最終章 ドゥーガの火床<5>

 はじめ、王は“金属(かね)”になってしまったのかと思った。ユーリクのように。

 漆黒の夜風のようだった髪が、豊かに波打つ白金(しろがね)色に変わっていたからだ。

 蝋面のように色味もなく強張った顔面以外、ザラスカヤがそうだったように鱗状の鉄で覆われてしまっている。だが、輝いてはいなかった。焼かれた鉄のように白い。

 手で壊せる、無我夢中で王を“蝕む”魔鉄の残滓を引き剥がしながら、叫ぶ。

「陛下、皆が、貴方様の帰還を森境で待っています。悪夢は終りです、エルスラン様!」

 中から現れた、いっそうしなやかでいて力強い王の手は氷のように冷え切っていた。エルリフはその手を力いっぱい握り、何度も王の名を叫ぶ。

「ああ、莫迦な! 魔鉄の円柱が、金槌一つで折れるなんて! どうして、どうして……!」

 きゃあ! とイズーが叫んだ。彼女の背後から皺だらけの腕が伸びて、羽交い絞めにしようとしていた。妖婆が最後の執念を燃やして襲い掛かってきたのだ。

 イズー! とエルリフが悲鳴をあげたその時。

「……余の魂と……結びつけたのはお前であろう、女」

 忘れ得ないほどに、深く揺ぎ無い男の声。

 まだ半身を鉄で覆われたままのエルスランが、意識を取り戻していた。

 立ちあがろうとしては、よろめく。そのたびに、ばりん、ばりん、と、鉄の鱗の残骸が散らばった。が、ついに一歩、一歩と踏み出した。すっと伸びた長身が、妖女を見下す。

「その娘を離せ。余の臣民を苦しめるものは、容赦せぬぞ」

「う、うるさいよ! 憎たらしい、憎たらしい、人間め……!」

「お前は憎しみに溺れている……愚かな“人間”のように。それでもかつては、楽園を滅ぼした男(エルスラン)を愛していたのだ」

「……っ!」

 ザラスカヤと同時に、なぜかとらわれのイズーも、驚愕の表情を浮かべた。

「余は溶かされ鍛えられ壊され、そして今、鋳なおされた。お前もまた、知らず変わっていったのだ。お前たちドゥーガの星の旅人たちの記憶は、余が国史として語り継ごう……」

「いや。一人にしないで、死にたくない……エルスラン様!」

 今度は、”イリィナ”になって嘆願する……その姿にもう女神の面影はない。エルスランの猛々しい瞳からも冷ややかさが消えていき、憐れみだけが残る。

「……安心するがいい。死ぬのは、誰しも一度だけだ」

 あ、あああ、あああ! とむせび泣き、倒れ伏した妖婆を破壊から逃れた甲殻生物たちが取り囲み、ケタケタと嗤(わら)い始めた。

 エルスランが無造作にイズーの手をとり、エルリフの方へと押しやった。エルリフは慌てて彼女を抱きとめる。

「しっかりせよ、敵地で油断するな」

 王にしかりつけられて恐縮したエルリフは、思わず、あっ! と叫ぶ。

「へ、陛下! お耳が、お耳が、治っています!」

 何、と手を伸ばし、元通りになった右耳に触れた王の、引き結ばれていた口元が緩む。

「これは上々……欠けたるものを見事直した。褒めてつかわすぞ、エルリフ!」

 が、王はそのまま憐れみに満ちた目線と手とで、王はエルリフの左耳に触れた。

 王の気遣いにエルリフは無言で頷き返し、苦く笑ってみせた。


 三人は、破壊のるつぼと化したドゥーガの火床から急いで逃れると、橋の上にさしかかった。そこにはいまだ血だまりの中で壮絶な姿をさらしている“彼”が、居た。

「ダニーラよ……イリィナは、いつもお前を案じていた。余も、実の弟のように思っていた。臣下の不徳は主が至らぬせい。その気高さこそが我が心に留まるだろう……永久に」

 そっと、エルスランは身を屈めた。ダニーラのまだ柔らかさのある指から銀の指輪を抜き取り、自身の右手の指にはめた。片膝をつき、頭を垂れて祈りを捧げる。

「エルスラン様、これを……」

 イズーが頃合を見計らって差し出したのは、ダニーラが外した黒いマントであった。エルスランが無言で見返すと、イズーは慎ましく目を伏せながら王の肩から広い背へと、かけた。大きな黒い翼のように背に広がったその上を、白銀の髪が天の川のように流れる。

 その時、距離が縮まったのを契機にするようにイズーが王に切り出した。

「陛下、あの。もしかしたら陛下なら、わたくしの素朴な疑問の答えをご存知では、と」

「聞こう」

「昔、エルスランという名の英雄が鉄獣たちを倒して楽園を滅ぼしたということですが、今より技術的にも劣っていたはずの部族社会が、どうやって鉄獣に勝てたのでしょう?」

 エルリフもそういえば、と思う。

 エルスラン王が振り向いて、イズーを戦友と相対するように眺めて答えた。

「知恵の女神さながらのそなたのこと、余に聞きたいのは答えではなく、答え合わせ、であろう。おそらくそなたの推察は……正しい」

「過分なお言葉ですわ……でも、その通りです。ではやはりそうだったのですね」

「な、何がそうだったんだ、イズー。俺、全然わかんないよ……?」

「貴方も少しは考えなさいよ。古代のエルスランはザヴィツァ王のような男だったってこと。多分、月の娘の恋心に取り入って、自分の鉄獣を造らせて襲撃したんでしょ!」 

 イズーはエルリフには砂をかけるかのように投げつけて、ぷいっと一人で歩き出した。

 地上への螺旋階段へと急ぐ。長い階段を前にして、どっと疲労感がのしかかる。

 振り返った王の眼光がエルリフのそんな無気力を打ち砕く。

「先に参るぞ」

 マントを片手で手繰り、王は闇の階段に素足をかけた。仄かに輝く髪が覆う背を二人も追った。


 洞窟から這い出て、小屋の外の空気を吸い込む。

 地上は、夜だった。来た時とは違い空気は澄み渡り、天頂には星ぼしが瞬いていた。

 エルリフとイズーは同時に地面に座り込み、息を整えた。近くの岸辺にダニーラとイズーが乗ってきたと思しき小舟があった。先に出たはずのエルスラン王が見えない。

 その時、イズーが泣きじゃくりながら、火護りの刀を振りかざしてエルリフに打ちつけてきたからたまらない。

「い、痛いっ……ど、どうしたんだよっ、さっきから、なんで機嫌が悪いんだ?」

「バカ、バカ、大バカ! ずっと我慢してたのよ。魔物に飛び掛ったり火に飛び込んだり、柄でもないって言ったでしょ! 一人で死ぬようなまねばかり、ひどいじゃないの!」

 いつも彼女を律していた理性など何もない、むき出しで、身も世もない怒りの奔流だった。エルリフは胸をつかれた。打たれるままになりながら、深く落ち込む。

「ごめん……全部、ごめん」

「すぐ謝ってばかり、全部って具体的にどれとどれとどれとどれよ?! それにまだあるわ。妖精女に向かって別人の美貌を褒めるなんて……しかも、男の!」

「だ、だってあれは、天地神明に誓って事実だったんだからしょうがないだろ!」

「なにが、しょうがないよっ! 挙句あんな女と、あたしの目の前で……あんまりだわ。ダニーラ様が止めてくれなかったら、あたしも湖の底に行くところだった!」

 ポロポロと、大粒の涙をこぼすイズーの姿が、エルリフに落雷のような衝撃を見舞う。

 気がつくとエルリフは彼女をぐいと引き寄せ、口づけで言葉を封じていた。

 驚きに身を竦めたイズーは、しかし、エルリフがぎこちなく離れるまでそのままでいた。

「イズー……イズムルード、聞いてくれ」

 怒ってもなお美しい彼女の手を取る。御互いに火傷だらけ煤だらけだが、仕方がない。

「俺は、もう君を置いていったりしない。君が大好きだ、君が居るところが俺の居場所だ。君が……素敵すぎて上手く言えないけど……俺は、バカで変態かもしれない、けれど努力してなんとか直す。だから……お願いだから、俺と一緒に暮らしてくれないか」

 鋼に最後の一打をたたき込むように、一言、一言をエルリフは言い切った。

 まっすぐな眼差しの先、打たれたイズーは、目を大きく見開いていた。それがじんわりと、潤んでいく……どこか飼い犬がようやく芸を覚えたのを愛でるような眼差しで。

「……本当? よかったわ。あたし、こんな目に遭ってるのに貴方がずっとトンチンカンな事しか言ってくれなかったらどうしてやろうかって……!」

「でも、君が俺のこと、どうしても好きじゃないなら……」

「好きでもない相手のために、ここまで付き合うあたしじゃないわよ! ……ばか」

 エルリフは歓喜のままに、俯いた彼女の染まった頬にかかる美しい銅色の髪に触れた。

「誓いのしるしに、その、ちゃんと、口づけ、したい。しても……いい?」

 イズーはさっと目を伏せて、俯いた。あるいは、頷いたようにも見えた。

 怒られないように、今度はゆっくりと彼女の顎を持ち上げる。

 再び口づけで触れた彼女の唇はとろけるように熱かった。互いの見えないはずの心が溶けだした鉄色のように合わさって、指の先までが燃えるよう。

 天にも昇るような血のたぎりを抑えつつ、一度離れる。少し背伸びをして今度はイズーが両腕を伸ばし、エルリフの首にしがみついてきた。

「前から思っていたのだけど、貴方って、とってもかわいいわ」

「かわいい? どうして。俺は……」

「不本意そうな顔しないの! 貴方の腕が、大好き……ねえ、きつく抱きしめて……!」

 イズーが、エルリフの胸に頬を寄せようと顔の向きを変えた。

「ん……?! ぎゃあああ!」

 ぎゃあ? とイズーの目線の先を追ったエルリフも、人影の存在にうわあっと叫ぶ。

 そうだ、ここは二人きりの世界などではなかったのだ。

 一体いつから見ていたのか。もしやずっと、か。実は近くに居たらしいエルスラン王が、

 二人のほうを暗がりから無表情で見つめていた。

 顔を真っ赤にしたイズーが弾かれたようにエルリフを突き放し、弁明する。

「へ、陛下! ああああの、キャア! だなんて、大変な失礼を致しました!」

 王は、よい、とマントの陰から鷹揚に手を振った。

「続けよ。余など居ないものと思え。ただし……あれなる者たちもそう思っているかどうかは、預かりしらぬ」

 羞恥に頬を染めたまま、エルリフは王が目線で視るよう促す方角へ振り向いた。


 あれなる者たち……それは、岸辺で貧しく暮らしていた半妖人(フェヤーン)たちの、集団だった。

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