最終話 きっと何かが変わるから
くわん、くわんっ!
ちょっと待てよと言いたげに、パトラッシュが、その後を追う。足元にからまってくるふわふわした毛並みを振り切り、キースがホールから正面玄関に出ようとした時、
「あっ、パトラッシュ! 鑑賞ガイドもいる」
見たことのある生徒の集団が、彼らを見つけてわらわらと集まってきた。その先頭にいるのは、キースの風景画を250ポンドで買った……
ミルドレッド……通称ミリー。
「お兄さん、レイチェルに会った? シティ・アカデミアと契約した?」
小悪魔的だけど、超絶に可愛い笑みを浮かべて近づいてくる少女に、キースは、あからさまに嫌な表情を浮かべた。そして、
「そんなもん知るか!」
「……」
一瞬の沈黙。
「やっぱりね……」
ミルドレッドは、うるうると潤んだ目をキースに向ける。今までとはうって変わって、清純派っぽく迫ってくる少女に、若手画家はちょっとたじろいでしまった。
「な、何だよ。急に態度を変えんなよ……えっと……俺、お前に悪いことでもした?」
焦って、その顔をそっと覗き込む。
「ねぇ、そんな顔されると、俺が困るんだよ」
戸惑ったような琥珀色の瞳に見つめられて、少女は、思わず、後ずさってしまった。高まった心臓の鼓動を彼に聞かれてしまいそうだったからだ。
……が、次の瞬間、
「お願い、この学院に来て! どうしてもお兄さんの助けが必要なの」
突然、まくしたててきたミルドレッドに、キースは、何がどうなっているのか、さっぱりわからない。その時、別の生徒が、言葉を挟んできた。
「日の目を見ない作品や作家を世の中に出す。それには、僕らも賛成なんだ。けれども、レイチェルたちみたいに、金儲けのために作品を集めるのは嫌だ。そんな作品に、僕らの親たちまでが、目の色を変えて飛びついてゆくっていうのにも、もう、うんざりなんだ。僕らは、この学園を変えたい! あのレイチェルを追い出して、僕たちだけのピータバロ・シティ・アカデミアを作り直したいんだよ」
それに付け加えて、ミリーも言った。
「けど、その目的のためにはお金がいっぱいいるのよ。私たちはレイチェルたちや親とは違ったルートでお金をためたい。そして、いつかは聖堂美術館を貸しきって収集した作品を、みんなに見せてあげたい。わかるでしょ? お兄さんの絵はいいわよ。これからもっと価値が上がるわ」
おい、おい。結局はそこかよ。
キースはちょっと複雑な顔をした。自分の絵を褒めてくれるのは嬉しいが、資金集めのために、俺に絵を描けっていうのか。
すると、ミルドレッドが、
「誤解しないで。お金のためだけに、こんな話をしているわけじゃないの。私、大聖堂通りの露店の絵って、すごく好き。あの中にだって世に出せば認められる作品は沢山ある。けれども、レイチェルや画商たちの集めたがってる絵は、埋もれているといったって、すでに価値が認められている絵だけなんだもの。私ね、いつも遠くから、お兄さんたちを眺めていたの。大聖堂通りの画家たちは皆、活気があって賑やかで……あの人たちなら、何か力になってくれるんじゃないかと。だって、私たちは所詮、子供だもの。誰か大人の手をかりないと絶対、レイチェルたちにはかなわない。ピータバロ・シティ・アカデミアを変えたいの、だから、ここに来て! 私たちに力を貸して」
こいつって12歳くらいだろ? 小学生にしては、えらく小賢しい事を言うと、キースは、真剣な眼差しの少女を呆れたように見た。そういえば、ここの学校って学力の方でも相当に高いんだっけ。
でも、私たちは、しょせん子供って言われても……俺だって、今日、17歳になったばかりなんだぞ。そりゃ、露店の仲間たちはあれでけっこう頼りになるけど……。
「そんな話、簡単に“うん”とは言えない。とにかく、俺は家に帰りたいんだ!」
キースは冷たく言って、くるりと踵を返した。
ミリーや他の生徒たちの視線が、背中に痛い。生意気なだけかと思っていたシティ・アカデミアの生徒たちの直向な姿に、このまま帰ってしまうのは、後ろめたいような気分がする。けれども、
「パトラッシュ、俺には関係ない事だよな」
キースはパトラッシュに念を押すように言うと、足早に歩を進め、ピータバロ・シティ・アカデミアの正門を後にするのだった。
* *
翌日、キースは聖堂美術館に展示された自分の絵の前に立っていた。
画家を目指して田舎から出てきた俺が、このピータバロの町に着いた時に最初に描いた、自分でもお気に入りの風景画。
何か変な感じだ。だって、俺の夢はいつか聖堂美術館に自分の絵が飾られて、みんなに認めてもらう事だった……それなのに、夢が実現した今は、それがちっとも嬉しくない。
実際のところ、俺の夢って何だったんだ? 金が欲しかったのか、名声か?
分らない……俺は自分で自分の気持ちが、さっぱりわからなくなってしまった。
その時だった。
「おい、キース、この風景画、絵画窃盗犯が描いた絵だって、えらい騒ぎになってるじゃないか」
背後から急にかけられた声に、びくんと身をちぢ込ませる。振り返ってみると、大聖堂通りの仲間が、気がかりな顔で立っていた。
「……でも、この絵って、お前が描いた絵だよな。なあ、一体、何があったんだ?」
「しっ!!」
キースは慌てて男を黙らせると、まじまじとその顔を眺めた。髪はぼさばさの髭面で、上着は油絵具まみれ。けれども、気を使う必要もないし、そばにいてくれると妙に頼りになるというか……そう、あの聖堂美術館通りの露店主たちって、そういう奴らばかりなんだ。すると、にわかにシテイ・アカデミアで聞いたミリーの言葉が頭に浮かんできた。
“……遠くからいつも見ていたの。あの人たちなら、何か力になってくれるんじゃないかと。
ピータバロ・シティ・アカデミアを変えたいの、だから、ここに来て! 私たちに力を貸して”
俺がやりたかった事、これからやれる事……それって
地位? 名声? ……ううん、そうじゃなくて……。
はっと目を見開くと、突然、キースは身をひるがえし、男に言った。
「今は何も聞かないで。でも、後で理由を話したら、俺についてきてくれるか? 納得がいったらでいいんだ! 無理にとは言わないから」
「え……そりゃ、仲間の頼みなら……でも、一体、何なんだ」
男がその台詞を言う前に、もうキースは駆け出していた。
「パトラッシュ、急げ!」
くわん、くわんっと鳴きながら、帆走する相棒に声をはずませて言う。
迷いが、霧が晴れるように消えてゆく。
絵の価値もわからない収集家に褒められて、自分の絵が売れたって嬉しいはずがないじゃないか! 俺は高値で売るために絵を描きたいんじゃない。絵が好きだ、本当に好きだから、そんな気持ちをみんなに伝えたかっただけなんだ。
ピーターバロ・シティ・アカデミアを変えるんだ! そして、いつかは聖堂美術館を貸しきって、日の目をみない作品や埋もれた才能を、みんなに見せてあげたい。
息を弾ませ駆けながら、キースは少し人の悪い笑みを浮べた。
でも、ミリーたちはやっぱり子供だ。俺の絵だけで、そんな資金が作れるものか。あの小ずるいレイチェルに対抗するには、きれい事ばかりを言ってはいられない。
「お前もついてきてくれるよな。しばらくは、どろどろした世界に足を突っ込んで、夢や理想なんて甘い言葉は言ってられないかもしれないけど、俺は大丈夫だから……」
豪勢な作りのピータバロ・シティ・アカデミアの校門の前で、キースはパトラッシュの頭をくしゃくしゃとなぜた。
それでも、いつかは、夢を現実にする。今はまだ、できないけど……でも、その分は
“好きなだけ描けばいいんだから。自分のキャンパスの中に”
* *
「門を開けますから、少しお待ちになって下さい」
キースが、名前を告げると、シティ・アカデミアの門番はレイチェルから彼の名前を聞いていたらしく、すぐに事務所から外に出てきた。
「この門を入ったら、もう、後戻りはできないんだろうな」
脳裏に貧乏でも楽しかった露店での生活が浮かんでは消えてゆく。すると、不意のあの小生意気なミルドレッドの顔が、その映像の中に紛れ込んできた。
「おぃおい、何であの子が出てくるんだよ……」
キースはちょっと焦ってしまった。泣かせてしまったことへの罪悪感もあった。それを誤魔化すために、そばにいたパトラッシュを撫ぜようと、彼の毛並みに手を伸ばした時、
後ろの通りを、黒塗りのバイクが通り過ぎていったのだ。
「えっ」
キースは、そのライダーの姿に一瞬、気をとられた。
黒いレザージャケット……?
まさか、あれって、王宮美術館で見た黒ずくめの男?
けれども、豪勢な造りの門が、彼と相棒のパトラッシュのために開かれた時、その姿は彼の記憶の片隅へと押しやられてしまった。
門の向こうに聳え立つ超豪華な名門校の建物。
ふぅと一つ息を吐く。それから、キースは、彼の足元にぴたりと寄り添った中型犬に言った。
「行こう! 真実を見つけたら、きっと何かが変わるから」
そして、これが後に、若い芸術家の育成に力を注ぎ、欧州美術界を手広く牛耳ることになるピータパロ・シティ・アカデミア総帥の優秀な片腕となり、画家にして聖堂美術館館長となる男、“キース・L・ヴァンベルト”が正式にこの学院の門を通り抜けた第一歩だったのだ。
ピータバロ 第一章 ~完~
第二章 【12枚目の肖像画】に続く
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