第6話 キースとイヴァン
翌朝、ピータバロ大聖堂に隣接した聖堂美術館に、キースは一人で出かけていった。最近、同伴させてもらえないパトラッシュは、不満顔だったが、あいにく美術館に入れるのは盲導犬や介護犬の類だけなのだ。
ルネサンス風の豪華な入り口を通り、美術館の目玉の展示品が置かれる大展示室へ向かう。彼は、その向こうの部屋にある資料室を目指しているのだった。
キースは考える。
アンナのお墨付きがついたってことは、グレン男爵の話を作り話だとはね付けるわけにもゆかないし、”ヴァージナルの前に座る婦人”の中に、少年が入り込んでいるっていう話は、とりあえず信じるとして……
グレン男爵は、その少年は自分の息子で、別れた母親とよく似た絵の中の女性を慕って絵の中に行ってしまったのだと、言っていた。
……けれども、あの絵は、誰が見たって
頭の中に閃いた策を色々と練るものの、どうも上手くまとまらない。そうしながら、大展示室の終わりのブースまでたどりついた時、キースは、心臓が飛び跳ねそうなほど驚いた。
黒のレザージャケットに黒のブーツ。髪の色が深い亜麻色でなかったら、ちょっと、重たすぎるようなスタイルの男が、展示室の絵の前に立っていたからだ。
それは、彼が、昨夜、幽霊のアンナと散々話題にしていた……
「イヴァン……? あいつ、こんな所で、何してやがるんだ?
だが、キースのいる場所からは、何をしているのかよく分らない。
ああ、もうじれったいな。こうなりゃ、直接聞くしかないか。
そんなわけで、キースは、イヴァンに歩みよると、
「やぁ、昨日はミルドレッドを助けてくれて有難う。でも、こんな所で会うなんて、奇遇だなあ。……で、今日は何の絵を見に来たの」
なんて言葉をかけてしまったのだ。
振り向いた男の鋭い刃物みたいな瞳に、再び心臓がどきんとする。
けれども、無理矢理に笑ってみせた。……が、男は、ちらりと一瞥をくれただけで、また、絵の方へ向き直ってしまった。
普通にしていれば、女の子に騒がれそうな甘いマスクをしてるのに、この無愛想さはもったいないなと、キースは顔をしかめたが、彼が見ていた絵に目を移して唖然としてしまった。
”聖ミカエルの肖像画”
確か、アンナが教会で会った男も宗教画を見てたって言ってた。……って、ことは、こいつは、やっぱり、アンナが40年前に会ったっていう“イヴァン・クロウ”なのか。
次々と湧き上がってくる疑問。
「随分、熱心に見てるんだね。宗教画が好きなの? おたく、グレン男爵の館にいたってことは、美術収集家か何か」
イヴァンは、何も答えてくれない。っていうか、完全にキースは無視されている。それでも、ここで負けてなるものかと、
「俺は、この聖堂美術館と連携してる美術学校の画家だから、ここの展示物には詳しいんだ。この聖ミカエルの肖像画は、作者も年代もよく分からない作品だけど、戦火を免れた教会に残されていた絵ってことで、けっこう大切に管理されているみたいだよ」
すると、
「この絵って……競売にかけられる予定はないのだろうか」
「競売? あんた、この絵を買う気なの? やっぱり、どこかの画商か美術収集家なのか」
キースの脳裏に、にわかにアンナの肖像画を見て笑った、この男の表情が浮かび上がってきた。
「一つ、聞きたい事があるんだけど……俺が昨日、持っていた肖像画の少女。……“アンナ”をあんたは知ってるんだろ」
イヴァンは再び、むっつりと黙り込んだ。
「黙ってないで、俺の質問に答えろよ」
「肖像画の少女? 何のことを言ってるか、さっぱり分らないが」
畜生、とぼけやがって……俺はお前があの肖像画を見て、笑ったのをはっきり見てたんだぞ。
一旦、とんでもなく大胆になってしまった勢いは、もう止められない。ならばと、キースは最も禁忌な質問を彼に投げかけてしまうのだ。
「あんたのフルネームを俺は知ってるぞ。”イヴァン・クロウ”……っていうんじゃないのか」
その瞬間、少し後ずさる。けれども、イヴァンは意外なことに、キースの方に視線を向けると、ひどく穏やかな笑みを浮かべた。そして、突然、彼の肩に手を回して、ぐいと自分の方へ引き寄せたのだ。
「ち、ちょっと……待って!」
長身のイヴァンの胸元に入り込んでしまったキースは、まるで彼に抱きとめられてるみたいな格好になってしまった。これって、誰かに見られたら、俺とこいつが怪しい関係みたいに見えるんじゃないのかっ。そりゃあ、今のロンドンじゃ、そんなカップルなんて珍しくもないけど。
もの凄く焦る。焦る……。だが、
「騒ぐな。後ろにあの東洋人がいる」
「東洋人って……も、もしかして、マフィア?」
小声で呟く声にこくんと小さく頷くと、イヴァンは、
「有難いことに一人……だ。こっちを狙ってる」
狙われてるのは、こいつか? それとも自分か? 区別がつかずにキースは戸惑った。けれども、いくらなんでも、この美術館の中で、ピストルを撃ってくるようなことは……。
……が、
「奴らは場所なんか気にしないぞ。特に下っ端の奴はな」
「なら、どうしたらいいんだよ」
「二手に別れよう。左右にちょうど隠れるのにいい柱がある。あの銃口が、お前と俺とどちらを狙っているかは知らないが、なるべく姿勢を低くして逃げないと、頭を撃ち抜かれるぞ」
背後に殺人者を従えた青年画家は、泣きたいような気分になってしまった。こんな所で死ぬのは嫌だ。
「1、2の3!」
その声と共に、二人は、半ば転がるような体制で左右に分かれた。不意をつかれたのか、銃声は数秒後に響いてきた。……が、キースの方に弾は飛んで来ず、後から聞こえる銃声もすべてイヴァンの行く方向へ飛んで行った。
やっぱり、彼らの狙いはあいつの方かと、脳裏にグレン男爵の敷地で血まみれで息絶えていた、東洋マフィアの散々な姿が浮かんでくる。
これは明らかに報復だ。奴らを殺ったのは、やっぱり、あの野郎だったんだな。
銃を手にしたマフィアが柱の向こうに逃げたイヴァンを追いかけてゆく。キースは、よせばいいものを、その後を追い、そして、見てしまったのだ。
追っ手の目をくらませた隙に、その背後に廻ったイヴァンが、手にしたハンティングナイフの切っ先を敵の首筋に向けて、振り下ろそうとする瞬間を。
「イヴァン・クロウ! 殺すんじゃない! お前のお気に入りの“聖ミカエルの絵”に血飛沫が飛ぶぞ!」
そう叫んだ瞬間、キースは時間が止ったような気がした。
イヴァンの赤みがかった瞳が、虚をつかれたように、キースの方に向けられた。そりゃそうだろう。彼自身だって、自分がそんな台詞を言ってしまったことが、信じられなかったのだから。
警備員が走ってくる。それと同時に、聖堂美術館の警報が、けたたましく鳴った。その隙をついて、東洋マフィアは、イヴァンの脇の下をすり抜けて逃げていった。
そ知らぬ顔で、ナイフをブーツに装着した鞘にしまう男を目の前にして、戸惑いながらも、キースは、
「そのナイフ……今、巷で騒がれている切裂き魔って、やっぱりお前だったんだな。でも、例え殺人犯であっても、ミリーにしても、俺にしてもお前に助けられたって事には、とりあえず、お礼を言っとく」
だが、きつい口調でそう言ったものの……
また、穏やかに笑みを浮かべる彼の微笑に、たじろぐと同時に、ちょっと心を惹かれてしまった。
彼の背後では、あの“聖ミカエル”が絵の中で天使の羽を広げている。
殺人鬼じゃないか。……何で、こいつって、この絵の前だと、こんなに優しげに微笑むんだ?
……と、その時、
「……!」
突然、背後から銃声が鳴り響いた。
「おぃっ!」
その直後に前に倒れこんだイヴァンの姿に驚き、キースは慌てて彼に手を伸ばした。
どうやら、腕を撃たれたらしく、彼の肩の辺りから血が流れでている。先ほど、逃げていったマフィアが、警備員を振り切って出口に走ってゆく。うろたえながら、そちらに目を向けた時、
「あんたたち、一体どういうつもりなの! ここは、銃撃戦をする場所じゃないのよ!」
冷徹の女教師。レイチェルが彼らの前に姿を現したのだ。
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