は男だぞ!」
「あ、あと味噌汁もつけろよ。一応ご飯も炊いてだな」
「聞けよ!」
悪ノリの過ぎる兄弟は、からかわれた怒りで脳が沸騰しそうな女装男に追い出される形で、事件現場へと向かっていったのであった。
炊き上がっていくご飯の匂いが立ちこめる事務所内で、僕は結局脱げなかったワンピースの裾を摘んで舌打ちをした。
スパッツの長いやつ……レギンスといったかな? それを穿いているので素足を晒しているわけではないが、やはり慣れないものは慣れない。明るいライトが照らすスカートは、勿体ないくらいかわいらしいというのに。
帰ってきた二人をこの格好で迎えるのか……地獄だな……。
かといってウィッグを脱いだらそれはそれで地獄が増すし……。
一通り晩御飯の準備を済ませた僕は、特に何をするではなくソファーに沈み込んでいた。
「……言えなかったな」
闇に浮かぶ天井を見ながら、ポツリと呟く。
もっと強引にでも、彼に水晶のことを伝えていれば良かったのだろうか。
胸の内がぐちゃぐちゃとしていた。――あの日から、こうして夜一人になるとどうしようもない不安に襲われる。
背中を丸めて、ソファーの上にうずくまった。
――今の僕には、帰る場所も、頼る親もいない。
元々無かったのだろうけど、確かにあの日が来るまでは、僕の中に僅かにあったものだ。
後悔は無い。だけど、それでこの正体不明の不安が消えるわけでもない。
僕は、あの日に死ぬはずだった。
生き残った僕が今過ごしている時間は、果たして死ぬよりも価値あるものなのだろうか。
「――それを決めるのは、景清君ご自身なのではありませんか?」
突如として、低い男の声が僕の思考に割り込んできた。聞き覚えのある声に、僕はガバリと跳ね起きる。
閉まったドアの前に、黒い服の男が立っていた。
「お前……!」
「やあ、まずは落ち着いてください。今日の私は、貴方と喧嘩をしに来たのではありませんので」
「信じられるかよ! 今すぐここから出て行け!」
「やれやれ、随分と嫌われたものですね」
闇の中で、男は長い腕を広げて首を振った。
それでも、帽子の下は真っ暗で、目を見ることはできない。
――待てよ。
ふいに気づいたある事実に、僕はゾクリとする。
――僕は、いつの間に部屋の電気を消したんだ?
しかし、ヤツにこの怯みを悟られたくはない。夜と同化したような男に、僕は敢えて声を張った。
「出て行けっつってるだろ!」
「私のことは、カウンセラーとでも思ってください。景清君の心を解きほぐし、真実へと導くための」
「は……?」
「今の貴方は、己の価値をどこに置いているかご自覚が無い。そうではありませんか?」
僕の激昂を無視して、男は話を進めていく。
……聞いてはならない。聞けば、ヤツの思うツボだ。
分かっているのに、僕の唇は震え、次の言葉を発することができないでいた。
「……可哀想に。貴方の人生の目的は親から必要とされることであったというのに、あの日貴方はそれを根こそぎ奪われてしまった」
「……」
「奪った男の名は、曽根崎慎司。……だからこそ、景清君は代替となるものを彼に求めているのです」
――必要とされる理由を。
――自らの生きる意味を。
男の指摘に、僕は息を飲んだ。
「そんな……ことは」
「無いと言い切れますか? 本当に? ならば何故、貴方は滅びへと進む曽根崎を引き止めようとするのです。放っとけばいいじゃあないですか。彼が死ねば、貴方に課された莫大な借金もチャラになるのです」
「……」
男は、音も無く僕の前までやってきていた。顔を覗き込まれるが、そちらを向くことができない。見てしまえば深淵に引きずり込まれ、二度とここに戻れない気がした。
「よもや」
低い声が、僕の耳元で囁かれる。
「――貴方はまだ、自分が曽根崎の正気の錨であると思い込んではいませんよね?」
ヒュッ、ヒュッ、と短く風が吹く音がする。それが自らの呼吸音と気づくまで、しばらくかかった。
男は僕から離れ、嘲笑いながら踊る。
「ああ、見ていられない。なんて痛ましい。血で繋がった親を切り捨てた青年は、その代わりを精神異常者に求めてしまっている。精神異常者は真っ当な愛など持ち得ないからこそ、異常者たり得るというのに」
「なんで……」
「何故貴方が錨ではないと分かったか、ですか? 少し頭を働かせれば幼子でも察するでしょう。曽根崎は、“ 異常者である自分が、一人の人間の前では正常なフリができるよう狂気の外に錨を下ろした ” のです。であれば、その錨役に己が狂気を見せてしまえば、彼の不文律は打ち壊れてしまう」
男は馬鹿げた踊りをやめた。
ヤツから出てくるその先の言葉を聞きたくないのに、震える手では耳を塞ぐことすらできない。
「……つまり景清君、貴方はもう用済みなのですよ」
「……ッ!」
「貴方は聡い人だ。本当はこの真実にも気がついていたのでしょう? だからこそ、今の貴方はとても滑稽に踊っている。全てに見ないフリを決め込み、曽根崎の必要は自分にあると驕り縋りついている。彼を我が物のように、己の手足のように動かすことで」
「違う……」
「貴方は彼の為に隣にいるのではない。貴方は、自らの所属欲を満たす為だけに曽根崎を利用しているのですよ」
「違う!!」
男の断言に、僕は後ずさって頭を抱えた。
……立っていられない。呼吸が浅いせいで、脳に酸素が回らない。
ああ、そんな。
……僕は、そんなつもりでは。
ガンガンする頭をきつく両腕で締める。絶望と酸欠にぼんやりとしていく脳に、優しい男の声が突き刺さった。
「……景清君。独善にならず、真に彼にとってまた必要不可欠な存在でありたいと願うなら、一つ良い方法がありますよ」
――良い、方法?
空から垂らされた希望の糸に、僕はうつむいていた顔を前に向けた。
真っ黒な手が、差し伸べられている。
「ええ。……それは、曽根崎を闇から救うことです」
「……」
「彼は、まだ何かを隠しているのでしょう? それを暴き、貴方が解決してあげるのです。そうすれば貴方は、彼の命の恩人という新たな役割を得ることができます」
――でも、そんなこと、一体どうやってやれば。
口に出さぬ疑問のはずなのに、それを見透かする不気味な男は、黒い指で僕を指した。
「……ほら、ちょうどそこにいい道具をもってるじゃありませんか」
過去を覗くことができる、美しい八面体の水晶を。
――言わんとする所を全て飲み込んだ僕は、黒い男の導きに誘われるように、一歩彼に歩み寄った。
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