3.オーダー

 最後の授業である六限目前の休み時間、教室の隅で適当な雑談が始まった。

「そういえば《空飛ぶヒトデ》の噂のことなんだけどさ」

「久々だな、その話題。飽きずに好きだな」

 机に肘をついて呆れたように由梨を眺める政明は、貶し気味に反応する。

 しかし好きな話題ができるせいか、由梨はその失礼な言葉を全く気に留めない。

「空にヒトデが浮いているって有名な都市伝説、昔から由梨は好きよね」

 先週までは由梨にべったりしていた景であるが週末を挟んで満足したのか、今は以前の自然な状態に戻っている。

「それに新たな追加情報があるのだ!」

 得意げに椅子から立ち上がって拳を握り締め、由梨は語り始める。

「《空飛ぶヒトデ》を見た事ある、って言ってる目撃者にはどうやら共通点があるみたいなんだ。今日までわたしが今まで集めた情報を集計すると、どの人も閉鎖的な人らしいよ。引きこもり気味の人とか、あんましテレビとか見無さそうなオタクとか……簡単に言えば、暗めな人」

「それってその人達の、ただの妄想ってことにならないかしら? だってさ、言い方悪いけどつまり社会性が低い人ってことでしょ?」

「景ちゃん、それを言っては身も蓋も夢もないよ。それに妄想なら、みんなバラバラなことを言うでしょ。《空飛ぶヒトデ》なんてキーワードは広まらないよ。ね、優人くん?」

「あ、ああ」

 急に話題を振られて、優人は適当な切り返しもできず曖昧に唸る。

 昼休みのマコトのことが気掛かりなせいだ。

 話題自体も、由梨が以前から興味を持っている《空飛ぶヒトデ》の都市伝説。これは今まで何度か話題になったため、積極的に会話に混ざらなくても良い。

「少し話題は変わるけど、そういう由梨が好きそうな噂話って中には本当の話もあるかもしれない。ただ実際はほとんどが嘘っぽいじゃん? そこらへんってどう考えてんの?」

 政明の根本的な部分を突く質問に、由梨はやや考え込む。

「んー、でもそこはさ、半信半疑でも信じていく方が楽しいもんだよ」

 それを「本当はありえない」と言い切ってしまうのは無粋な話。由梨自身、都市伝説などに興味はあるが完全には信じず、エンターテイメントとして楽しむスタンスなのかもしれない。

「しっかし、この前は噂を追い過ぎて酷い目にあったのに、懲りないな」

「だってほとんど何も覚えてないもん」

 由梨は両手を頭の裏で組んで脳天気に答える。

 ちなみに《光の柱》事件後、元の日常に帰ってきた由梨には、拉致時の記憶はほぼ残っていなかった。麻酔などで長時間睡眠状態にされていたか、あるいは手段こそ不明だが記憶改竄を受けた可能性があると、優人は陽香から聞いている。

「人間は反省をして成長する生き物だぞ」

 政明の指摘に「そうよ」と親友兼保護者である景も便乗していく。

「由梨、こういう趣味はネットサーフィンぐらいにして、もう控えなさいね」

「さっ、さすがに夜出歩くのは止めるよ、親にも怒られたし。でも変わりに、都市伝説の情報をまとめたサイトを今度作ろうと思うんだよ」

 ウェブサイトを開設する場合、すぐに公開されず、法人個人問わず総務省情報流通行政局の審査が入ることになる。しかし多くは形式的なもので不合格になるケースは少ない。

 しかし由梨の場合は確実に不合格となるため「かわいそうに」と優人は一人胸の中で呟く。

「そんなことより楽しいことはあるから、止めてほしいわ」

「お願いよ」と由梨の手を握り縋るような景の姿に、由梨は右手を翳して怯む。

「うっ……おっとコンタクトが外れそうだ。優人くん! 小さい鏡持ってたよね。貸してよ」

 大抵の女子高生は小さい鏡ぐらい所持していて、由梨も例外ではない。わざとらしい下手な嘘で、景の訴えるようなお願い光線から逃れる。

 しかし優人は二人のやりとりを気にせず「ほらよ」と、鞄から出した小さい鏡を渡す。

 学校では伊達メガネを掛けているが、体育で球技や水泳の時は度数が極端に弱いコンタクトレンズをしている。しかし日頃から付け外しはせず不慣れなため、男だてらに小さい鏡を鞄に入れてある。

「ありがとう。ん、あれっ……優人くん、この鏡なんか変じゃない?」

「えっ?」

「なんか枠の部分が無くて、鏡の部分が剥き出しみたいな感じ。折り畳みでもないしさ」

 間違えたとすぐに察する。

 しかし鞄の中にはもう一つ特殊な鏡があり、それは優人が自作した改造品である。

 表面には、長方形の四辺に挟み込み式の機構があり、剥き出しのガラス板を固定している。

 裏面には薄い蓋があり開けると剥離紙に覆われた粘着テープが隙間なく貼ってある。これは壁に貼り付けるためだ。

 ひとまず鏡にしたが、やがては距離センサーや麻酔銃を組み合わせたトラップとして屋内の潜入などに使うビジョンがあった。

 しかし所詮は暇潰し半分で作ったものであり、現状では誰にでも工作できる程度の代物で、機密情報に類するパーツも無い。つまり素人が作ったおもちゃである。

 但し、一般には流通していない特殊な小道具であることに違いはない。

 それを学校の友人に渡してしまうとは……考え事をしていたとはいえ不注意だ。

 もしプラザホテルのIDカードなどを渡していたなら大問題である。

「しっかし、優人くん元気ないね。どうしたの? あの日できついのかい?」

「ああ、男だけど重いタイプなんだ。今日も、月に一度の荒ぶる妖精さん相手に貧血気味さ」

 由梨の無茶振りが唐突だったこともあるが、投げやりで面白くないギャグだと優人は自分の事ながら思う。

「まあ、不潔」

 しかも得たことは下品なことを嫌う景からの反感、という思わしくない状況。

 では何をすれば、やや負の状態に傾いている自分を持ち直せるのか……と考えたが、結論が出たのはすぐだった。

 東京都第一管理部隊ことチームリングスの中で優人は一番の新参者であり、マコトの事情はまだ大雑把にしか聞いたことがない。

 ならば中間管理職なのに暇そうな、あの趣味が悪いふざけた上司に質問すれば良いのだ。


********************


 優人は六限目が終わると早速教室を抜け出してプラザホテル内の司令室に来た……が、すぐに後悔した。

「かぁー、無敵頼りの超必ぶっぱで負けるとかくだらない……別に大会でもないのに勝利を運に任せるなんて興醒めね。質の低い読み合いをしても何も得られないってーのに」

 スティックが立つ大型のコントローラをディスプレイ側に押すと陽香はメッシュチェアの背もたれに身を預け、ゲームの結果に気に食わない様子でペットボトルのコーラを一口飲む。

 しかし訪れた優人に「よっ」と片手を立ててラフな様子で向き直った。

「いつもは気にしませんが、それってどういう意味ですか?」

「えー、格ゲーをしないあんたにどう説明しようかしら。そのー、格闘ゲームってのはゲームって言葉が付いてるだけで実際は競技、将棋やチェスの業界と同じでさ、息抜きでやるような遊戯じゃないのよ。勝負の世界ってやつね」

「それはなんとなく察してますけど、そうじゃなくて「何も得られない」って部分はどういうことですか?」

「ああ、なんだそこか。簡単に言えば、目先の成果を重視しても成長しないってことよ。内容の薄い戦い方で、意味のない勝利をしても何も得られない」

 細かい部分は不鮮明だが、結論だけは咀嚼できたので良しとした。

「でもそんなにゲームばかりやってて大丈夫なんですか? リーダーの外出時間制限はわかりますけど、体鈍っちゃいますよ」

 陽香達が所属する管理部隊は、一般社会には秘匿されている組織であるため、情報漏洩を防ぐために厳しい規制がある。

 そのため特に把握事項の多いリーダーは、リスク低減として生活の自由が大きく制限させられてしまう。外出に関しては、一週間または一ヶ月間の総外出時間が規定され、その範囲でしか許可されない。

 但し引き換えに、金銭面などでは良い待遇が与えられる。

「いつものことだけど、失礼ね。そのためにトレーニングルームがあるんじゃないの」

「えっ、それって、七階のフィットネスルームのことじゃないですよね?」

「あら、知らなかった? この部屋の隣はあたしの寝室だけど、そのまた隣はあたし個人用のトレーニングルームになってるのよ。7階にあるものと同じマシーンがそろってる。だから体は鈍ってはいないわ、実戦の勘はやや衰えたかもしれないけどね」

 ホテル内で優人が出入りするのは、陽香の職場である司令室、ホテルの一般客も使用できる七階のフィットネスルーム、関係者用地下通路の先にある装備保管室、基本的にはこの三つのみである。

「自慢になっちゃうけど、そこは贅沢してるわよ。個人用だからさ、どのマシーンを使っててもイヤホンせずにスピーカーで好きな曲や番組流してられるし、冷蔵庫があるから冷えた飲み物もすぐ近く、シャワー室も備えてあるしね。運動するには快適過ぎる環境、だから普段からあたしはジャージ姿なのよ」

「ここまでアクティブなひきこもりは、この世界中探しても陽香さんだけですよ」

「好きでやってんじゃないのよ、できれば外出たいわよ」

「まあまあ、至れり尽せりで良いじゃないですか。今度、僕も使わせてくださいよ」

「良いけど、廊下側から入ってよね。あたしの寝室には入れないわよ」

「そりゃ入りませんけど。でも僕みたいなガキんちょにプライベートな寝室見られても、なんともないでしょ?」

「ダメよ、絶対ダメよん。だってあの寝室は、あたしとマコちゃんの愛のトレーニングルームなんだからあぁん」

 自分を両手で抱いて身を捩る様は、精神的な自慰行為そのもの、性癖丸出しである。

「はいはい……はて、今の『愛のトレーニングルーム』ってフレーズを口にするの、ちょっと恥ずかしかったでしょ?」

「うん、ちょっとだけね。もうっ、言わせないでよ!」

 しおらしく両手を頬に当てて、可愛い子ぶって誤魔化そうとするがそうはいかない。優人は伊達メガネのレンズ越しに獲物をしっかりと捉えていた。

「今のフレーズもう一回、言ってくれませんか?」

「えっ……愛のトレーニングルーム」

「もう一回」

「あっ、愛の、トレーニング、ルーム」

 逃がしはしない。

「もう一丁」

「あ、愛の……ていやっ」

 陽香はワインレッドのPCのすぐ隣に置いてある木製の卵型オブジェに怒りを込めて、無礼な部下へ素早く投げつけるが、優人はこれを片手で余裕をもってキャッチする。

「大丈夫。悪ふざけのスキンシップくらいで、青少年が望むような一線は超えてないわ」

「一線超えてたらタカさんに撃たれますよ。陽香さんはマコ先輩のどこが好きなんですか?」

 質問と同時に、手に持った卵型オブジェを陽香のデスクの定位置に戻す。

「あたしはさ……あのぐらいの胸が好きなの!」

「聞いた僕が馬鹿でした」

「二次性徴期の最中を思わせる張り出し初めの、あのカーブが一番好きなのよ。腰がキュッと細いからなお良し、とても美味しそうだわ」

「あのー、陽香さん、病院行きましょか?」

「マコちゃんは細身だからボリュームは控えめなんだけど、でもその微かな膨らみが綺麗でいいのよ。ペタンコじゃないのがポイント、ギリギリ下乳が膨らまないぐらいの大きさが成せる芸術的な曲線というか、黄金比というか、もう堪らない。巨乳気味の女性を前に自分の貧乳を気にしてる様には感動すら覚えるわね。だからたまに、ブラの中に異物を仕込んできたときはとてもとても悲しい」

 真面目に答える気がなさそうだ……と最初は思った。

 しかし、本人は至って真面目に答えているかも、と思い直してより後悔する。

 うっとりと愉悦に浸るが、持ち前の自信を失わず、意気揚々と語る姿にはあっぱれである。

「左様ですか、それは何よりで。では外見はさておき、中身の方はどうなんですか?」

「んー」

 陽香は卵型オブジェを片手で横回転させつつ、目線はじっくりとデスクを見つめる。

 これは物事を考え込むときの彼女独特のスタイルである。

「マコちゃんって清楚な少女って感じじゃない? それに庇護欲をそそられるというか、動物的なかわいさがあるというか、ペットとして飼いたいわよね」

 ペットの部分はともあれ、守ってあげたくなる気持ちは優人も同じだった。

 小さな体で普段から感受性豊かなマコトはとても愛らしい。

「まさに可憐、わたしの憬れなのよ!」

「憬れって……陽香さんだって、そっちにイメチェンすればいいじゃないですか」

「はっ? あたしに? どの口がそんな安っぽい社交辞令タレてんのよ。無理に決まってんでしょうが!」

「どうしてです? 素材はいんだから、それなりに服装と立ち振る舞いを変えれば、素朴な美人を目指せますよ。ただ性格の方は如何ともし難いですが」

「さりげなく褒めてかつ貶してくれて、ありがとう。受け取っておくわ。でも無理よ、外見は努力でなんとかなっても中身が噛み合わなくてすぐにボロが出るのよ。その手の慎ましい上品な服は、全て焼き払ったわ」

 確かに……お淑やかで清純な雰囲気がする陽香を、優人は全く想像できなかった。

「ということは、そういったイメージの服装を一時は持っていたのですね。着て試した事があるんですか?」

「ま、まぁ……」

「どのようなご感想でしたか?」

「……」

「ちなみに写真などは残っておりますか?」

「それ以上突っ込んだら殺すぞ?」

「これは失礼」

 そう言葉では謝罪しつつも、おっかなびっくり両手を小さく跳ね上げて「怖い怖い」と言いたげに優人はデスクから一歩引く。

 慇懃無礼な姿勢を崩さずユーモアを忘れないのは、優人のポリシーである。

 しかしおふざけはこの辺で切り上げるが良いだろう。

 司令室に来た本当の目的を忘れてはいけない。

「マコ先輩、今日学校で体調悪くて吐いてましたよ」

 急な話題の変更だが、経験豊富な陽香には無用な配慮だ。

 驚かず声色も変えず「そうだったの」と一言の返事があるのみ。

「前にマコ先輩の事情は聞きましたけど、オーダーにアクセスすることの副作用みたいなものだってことしか知りません。詳しく教えて欲しいです」

「教えて欲しい……ね、まあいいわ、少し長くなるし、資料とかは見せられないから口頭だけの説明になるけど、それでもいい?」

「はい、構いません」

 陽香の言い方が腑に落ちなかったが、素直に話してくれそうなためここは堪えた。

 壁の大型ディスプレイが消える。そして陽香はPCで目的の資料らしきものを探し出すと、背もたれに寄り掛かり一度深呼吸してから始めた。

「さてと……あたし達や他の管理部隊も使用が許されているオーダーは優人も知っての通り、この世界に一台しかない量子ゲート式のよ。秩序の名を冠する、この世界の守護者ね」

 科学的教養は高校レベルである優人には、調べてもその仕組みは理解できなかった。

 しかし、そのポテンシャルの高さは常軌を逸しているとだけは察している。

「一般社会じゃSFの域を出ない代物だけど、現実には存在している。従来のノイマン型コンピュータでは実現不可能な、圧倒的な演算処理速度を持っているわ。古典ビットなら0と1の回答しか出せないけど、量子ビットなら……そんなとこは言ってもしょうがないか。ま、その高い能力ゆえの恩恵に、あたし達の組織はどっぷり浸かってるわけ。具体的には、一般施設のセキュリティはほぼ無意味になるから、クラッキングが容易になるわ。どこの設備からも情報を引き出せるし、こちら側からの制御も可能というわけ」

 先週の作戦中にした信号機を操作や逃げる実行犯の追跡は、オーダー無しでは不可能なことだった。

「ただおいしい話にはだいたい裏があるわけで、オーダーも例に漏れない。これは技術者達の仮説だけど、量子コンピュータに対して遺伝的アルゴリズムやニューラルネットワークなどの自律化を促すきっかけを積極的に組み込んでいくと、やがて人間でいうところのが芽生える可能性があるらしいわ」

「ここまでついてきてる?」と声にせず、陽香は目を合わせるだけで問う。

 専門用語は分からないがそれがどれだけ危ういことか、優人でも用意に想像できた。

「アイザック・アシモフのロボット三原則の第一条じゃないけどさ、それは人類にとって危険なことよ。ある日、各インフラが一斉に制御不能になり、社会基盤が崩れるレベルの大規模な不具合が多発する、とも予測されているわ」

 その後にはフィクションの世界と同じ、カタストロフな未来が待っているかもしれない。

「素人の憶測ですが、そういうのってオーダーをネットワークに繋げず、独自のクローズドネットに隔離しておけばその……アルゴリズムとかの検証もしやすいんじゃ?」

「あたしも技術者に同じ質問したけど、そこは管理者に良識があることが前提の考え方だと、一蹴されたわ。管理者に悪意がある場合、すぐに破綻するってことね。それくらい慎重に扱わなきゃいけないものだと、上層部は判断してるみたい。ま、あたしらの組織は人数がそれほどでもないしね、仕方ないでしょう。だから現状、量子コンピュータであるオーダーはスペックが高いだけの計算機、ただのワークステーションのような運用しかされてない。簡単言えば、融通が利かない状態で使っているわけ。能力だけは高い、究極の指示待ちくんってわけよ」

 不覚にも、最後のは良い表現だなと感心してしまう。

「但し、これは単独で運用する場合の話。せっかく量子コンピュータがあるなら宝の持ち腐れにせず効率的運用が望まれるのは必然。そこで提案されたのが……オーダーに自我が生まれないように自律性に関わる部分を、人間の大脳皮質にあるニューロンの動作で補う手法よ」

 そこまで来てようやく本題の話が聞けると、優人は察して眉間にやや力が入る。

「具体的には人間の脳波や脳磁図を参考にしながら、選択、交叉、突然変異、学習とか、コンピュータが苦手をする部分を生身の人間の脳細胞に担当させる。そうすればネットワークに繋げても暴走の危険は低い。これでオーダーは計算速度が高いだけの単なるセキュリティ突破装置じゃなくて、この世界全てを監視・管理することが可能な万能機になるわけ」

 そこまでは夢のようなメリットだけの話である。

「でも現状は誰でもその役割が務まるわけじゃない。あたしも細かい理論はわからないけど、ニューロンの反応速度が一定以上あり、かつオーダーと干渉する際の負荷に耐えられる強度が必要らしいわ」

「そんな条件を満たせる人間は極希ということですか?」

 今まで曖昧にしか把握していなかった部分が鮮明になり始めてきた。

「そう、マコちゃんは数少ない適合者。それがアドミニストレータとしての条件でもあるわ。電子の妖精ならぬ……量子の妖精、というわけ」

「体が弱い原因はオーダーのせいなんですか?」

「詳しく説明するわ。仮に適合者であってもそのままじゃオーダーと接続することはできないらしいのよ。その……」

 続く言葉を躊躇うように、陽香は優人から視線を逸らす。

「特殊な処置が必要なの。オーダーとの接続を円滑にするために、シナプスの密度や神経伝導速度を上昇させるもための……投薬を、定期的に行う必要がある。精神刺激薬を改良したものでオーダーとの親和性を引き上げる効果があるわ」

「投薬?」

 優人はマコトが飲み薬を服用しているくらいは知っていたが、そこまで物騒な単語は初めて聞いた。

「ただその薬物も、生死には影響しないレベルの副作用までしか起きないわ。ただ日常生活はかなりしにくくなるのは確かね。自律神経が乱れやすくなるし、体内の各器官が弱くなるから運動能力も低下して栄養の摂取も効率がかなり悪くなるわ。だから、あの子が体育の授業とかで激しい運動はしなくて済むようにこっちから手配してるのよ」

 今まで接してきたマコトの一挙手一投足が頭の中で甦る。

 背が低く痩せ細った体。

 歩く速さが遅いこと。

 食事には消極的なこと。

 それら全ての理由が、一気に繋がっていく。

「投薬が身体面に掛ける負担はそんなとこね。ただ、それ以上にオーダーと接続すること自体に高いリスクがあるのよ」

 まだ他に何かがあるのかと、強ばった表情で優人は慄然とする。

「さっき脳波とかをオーダーにサンプリングさせるって言ったけど……それはオーダーに自己の脳神経、精神を一時的に預けるようなものなの。これはマコちゃんから直接聞いたことなんだけど、自分が奪われていく感触がするらしいわ。だからオーダーとの接続時間が長ければ長いほど、切断後に離人症みたいな状態になってしまう。他の管理部隊のアドミニストレータも同じ問題を抱えているそうよ」

 優人は以前、オーダーと接続しているマコトを何度か見たことがある。

 情報作戦室で複数のケーブルが繋がれたヘッドギアを被り、タッチパネルとディスプレイに囲まれたシートに鎮座していた。そのときのマコトは、酷く無機質に思えた。

 今思えばあれはまるで、科学技術が生み出した人工物へ魂を捧げているかのような、冷たい光景だった。

「簡単にまとめると……マコちゃんは、量子コンピュータとネットワークを安全に繋ぐための触媒みたいな役割なのよ」

 マコトは身も心も削る思いで日々を過ごしている。

 普通の人間では到底耐えられず、すぐに義務を放棄してしまうだろう。

「僕らじゃ代わってはやれないんですよね?」

「無理よ。あたしや優人じゃ、オーダーとマッチングすることは不可能」

「代わりの要因は補充できないんですか? せめて負担を軽減できれば」

「今のところ上層部からは、そういう人員を確保できた連絡は聞かないわ」

 優人が案を出しても陽香は淡々と答える。その泰然とした姿勢は「どうにもならない」と、部下へ無言のメッセージを示しているかのようだった。

 マコトは苦悩を抱えながら日々生活しているのに、何もしてやれないのが歯がゆく思えて、今日までそれを知らずのうのうと接してきた自分に嫌気が差す。

 その後、説明だけが済み解決しないまま沈黙が続く。

 陽香はPCで作業をしているが、優人は何も喋ることなく自分を持て余す。

 やがて夕暮れになって、オレンジの斜陽が室内に差し込む。それを鬱陶しそうに柳眉をひそめた陽香が、手元のリモコンで都庁の姿が伺える窓のブラインドを閉めようとしたときだった。

「こんにちは~、学校の委員会で遅くなりました~」

 廊下からロックの解除音の後、間延びする緩い声が司令室内の無音を破った。

 数十分前まで話題になっていたマコト、その姿は元気でいつもと変わらない。

 しかし事情を知ったばかりの優人は後ろめたく、普段通り気軽に声を掛けることはできなかった。ひとまず、昼休みから体調は良くなったか聞こうとしたが――

「マコちゅわぁぁぁん」

 瞬きする間もなく、物音すら立てずに相手の背後に回り込む様は、まさに忍びの如し。

 その衝動の根源は性欲である。

「さあ、これから陽も沈むし二人でラブラブチュッチュしようか? ん?」

 とても頭の悪い言葉に優人は呆れる。

「リ、リーダー。こ、こんにちは」

 マコトは自らを守るため両腕を胸に引き寄せる、それは小動物を思わせる仕草だった。

「あらん、あたし達の間に改まった挨拶なんて無用よ。むしろ敬語もいらないぐらい」

「そ、そんなのダメですよ。わたしはリーダーのこと尊敬してるんですから」

 陽香が「まあかわいい」と感激しつつ、二人だけの甘ったるい世界で雑談は続いていく。

 優人はしばらくぼんやりと二人の戯れを外から眺めていると、ふと思い当たる。

 マコトが来るまでは固く重かった雰囲気が今は欠片もない。

 陽香は普段サバサバした性格だが、物事に対し思慮深い面もある。本人の趣味も含むかもしれないが……やや行き過ぎたスキンシップを繰り返すのは、疲弊しながら毎日を過ごすマコトへの気配り、配慮なのではないか。

 いつもふざけている陽香の姿にリーダーの器が垣間見えた気がして、見慣れた二人の戯れが温かく微笑ましいものに見えてきた。

 だから優人はその後も、露骨ではない程度に二人を見続けることにした。

「まあまあ、よいではないか、よいではないか」

 陽香は悪代官顔負けのにやけ顔で、煩悩のままにマコトのスカートに手を伸ばそうとする。

「もう、それは悪ふざけ過ぎますー」

 艶かしい動きをする長い指をマコトが抑える――その一瞬、ある異常に気づいた。

 それは平和な日溜まりの中に浮かぶ影であった。

 スカートが浅く捲れたとき、肉付きが薄い右の太腿に、包帯が巻いてあるのが見えた。

 傷があると思わしき部分はガーゼでやや膨らみ、ただでさえ白い肌と細身が相まって、病的な印象を感じずにはいられなかった。

 どうしたのだろう。

 優人は今日の昼休みの屋上でのことを思い返す。あのとき、マコトは膝を揃えてアヒル座りをして足が見えやすかったが、包帯は付けていなかった。

 その後は保健室まで同伴していたため、午後の授業中から司令室に来るまでに、怪我を負うような何かがあったことになる。

 杞憂だろうか、単純にどこかで転んだだけかもしれない。

 ただそれを指摘したら、陽香とマコトの心地良い平穏が崩れてしまいそうな予感がした。

 だからその日司令室にいる間、優人は疑問をずっと胸の内に止めておいた。

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