第2話 青天の霹靂

       

“ピーターバロ・シティ・アカデミア”


 12世紀に建築されたピータバロ大聖堂と同じ、初期イギリス・ゴシック様式を用いた繊細な彫刻をほどこした正門の石柱。建物の正面であるファサードの上には煌びやかなステンドグラスがはめこまれている。


「本当に、ムカつく建物だよなっ」


 学校というより聖堂といった風の校門の前で、キースはちぇっと舌を鳴らした。

 髪はバサバサ、油絵具で汚れた上着に破れたGパン。どう見たって、自分はこんな場所にはそぐわない。


 あの女の子を追いかけて、来ちまったけど……もらった絵の代金が多すぎたから返します。なんて言ったら、ますます怪しい奴だと思われないか。それでなくたって、近頃のロンドンじゃ、物騒な事件が続いてるっていうのに。キースは眉をひそめた。


 そうなのだ。ここのところ、首都ロンドンでは、小さいのから大きいのまで色々な事件が多発している。特に、今、新聞紙上を騒がしている連続殺人事件。さすがに郊外のピータバロ市にまでは、その被害の噂は聞こえていないが、今、おかしな事をしでかしたら、彼らみたいな露天商は、即、挙動不審者として警察に引っ張られてしまいそうだった。

 はぁ……と、ため息をもらし、足元にいるパトラッシュに目をやる。その時だった。


「よかった! 間に合ったのね。もう諦めてたのに!」


 不意に聞こえてきた声に、キースは驚いて後ろを振り返った。


 キャメルのスーツを着こなした、長身のセクシー美女。歳は20代後半か。

 ショートカットのブルネット。眼鏡の向こうの知的な瞳。


 美女は、目前の青年をはたと見つめなおす。そして、少し気を落した風にこう言った。


「違うわね……、どう見てもその格好は、うちの美術学院の生徒とは思えないわ……で、あなた、この学校に何か用」


 どうやら、この美女はシティ・アカデミアの女教師のようなのだ。訝しげな彼女の物言いにムカつきながらも、この際だ。と、キースはポケットに突っ込んであった250ポンドを無造作に差し出した。


「これ、お宅の生徒が俺の絵と引き換えに置いてったんだ。でも、俺の絵はこんな高値で売るような絵じゃないんだよ。あんた、ここの先生? 金持ちのご令嬢かなんか知らないが、もっと生徒に金の値打ちをきっちりと教えた方がいいんじゃないのか」


「あなたの絵を? うちの生徒が?」


 一寸、間をおいてから、その美女はふっと意味深な笑みを浮べて言った。

「という事は、あなた、絵描きなのね。なら、聖堂美術館に行ったことはある? あそこの展示物には詳しい?」


 “聖堂美術館”


 それは、ピーターバロ大聖堂に隣接したこの都市で唯一の美術館だ。いつか、その場所に自分の絵が飾れたら……それが、キースの夢なのだ。


「……そりゃあ、一通りの絵は全部見てまわってるけど……特に、今、特別展示されてる“神秘の降誕”はもう7度も見た」

「“神秘の降誕”! あの絵が好きなの? そう、おあつらえ向きじゃない。なら、私と一緒に来て!」


 美女はそう言うと、キースの腕を引っ張った。有無をいわさず、彼を学校の門の中へ引き入れようとする。


「ち、ちょっと、待ってくれよ! 俺をどこへつれてゆくんだよ!」


 慌てふためく青年をまるきり無視して、彼女は笑った。

「頼んでいた美術学院の生徒が間に合わないみたいなの。だから、アルバイトさせてあげる」


 仕事は、子供たちの絵画鑑賞ガイド。

 場所は聖堂美術館。


「報酬は250ポンドでどう?」


 また、250ポンドかよ! この学校って生徒も先生も一体、どうなっちまってんだ!


「おい、待てよっ! 俺はまだYESとは言ってない!」

「なら、今、YESと言いなさい」


 一旦開いた“ピーターバロ・シティ・アカデミア”の校門が、再び閉じられてゆく。校門の外に中型犬を一匹、取り残して。


 すわ、相棒の一大事!


 そう思ったかどうかは微妙だが……それでも、キースの相棒、名犬? パトラッシュは、クンクン鼻を鳴らしながらその建物の裏手に向かって駆け出した。


* *

 

 結局、鑑賞ガイドとやらのアルバイトを引き受けるはめになっちまった。


 聖堂美術館の展示室の入口で、貧乏な無名画家は深くため息をついた。


“でも、その格好じゃねえ……ここにうちの美術学院の制服があるから、とりあえずそれに着替えて”


 けれども、ブルネットの女教師から渡された、着替えは、“ゆるゆる”で“だぶだぶ”だ。


 他のサイズはなかったのかよ! この格好の方が前よりよっほど、変じゃないか。


 ぞろぞろと後をついてくるお坊ちゃん、お嬢ちゃん面をした生徒たちに目を向けて、キースは半ばやけくそで、正面に展示された一枚の宗教画の説明を始めた。


「“受胎告知”……数多くの画家によって色々な作品が描かれているが、これは「マタイによる福音書」の記述を元に描かれた1枚で、天使ガブリエルが降臨し、精霊によりマリアがキリストを身ごもった事を告げる場面を描いたものだ」

 すると、お坊ちゃんの一人がこう言った。

「そんな事、聞かなくても知ってるよ。ガイドならもうちょっと、気のきいた事を教えてくれないかなあ」


 何て、クソ生意気な子供なんだ。


「なら、どんな説明ならお気に召すんだよっ!」

 その時、じろりと睨みつけた目の先に、大きな愛くるしい瞳の黒髪の少女を見つけて、

「お前っ、さっき、露店で俺の絵を買っていた女の子じゃないか。いつの間に列に入ってたんだ? さっきまではいなかったのに」


 少女は、訝しげに即席の絵画ガイドを見やる。

「お兄さん、ここの学校の生徒じゃないでしょ。こんなところで何やってんのよ。貧乏が過ぎて偽装アルバイト?」

 すると、先程の小生意気な坊ちゃんが口をはさんできた。

「何だ、こいつってミリーの知り合い?」

 少女はその問いにぽっと、頬を赤くした。でも、それは、ほんの一瞬で、

「ううん、単なるの売れない画家よ」


 可愛い表情から、繰り出される辛らつな台詞。キースは呆れかえって、もう怒る気にもなれなかった。少女が抱えている白い包みを見て、彼は言う。


「お前、ミリーって名前なのか。その手に抱えている大荷物は何だ? 美術鑑賞にそんなもん必要ないだろう」


 四角い形……絵か何かか?


「ミルドレッドよ。みんなはミリーって呼んでるけど。この荷物は……気にしない、気にしない。それより、“受胎告知”の隣にある“風景画”の説明をしてよ。この絵の方がずっと、私は気に入ってるんだから」

「“風景画”? でも、これってたいして名もない普通の画家が描いた模写だぞ」

「いいの! みんなも集まって~! お兄さんの説明を聞きましょ」


 ミリーの一声で、列になっていた生徒たちが我先に“風景画”の元に集まってきた。

 青と白と黒を複雑にからみあわせた夜空に黄色い星が見え隠れした、ちょっと変わったタッチの絵。


「ち、ちょっと待てよ。この絵より、あっちに展示してある“神秘の降誕”! ほら、せっかく聖堂美術館に来たんだから、あれをまず見なきゃ駄目だろっ」


 何をおいても、ここの展示物のメインはやっぱり、“神秘の降誕”じゃないのか。

 こいつら一体、どうなってんだ。確かにこの絵は俺も好きだが、説明なんてよく知らないぞ。


「いいのよ。あの絵はレイチェルが見ててくれるから」


 ミリーは意味深な笑みを浮べると、“神秘の降誕”を見学する人垣の後ろに立って、彼らたちの方を見ていた、ブルネットの女教師を指差した。


 レイチェル - 美人で長身のセクシー女教師 -


 けれども、何かが腑に落ちない。どこかが怪しい……すると、彼女は、そんな青年の心を見透かしたかのように、にこやかな視線をこちらに向けてきた。ミルドレッドといえば、ポケットから携帯電話を取り出して、指先を動かしている。


 こんな場所でメール? ……本当に不真面目な奴。美術鑑賞だって、一応は授業だろ。


 だが、キースが眉をしかめた瞬間に


 ジリリリリリリッッ!!


 警報が鳴った。

 そのとたん、聖堂美術館の明かりという明かりが、すべて消えてしまったのだ。


「何だ、何が起こったっ!」


「皆さん、落ち着いて! 大丈夫です。その位置を動かないで! 明かりはすぐにつきますから」


 警備員たちの大きな声が、広い館内にこだまする。慌しく彼らの靴音が響き渡り、すぐに懐中電灯を手にした数名が、あせった様子で“神秘の降誕”ブースに駆けていった。


 ざわざわと不安げな人々の囁き。

  

  停電? でも、何で警報が鳴ったんだ。

  “絵”……もしかしたら、“神秘の降誕”を狙って?

 

 そういえば、ここのところ、頻繁に新聞誌上を賑わしている不穏な事件の数々。


 まさか……な。


 キースの脳裏に、そんな事が浮かんだ時、ぱっと館内の照明が点灯した。

 どきどきした気分で、絵の展示スペースに目をやる。

 

 「大丈夫だ! 絵は無事です」


 警備員の声に、客たちは一斉に“神秘の降誕”に目を向け、ほっと息をついた。


 なぁんだ。無事だったのか


 ちょっと期待をはずされて、キースは苦い笑いを浮かべた。絵画泥棒の現場に居合わせたなんて話が本当なら、絵描き仲間の中ではかなりの自慢になるのにな。ほっとしたけど、がっかりもした。そんな複雑な気持ちで、”神秘の降誕”が展示してある宗教画のブースに目をやった時、


 何だ……あの男?


 キースは、別の宗教画の前に佇む、黒ずくめの若い男の姿に眉をひそめた。


 バイク用の黒いレザージャケットにブーツ。髪が亜麻色でなかったら闇の中に溶け込んでしまいそうな……絵を鑑賞しに来たにしては随分、不釣合いな格好。それに、その男の周りの空気だけがやけに重い。


 ……が、その時、


「さあ、電気もついたし、みんな、もう帰りましょ」

 いつの間にか絵画ガイドを差し置き、生徒たちを先導しはじめたミルドレッドが声をあげた。


「ち、ちょっと待て。まだ、ほとんど“絵”らしい“絵”は見てないだろ」

「いいのよ。もう飽きちゃった」

「おいっ!」


 自分だけを残して、とっとと館を出てゆく生徒の一団。あせって、女教師レイチェルの方を見てみると……彼女も涼しい顔で彼らの後をついてゆく。


 鑑賞ガイドって……そりゃあ、こんなんで250ポンドもらえるなら、ぼろいアルバイトだけど……

 こいつら……うさん臭すぎるぞ!


 キースは、はあ……とため息をついて、先ほどまでミリーたちが見ていた“無名画家の風景画”に目をやった。

 その瞬間、


 何いィィ!!


 あまりの衝撃で心臓が口から飛び出しそうな気分になった。


「俺の絵!!」


“無名画家の風景画”はそこにはなかった。その位置にあったのは、彼の露店でミリーが250ポンドで買っていった、


 “キースの風景画”だったのだ。


「な、何で俺の絵がこんな所に!」


 まさに晴天の霹靂。キースは、どきどきと辺りを見渡した。


 “神秘の降誕”の方に気をとられて、ま、まだ、誰も気づいてないみたいだ。

 警備員がやってくる前に、早く出て行かないと、これは、かなりヤバい……。


 あまり急ぎすぎても、不自然かもしれない。そろりそろりと忍び足で展示ホールを後にする。こんな状況の中に、自分の大事な作品を置いてゆくのは忍びなかった。けれども、


 ごめん。俺の絵!


 出口あたりで、キースは、もう一度、自分の風景画に目をやり、それから脱兎のごとく駆け出した。


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