第13話 初夜

 長く上っていた日が沈み、深い青色をした夜の帳が降りる。

 点々と置かれた松明の灯を頼りに、僕は藤田さんに手を引かれて祠へと向かっていた。


 どこかで焚かれている香の匂いにむせそうになりながらも、僕は誘われるがままに歩みを進める。

 顔に貼り付けられた白い紙が煩わしいが、これも花婿には必要なアイテムらしい。片手に持たされたジャラジャラ鳴る棒で戯れに地面を突きつつ、スニーカーで土を踏みしめていた。


「景清、着いたよ」


 藤田さんの言葉と共に、僕は立ち止まる。白い紙のせいで視界良好とは言えないが、それでも周りに村中の男達が集まっているのはなんとなく理解できた。

 その視線は皆一様に下に向けられており、誰も僕のことなど見ていない。隣にいた藤田さんも黙って僕から離れると、列の後ろに混ざり同じく下を向いた。


 ここから先は、事前に藤田さんから言われた通り、一人で洞窟まで向かわねばならない。僕が一歩を踏み出すと、周りにいた人が一斉に両腕を上げてゆらゆらとゆっくり左右に揺れ始めた。


 まるで “ とおりゃんせ ” だ。

 僕は、中学生の時の職場体験先だったデイサービスで行われていたレクリエーションの光景を、思い出していた。

 おじいさんやおばあさんが立ち並び、両腕を上に上げてアーチを作る。その中を、中学生だった僕はおっかなびっくりくぐっていったものだ。


 ――行きはよいよい、帰りは怖い、か。


 冗談じゃないなぁ、まったく。


 気味の悪い花道を、オカエリ様の花婿たる僕は暗澹とした気分で進んでいった。










 洞窟の中を進み、やがて少し開けた場所に出る。そこには大きな鉄扉があり、両脇に複数の男が立っていた。

 中に入れられ、扉が閉まる。男達の足音が遠のいていき、片手に持った謎の棒が鳴らす金属音だけが僕の耳に入る唯一になった。


「……来ちゃったな、初夜」


 案外落ち着いたもんである。なんせあのオッサンといたら様々な事が起こるので、こうした異常事態に精神が馴染んできてしまっているのかもしれない。それはそれで問題なのだが……。


 さて、予定によれば、僕は残りの夜をここで過ごすことになっている。

 白い紙を顔からむしり取った僕は、ぐるりと洞窟内を見回した。……岩肌の温度がそのまま空気になっているかのように寒い。布団か何か無いのだろうか。

 少しずつ闇に目が慣れていく中、僕は棒を捨てて体温を逃さぬよう体を抱えた。


 まずは、奥まで歩いていかなければならない。肌をさすりながら、僕は鉄扉から離れ洞窟を進んでいった。


「なんっで、こんな寒いんだよ……アホか!」


 景気付けに吐き捨ててみた所で、誰が聞いているわけでもない。だが、奥に向かって足を進めていくごとに、不思議と寒気は収まっていった。


 十分ほど勾配の急な通路を歩いただろうか。ふと開けた場所に出た。


 その場所はやたらにだだっ広く、そしてがらんどうだった。光源は岩穴から差し込むわずかな月明かりしか無い為、部屋の奥の方はまだよく見えない。


 しばし呆然としたが、どんどん体から失われていく熱に体を震わせ、とりあえず再び前進することにした。


 ふと、奥に見える影に足を止める。


 ――何かが、ある。


 目を凝らし、その影の輪郭を掴もうとする。


 それは、地面に半分埋まった巨大な石だった。


 石? いや、違うな。本物の石ではない。少し遠くから見ても分かるほどに、それはゆっくりとその表面を上下させていた。


 呼吸をしているのだ。


「……オカエリ様?」


 つまり、あれがそうなのだろうか。

 もっとその姿を見てみようと近くまで寄ろうとした時、ザブンと片足を水に突っ込んだ。慌てて引き抜こうとするも、その温度につい動きを止めてしまう。


 ……温かい。冷えていた体に染み入るような水だった。


「温泉だ」


 ああ、だから用意されていたのが地肌に着るタイプの装束だったのか。納得し、もう一本の足も水の中に入れた。


 じんわりと広がる温かさに、思わず全身を浸からせたくなる。無限に湧き出る水を飲み干し、そのまま一つに溶け合ってしまいたい欲望に駆られる。それはとても甘美で、夢のようで、魅惑的な誘惑だった。

 僕は、両腕を伸ばす。そして、オカエリ様の待つ水の中に体を投げようとして――。


「手帳!!」


 ピタリと我に帰った。


 すっかり忘れていたが、今僕の履いているジーンズの尻ポケットには、昨日曽根崎さんから奪った手帳が入っているのだ。勝手に奪った上に濡らして返すなんて、アルバイトの風上にも置けない非常識である。

 ヤバイヤバイ、温泉に浸かっている場合では無い。僕はザバザバ水から上がると、手帳の無事を確認した。


 良かった。湿ってはいないようである。

 ホッと一息をついた時、ふと何者かの視線に気がついて顔を上げた。


 しかし、そこには何も無い。ただ、僕の作った波紋を広げていく水面以外。


 ――何も?

 僕は、ゾクリと背筋を凍らせた。


「……石は? ……いや、そもそもなんで、僕……」


 そうだ、おかしいのだ。僕は、もっと早く動揺するべきだったのだ。


 ――何故あの時の僕は、呼吸をする巨大な石を見て、すぐに受け入れられたんだ?

 どうして危機感すら抱かずに、あまつさえ近寄ろうとしたのだ?


 ――僕が水から出た今、あの石が今は見えなくなっている理由は、なんだ?


 わからない。想像すらつかない。僕の認識に影響を与えている何かがここにいるというのか? それが、オカエリ様だと?

 自分の呼吸が細かく乱れていく。……怖かった。その感覚すら、オカエリ様に植えつけられ誘導させられたものではないかと疑ってしまう。自分の脳が、得体の知れない意識へと変容していくのがひたすら恐ろしかった。


 ――ああ、それにしても寒い。這い上がる冷気と恐怖に体が震えだす。だが不気味なことに、あの水に浸かった足だけはまだほんのりと温かみを帯びていた。


「……曽根崎さん」


 手帳を胸に抱き、ここにはいない彼の名を呼ぶ。すがりたいのではない。情報を集めてきてやるとタンカを切ったからには、そんなみっともない真似はしない。


 ただ、あの人の名を呼べる僕でいられる内は、僕がまだ僕でいられる気がしたのだ。


 毎日のように目にするもじゃもじゃ頭を思い浮かべる。あの人なら、こんな時にどうするのだろう。恐怖に打ち震えながら、それでも解決しようとするならどう動くのか。

 考えろ。考えなければならない。二度と犠牲者を出さない為に。曽根崎さんに伝える為に。


 僕は荒い呼吸を整えつつ、凍りつきそうな脳を働かせる。儀式、装束、棒、両手、民話、水、オカエリ様。


 ……そうだ。


 僕は、薄い装束を見下ろした。


 僕はさっき、この服は湯浴み着なのだと結論づけた。だけど、もしもこの生地が、花婿に強い寒さを感じさせ水に導くための装置の一つだったとしたら?


 つまりそうする理由がある。僕は、重たくなった靴を脱ぎ、水を捨ててまた履いた。その足で、一歩ずつ水から遠ざかる。

 寒さが増す。だが、それは僕の予想した通りだった。


 ――オカエリ様は、花婿と交わり、卵を産み落とす。

 彼女が花婿と接触する為に、あの寒さと水を用意したのなら、導き出される答えは一つだけだ。


 ――ヤツは、あの場所から動くことができない。


 だからこそ、花婿の意識や村人を操り、誘導するしかなかったのではないか。


 鉄の扉までたどり着いた。ここに来るまでに何の邪魔も入らなかったのが、僕の答えの正しさを証明している気がした。

 代わりに、体は寒さにガクガクと震えている。だけど、耐えなければならない。……誓ったのだ。オカエリ様に、僕の一片すらくれてやらないと。


 ……大丈夫、大丈夫だ。

 手帳を巻き込み、体を抱きしめる。

 これだって、意識の操作だ。思い込みを捨てろ。別のことを考えろ。何か死ぬほど気を取られる別のことを……!


「あ」


 そうだ、手帳の解読。あれを僕はやろうとしていたのだ。

 かじかんだ指で、曽根崎さんの手帳の一ページ目を開いてみる。やはり、のたくる大量のミミズ字が紙面を埋め尽くしていた。


 ペラペラとめくってみるものの、案の定さっぱり読めそうにない文字が続く。ある意味プライバシーの保護は完璧だ。何なら本人ですら、ちょっと読めてなかったもんな。


 そんな中、一行だけすぐに分かる文字があった。僕ははたと手を止め、目に飛びこんできたその部分を凝視する。

 そして、ぽつりと声に出した。


「……竹田、景清」


 そこに並んでいたのは、僕の名前だった。


 間違えてはならないとでも思ったのだろうか。不器用な字は、それでも後で見返せるよう、ある程度の体裁を整えられて書き込まれていた。

 あの日、初めて出会った時に書いたのか。きっと、僕の持ってきた履歴書を写しでもしたのだろう。


 ……記憶力の高いあなたなら、こんな事をする必要も無かったろうに。


 未だ鮮やかに蘇るあの日の記憶に、僕は片手で口元を覆う。深く息を吸い、目を閉じた。


「……ほんと、読めない字ィばっか書いて」


 一度ギュッと固く力を込め、目を開ける。ページを送り、一番最後の面を前にした。

 そうだ、生半可な気持ちでここに来てなどいないのだ。絶対に情報を彼に残し、伝えてみせると決めていた。


 だから、今の僕にできる最善手はこれだ。


 僕は、躊躇うことなく自分の指の皮膚を噛み切った。


 滴る血を、曽根崎さんの手帳にかざす。知らぬ間に消えていた寒気に、僕はとうとう気づくことはなかった。

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