第1章 血濡れの衣裳

第1話 そしてまた怪異へと

 大通りから一つ奥まった通りにある、三階建てのビル。一階と三階は常にテナント募集中の看板がかかる景気の悪いその場所に、僕の雇い主である曽根崎慎司さんは事務所を構えていた。

 薄暗い階段を上り、少し上がった息を整える。


「どうも、曽根崎さん。今日も来ましたよ」


 ここに来る途中に寄ったスーパーの袋を片手にぶら下げ、僕はドアを開けた。このビニール袋の中身は、いい年して生活能力皆無な彼の為の夕食だ。僕――竹田景清は、放っておけばすぐに餓死する彼を定期的に世話するという、何とも素っ頓狂なアルバイトをしていた。


 そんなわけで、今日も今日とて大学帰りにこの事務所を訪れたのだが……。


「……まったく、君まで煙草をやめてしまったのかい。愛煙家には生きづらい世の中になったものだよ」

「別に禁煙したつもりはありません。ただ、事務所では吸わないというだけです」

「その呼吸器系の弱いアルバイト君の為に? 君は一体いつからそんな慈善家気取りの言葉を口にするようになったんだ」

「相変わらず若者に絡みますね。じきに還暦を迎えるんですから、もう少々落ち着いたらいかがです」

「五十八歳を捕まえて還暦を宣告するんじゃないよ。君こそもっと年上を敬う事を覚えるべきだね。大体三十路が若者かよ。ピーターパンも大概にするといい」


 知らない人である。バリトンボイスが耳に心地よい男性が、ソファーに腰掛けて向かいの曽根崎さんと話していた。

 内容の深い話はしていないようだが、依頼人であれば邪魔をしない方がいいだろうか。僕はそっとドアを閉めようとしたが、その前に彼に気付かれてしまった。


「おや、噂をすれば君のツバメが来たようだよ」


 品の無い喩えをしながら振り返った和装のロマンスグレーに、僕は頭を下げた。……こうなってしまっては、仕方ない。僕は、大人しく事務所に足を踏み入れた。

 銀縁の眼鏡の向こうにある男の涼やかな目が、興味深げに細まる。なんとなく、観察されているように感じた。


「聡明そうな子じゃないか。趣味の悪い君にしては上出来だ」

「貴方に褒めてもらう為に彼を雇っているわけではありません。景清君、今日はもう帰っていい。この男といると肺にヤニが溜まるぞ」

「給仕ぐらいしますよ。曽根崎さん、お茶も出してないじゃないですか」

「美形で聡明で気遣いもできるのかい。ガニメデを思い出すが、ひょっとして水瓶座じゃないか?ともあれ、曽根崎君には勿体無い青年だね」

「若者に絡むなと言ったはずです。用が無いならどうぞお帰りください。家が分からないほど耄碌されているなら、優秀なヘルパーを手配しますが」

「君は実に嫌な男だ」


 曽根崎さん渾身の嫌味に、男は眉間に皺を寄せた。……とりあえず、僕は僕の仕事をこなすとしよう。ビニール袋を携えて、キッチンへと向かった。


「さて、愛しの景清君が帰って来る前に、本題に入ってしまおうか」


 手を洗っていると、男の声が聞こえた。お湯をやかんに入れながら、思わず耳をそばだてる。


「怪異の掃除人たる君の元を、この僕が直接訪れたのは他でもない。大変不可解で、残虐で、厄介な事件が起きたからだ」


 怪異の掃除人とは、警察では解決できない不気味な事件を扱う、曽根崎さんを指す呼び名だ。表面化したらパニックになるだろう事件を秘密裏に始末し、無かった事にする。彼は、恐らくそんな事ができる、ただ一人の存在だった。

 そんな特異な曽根崎さんに、時折、警察官であり弟でもある阿蘇忠助さんが “ 曽根崎案件 ” と称して事件の解決を依頼してくる事がある。しかし、今日はその阿蘇さんの姿は見えない。


 となると、あの男性は警察関係の人なのだろうか。僕が想像を巡らせている間に、彼は口を開いた。


「君は、最近テレビやSNSを賑わせている連続殺人事件をご存知かな?」

「勿論。被害者は全て女性で、現時点で三人殺されている。どれも遺体の損傷が激しく、巷では和製ジャック・ザ・リッパーなどというセンスの無い渾名が犯人についているそうですね」


 その事件は僕も聞いたことがあった。むしろ連日ニュースやワイドショーで取り上げられている為、知らないでいる方が難しいというものだろう。

 男は、ため息混じりに曽根崎さんに返す。


「そんな不吉な名前は勘弁願いたいよ。迷宮入り事件の代名詞のようなものなのにさ」

「しかし、それは完全に警察の管轄でしょう。表に出てしまった事件は、私の範囲ではない」

「イケズを言わないでくれないかい。ほとほと困り果ててるんだ」


 そう言うと、彼は鞄の中からドサリと資料をテーブルにばら撒いた。ちょうどお茶も入ったので、資料の傍らにでも添えてやろうと思い、僕もキッチンから出る。すると、間髪入れずに曽根崎さんの鋭い言葉が耳に飛び込んできた。


「来るな、景清君!」


 しかしその時にはもう遅かった。乱雑に投げ出されたせいで足元まで飛んできた二、三枚のA4サイズの紙を、僕の両の目は捉えてしまっていたのだ。


「……ッ……!?」


 あまりの内容に、危うくお茶をこぼしそうになる。貴重な資料を汚すわけにはいかないと寸前で耐え、震える手でどうにかお盆を近くの棚に置いた。この日ほど、自分の視力を恨めしく思った日は無い。


 ――その紙には、体の部位をちぎられ、自身の血で染め上げただろう真っ赤な服を着て仰向けに横たわる、顔の潰された人間の写真が印刷されていた。


「……私にこの資料を見せたいだけなら、もっとやりようがあったでしょう。よもや、うっかり手が滑っただけとは言いませんね?」


 曽根崎さんが静かに怒っている。僕は、しかし取り憑かれたようにそのA4紙から目が離せないでいた。


 赤い。どうすれば同じ人間にあんな事ができるのかわからない。体にぴったりと張り付いた服からは、弾けたような赤い肉の塊がはみ出ている。……いや、白い部分も見えるということは、骨まで抉られているのだろうか。


 ――大丈夫、ここまでは大丈夫だ。僕だって、伊達に酷い経験はしてきていない。


 そう強がっていたが、元の姿が全く分からない彼女の服の裾から突き出た “ 何か ” の正体に気づいた瞬間、凄まじい吐き気に襲われ膝をついてしまった。


 それは、モップだった。


 ただの二本のモップが、まるで足の代わりのように、彼女のスカートの裾に突っ込まれていたのだ。


「なん、ですか、これ……!」


 人間のやる所業ではない。ここまで人の尊厳を蹂躙する事などできるのか。僕は、恐怖と怒りがごちゃ混ぜになった感情を熟年の男に向けた。


「見ての通り、哀れなる被害者さ」


 対する男は、冷えた目をしている。


「他の二人も見てみるかい? 肉は削がれ、顔は陥没し、両肘から先が無くなっている者もいる。とても遺族に見せられる姿ではないね。どうしてもと言われて、妻と対面させてあげた夫の話でもしてあげようか」

「田中さん!!」


 曽根崎さんが怒鳴った。どうやら、それが彼の名前のようだ。だが、田中さんはそんな彼の怒りなどどこ吹く風で、僕を試すように見ている。


「君が思っている通り、これは人間の仕業ではない。いや、直接手を下しているのは人間なのかもしれないが、その裏に何らかの怪異が関わっていると僕は見ている」

「……なぜ、それを僕に」

「君が、怪異の掃除人を動かす唯一の人物だと知っているからさ」


 ここでようやく、田中さんは曽根崎さんを振り返った。曽根崎さんは、口角を吊り上げて目つきの悪い目で彼を睨みつけている。……怒っているのだ。しかし、感情表現が壊れているこの人には、適切な表情を作れない時が多々ある。


 田中さんは、真剣な声で言った。


「君には動いて貰わないといけないんだ、曽根崎君」

「……」

「命令や金だけでは、こんな事件だと利己的な君は自分の命を優先して動いてくれないだろう? だからこそ、僕は彼を先に動かすワケさ」


 彼、とは僕の事だ。

 田中さんは、曽根崎さんに体を向けたまま、僕に問いかける。


「あんな凶悪な犯罪者を、これ以上野放しにしておいてもいいと思うかい? 明日には、また新しい悲鳴が生まれているかもしれない。降って湧いたような悲劇に、二度と夜を越えられぬ者が出るかもしれない。それを、この男が動く事で阻止できるなら、君はどうする?」

「……脅してるんですか」

「煙草を咥えていないと、どうも一言も二言も多いんだ。許しておくれ、ガニメデ君」


 悪びれる様子など微塵も見せず、田中さんはヤレヤレと首を振った。


 ……なんだか、随分と好き勝手言ってくれるものである。曽根崎さんも普段なかなか腹が立つ人だが、この人も相当だ。


 僕が、曽根崎さんを動かす唯一の存在?


 ため息をつく。そして片手で乱暴に頭をかき、立ち上がりながら田中さんに言った。


「お言葉ですが」

「なんだい」

「この人、別に僕の言葉ぐらいじゃ動きませんよ?」

「……」


 一瞬の沈黙。田中さんは、銀縁眼鏡の目を見開いて、こちらを見た。


「……嘘だろ?」

「いや本当です。何度言っても食事を摂るのは忘れますし、味噌汁は一気飲みするし、ゲームのセーブデータは作り忘れます。日常生活の些細なことでコレなんですから、そんな凶悪な犯罪者を退治しろなんて言われた日には、僕が何と言おうと絶対断りますよ」

「……そうなのかい? 曽根崎君」

「ええ、断ります」


 曽根崎さんはあっさり言い放った。


「やっぱり危ないですし」

「そこは、警察も全面バックアップするとして……」

「そういう触れ込みで、前回うちの弟が大怪我をしたんですがね。大体、得体の知れない男が一人別行動をするとして、それに大人数の警察官が一様に納得し素晴らしい連携を取ってくれるでしょうか?もっと人を割くべき所はあると判断するのが普通です」

「しかし……」

「その上、一般人であるうちのお手伝いさんの感情につけ込むような卑劣な真似をされては尚更。心証は最悪ですよ。お帰りになるなら、出口はあちらです」


 曽根崎さんは、優雅な手つきで手のひらを上に向けてドアを案内する。対する田中さんは、すっかり毒気を抜かれたような顔をしていた。

 そんな彼の姿を見ながら、僕は曽根崎さんに話しかけた。


「塩いります? 撒くだけじゃなくて、直接ぶつけても効果ありますよ」

「ダメだ、この男には塩すら勿体無い。外に行って石を拾ってきてくれ」

「わかりました。ちょうど漬物を作ってみたいと思ってたんです」

「待て待て待ってくれ! すまない、僕が悪かった! そして漬物つけるぐらいの石って、どんなサイズ持ってくる気だ君は!」


 田中さんは叫んだ。ひとまず謝ってくれたので、外へと向かう足は一旦止めておいてやることにする。


「……我々を動かしたいのなら、まず案件説明、料金の提示、それから相応の誠意ある態度を示してください。それが社会人としての常識でしょう」


 そして曽根崎さんは、真顔で説教をし始めた。社会不適合者であるこの人に常識を説教をされるなど、普通の人であれば屈辱を覚えるに違いない。しかし、田中さんは大人しくショボンとした。案外素直な人である。


「申し訳ない。だが、君の手を借りたいのは本当なんだよ」

「まどろっこしい事は嫌いなんです。それならそうと早く言えばいい」

「ずっと言ってる気がするんだがね……」


 ここで曽根崎さんは、田中さんに分からぬよう、チラリと僕に目線を送った。どうやら、これ以上話を聞くべきか否か、僕に判断を仰いでいるらしい。


 ……ということは、曽根崎さん自身はこの事件を解決できる自信があるのだろう。相変わらずの大した自尊心である。


 僕は、返事の代わりに親指と人差し指でお金のマークを作って見せた。

 それを確認した曽根崎さんは、テーブルの下でオーケーサインを出して返してくれる。


「……まあ、貴方が本気でこの事件を憂いている事ぐらいは、私でも分かります。なので、話ぐらいは聞いてあげましょう」


 曽根崎さんは座り直し、濃いクマを引いた鋭い目で田中さんを見据えた。


「――ただし、今回は高くつきますよ」


 こうして僕らは、また不気味な怪異へと足を踏み入れたのであった。

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