宙の女#4

 地上150メートル。

 その場所へ続く階段は、折りかさなるように天へと続く。

 真っ赤に塗装されていた痕跡が覗く手すりや足場は既に老朽化が激しく、所々が崩れ落ちている。

 しかし、それを補強する形で植物の蔦や木の枝、幹が絡みつき、その様子はまるで即席の階段だ。

 ともすれば植物に誘われているような雰囲気に、俺は目眩がする思いだった。


 気分はさながら、遥か昔の童話のよう。

 豆の木を登り雲の上の城を目指す少年の気分。

 そういえば、ここではない遠くの話。

 人々がたどり着いた惑星で構想される軌道エレベーターなんかは、現地の人々に豆の木という相性で親しまれているとウィリアムが語っていた。

 さすがに宇宙までこの階段が続いている事はないだろうけれど、


「――星の外に出た気分にはなりそうだ」


 と、あれほど大きく見えた森の木々のてっぺんが、今や水平方向に見える状況についついぼやいてしまう。


「あら。カナリアの囀りともあれば、やっぱりそれなりにロマンチックなのね」


 階段の先を行くソラの女は全身を宇宙服に包み込む重装備ながら、軽やかに階段を上っている。

 大方、宇宙服にパワーアシスト機構でも組み込まれているのだろうという、どこか無重力じみた軽やかさだ。

 そういった点も含めて、このヴィヴィアンにはソラという愛称が似合う。


「でも残念、星の外はまだまだ上よ。たぶんここから飛び降りた方がたどり着くのは早いくらい」


 人の身からしたら気の遠くなるほどの高みに、星の輪郭は存在する。

 そこへたどり着くのなら、なるほど、彼女の言うとおり身軽な体たましいにでもなった方が手軽だろう。


「ただ、帰るのはまだ先の話ね。今はこの肉体ごと、生きて帰るのを考えなきゃ」


 改めて、頭上を見上げる。

 自分達の天を覆うのは世界樹タワーの中腹にある、おおよそ四角形をした展望台だ。

 階段はその四角形の中央付近に通じている。階段をこのまま上っていけば展望台の内部に出るのだろう。

 視線は出入り口から自然と外壁部へと向かった。

 日の出まで、まだしばらくある。

 暗闇の中、辛うじて見えるのはうっすらとした、けれども巨大な影だ。

 下方からでは木々の葉や枝に遮られてまともに見ることの叶わないそれ。

 ヴィヴィアンの言う


「あれは、樹が真横に生えてるのか?」

「そう。いつか、ここ以上に高い樹でも生えたんでしょうけれど、風雨でそれが倒れたのよ」


 こう、バーンって。階段を上りながら樹が倒れるジェスチャーを身振り手振りでヴィヴィアンは伝える。

 なるほど、それなら納得のいく光景だ。この場所に通じるほどの高さを誇る大樹、という天に目を瞑れば想像の範疇ではある。

 地上約150メートルの展望台の外壁には、1本の巨大な幹が突き刺さっていた。

 驚嘆すべきは、倒れてなお、それ自体が生命として衰えることなく成長しているという一点。

 暗闇からではあるが、樹に生えている枝も葉も、外皮ですらも活き活きとしている。

 樹の中腹辺りから数本の新たな"樹"が空へと向かって育っているのも、地上ならまだしもこれほどの高空で行われているとは思えない営みだ。

 高度で言えば山の頂ほどではないが、その真下には地面も何もない。ただの大木がその栄養源である。

 巨大な幹をなぞるように視線を滑らせれば、暗がりの向こう側にうっすらと輪郭だけが覗ける建造物がある。

 距離にして、目測だが500メートル前後といった所か。


「なるほど、だな」


 幹の太さから言っても申し分のない、人が十二分に通りうる道である。

 強度に至っては、蔦などとは比べものにならない安心感があることだろう。

 蟻を避けることも含めて、帰り道としては最適な選択だ。


「ねぇ、あなた、カナリアなんでしょう?

 自然に詳しいなら教えて欲しいのだけど」


 さて、展望台まで、階段は600段あまり。

 案内板の表記によれば、健常な大人で15分ほどの道のりだ。

 歩き始めてから5分ほどたったところで、今度はヴィヴィアンから尋ねる声があった。


「全長650メートルの大木って、ぽんぽん生えているものなのかしら」

「さてな。この星は、今や人類には広過ぎるから分からないが」


 彼女の疑問ももっともだ。

 常識から幾ら外れた思考の持ち主とはいえ、さすがにここまでの規格外だと思うところもあるらしい。

 500メートル離れた地点から、この150メートルの高さに倒れた幹が届くには、単純計算で650メートルを超える偉容が必要となる。

 人工建造物ならまだしも、自然で育った木々がそれほどまで大きく育つなど、俺だって見たことはない。

 ただ、この星は。

 人の手を離れて久しいこの星は、既に自然のものである。


「――きっと、俺の見たことのない場所には平然とあるんじゃないか」


 ならばあったとしても、なんら不自然ではない。

 自然がこのようにして目の前に提示している以上、それは自然の中ではありうる成長の結果なのだ。


「そう。そうよね。あなた、カナリアだもの。渡り鳥じゃなかったわね」


 それなら、あなたが知らないこの星のどこかに。

 遥か彼方の星にすら手を届かせる。

 そんな大木があったっていいのかも知れない。


「今日、あなたに出会ってから思っていたのだけど」


 言葉の途中でヴィヴィアンは俺の方へ振り向いた。

 角度の都合か、フルフェイスのマスクの向こう側に顔は見えないが、視線がばちりとあったような感触。

 どことなく、楽しげな吐息の後に、


「あなた、カナリアのくせに歌を忘れてないのね」


 なんて、突拍子もないことをソラの女はこちらに告げた。


「なんのことだ」


 言われたこちらとしては、なんの話かさっぱりだ。


 ――これは、完全な余談なのだが。


 個人的に気になったので、後で調べてみたところ、彼女が言っていたのは古い、この地域で歌われていた童謡の歌詞についてらしい。

 童謡に曰く、歌を忘れたカナリアはあるものを浮かべて歌を思い出す。


「あなたには象牙の船も銀の櫂も、まして月夜の夜も必要ないみたい」


 そうして、彼女はまるで妖精のような軽やかさで階段を上って、


「――ああ、だから、あなたはこの星にいるのねカナリアさん」


 歌を忘れられなかったカナリアは、ソラの彼方に旅立つこともなく、星に留まることを選んだのね、と彼女は呟いた。

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