御身、しろがねの獣となりて
ゆきを
序・欠けたる月の教訓
“ヴァルーシ王国の中央(ゼヴ)の北、大森林(セリガ)の中にあるドゥーガ湖が半月形をしているのはお前たちも知っているね。でも大昔は満月みたいに真ん丸だったのさ。
どうして形が変わったのか、昔話を聴かせてあげよう。
昔、天界に住む月の娘が居た。
円(まろ)やかに美しく、いつも満ち足りた満月の彼女は、卵の形をした舟を漕ぎ出しては地上の様子をこっそり見下ろしていた。地上には天界にはないものが沢山あったのだ。
中でも一番不可解なもの、それは…… ”死”。
死に怯え暮らしている地上のものたちに、永遠の生の素晴らしさを伝えられたら。
母である太陽の目を盗み、月の娘は、姿を変える魔法の鏡と、とんがり耳の妖精たちといっしょに円いドゥーガ湖に降り立った。月の娘は嬉しそうに、永遠に生きる鳥や獣、花々を生み出していった。妖精たちはいつも旅先でするように、石の中の鉄や不思議な鉱石を探した。彼らはとても器用だったので、魔法の火床(ほど。鍛冶が鉄を熱する場所のことだよ)からひとりでに動く青銅の兵隊や、言うことをきく鉄の獣を作り出した。
湖の畔で栄えたその町は”楽園”と呼ばれた。森や原野で厳しい暮らしを送っていた人間たちは、初めの頃は楽園に憧れのまなざしを向けていた。人間の族長が、女王の姿をした月の娘のもとに招かれるようにもなった。しかし……
やがて人間たちは、楽園と、不死の生き物たちを魔物と呼び始めた。
人間は死への恐れと同じく、いやそれ以上に、不死も恐ろしいものだと思っていたのだ。
ついに族長は兵を集め、鉄の獣たちを湖底へ突き落とし、楽園を略奪し、王を名乗った。
月の娘の身にも危険が迫ると、太陽の母はおおいに怒って人間たちを罰し、雷を落とし、彼らに与えた鉄の武器をただの石くれへと変え、魔法の鏡も割ってしまった。
怒りの収まらぬ母は、連れ戻した娘を”新月”という名の檻の中に閉じ込めた。
愚かな娘は泣きに泣いた。逃げ出す時、彼女は愛する妖精たちを置き去りにしたのだ。
娘は怒れる母と憂いる大海の父の前に身を投げ出して、懇願する。
わたくしの身はどうなっても構いません、どうか、地上にいる不死の動物たちや妖精たちを、”永遠”という孤独からお救いください!
母は娘の願いを聞き入れ、娘の身体の半分と引き換えに楽園に死の呪いを蒔いた。
死すべきさだめとなった妖精たちは森にやってくる人間、特に王を呪うようになった。ドゥーガ湖の円い湖面に映る影を見るたび無邪気だった頃の月の娘を思い出し、涙した。そして湖に楽園の残骸を投げ込み、埋め立ててしまった。
以後、湖は半分になり、いっさいの光を映さなくなったのさ。
さてお前たち、もしも王様が湖に近づこうとなさっていたら、お止めせねばならないよ。そして何より、とんがり耳の半妖人(フェヤーン)を見かけたら注意するんだ。青血人(キリダイ)や人狼人(ドラク)のように牙も持たぬし、顔立ちも優しげ、天の恩寵を失った妖精なんてもう人間と同じくらいの寿命しかない。けれど、まだ古い血のなかに人間への恨みと月の娘への愛憎(おもい)を隠し持っているからね。
ゆめゆめ忘れぬように、良い子たち……”
……ヴァルーシの古老の話りより
※
眼下を、緑の大地が飛び去っていく。
自分が駆けているのか。世界が回っているのか。
森の入り口の陽だまりで、純白のヴェールで慎ましく頭を覆った女が振り返った。
太陽に雲がかかる。真鍮さながらに美しく輝いていた彼女の姿も翳りに覆われる。
陛下……と、彼女は、深く憂いを帯びたまなざしをこちらに向けた。
陛下、わたくしのエーリャ。どうかお気をつけになって。愛する御方……!
しかし。響きわたった金属(かね)の音が耳朶を打ち、懐かしいその声を、掻き消した。
(………!)
金襴のカーテンのひだの陰影、ビロード色の闇に沈む寝台で、男は怯えて目覚めた。
鳴っているのは夜半の祈りの“鐘”の音であった。
ぐっしょりと汗をかいている。一瞬、自分がどこに寝ているものか分らなくなる。
低い半穹形の天井の贅を尽くした居室。壁画には太陽(エル)の化身たる竜を中央に光と闇の創世神話が貴石のモザイク模様で描かれ、仄かな光彩を放つ。
人の姿で描かれた者がただ一人、森の魔王に剣を振り下ろしている。
伝説の古代王国の王……エルスラン(太陽を与えし者)だ。
それを見て、彼は“自分”がどこの何者であるかを思いだす。
物憂く、自身の名前の由来となった古代王から目を逸らし、思いを巡らせる。
近頃、なぜ同じ夢ばかりみるのか。王が森に入るのは年に数度……特に北の大森林(セリガ)の入り口に位置するドゥーガ湖付近は、古い呪いのせいで禁足地になっている。
黄金の指輪が光る両手が、胸に下げたユーリク神の胸飾りを無意識に掴みよせる。
呪われようとなんだろうと、王には逃げ込める森の翳などないし、自由な風でもない。
(貴族どもは王家の支えとなるどころか、玉座を取り上げようと躍起になっている……)
《エル………エーリャ、どこにいるの……》
突如、耳元に囁かれた女の声に、かっと、彼は目を見開いた。
「イリィナ?!」
夢ではなかったのか。妃の名を叫んで、今度こそ跳ね起きた。
雲母硝子を張った窓がいつの間にか開き、黒いビロードの幕が揺れて、雪と月から発する青白い光が入りこんでいる。下ろした素足が、毛長織りの絨毯に触れる。
声はもう、彼方に消え去っていた。だが、窓は……開いたままだ。
金欄の夜着を脱ぎ捨て、冷気が吹き込んでいる窓辺に立つ。
すると、また。
《エーリャ……エーリャ、わたくしはこちらよ……》
熱情に浮かされながらも沈着に、彼は窓から身をくぐらせた。屋根に素足をつけて立つ。凍える夜風が長い黒髪を戦旗のように吹き流す。
王宮は王都(セヴェルグラド)を見晴るかす丘の頂に建っていた。
晩秋の蒼褪めた月光が、王城と、城壁の向こうの都を照らし出す。白石造りの城の壁は氷の宮のように輝き、はるか眼下の広場の石畳は、底知れぬ湖面のようだった。
ぎり、と彼は歯軋りし、足元を震わせている自分自身を嘲笑した。下の屋根まで二ミーツァ(メートル)ほどである。
闇に身を委ねよ。身一つで跳べ、どこまでも。彼女の声のする方へ。
飛び降りた。よろめきながらも金板で飾り立てられた屋根の縁になんとかしがみ付く。
王家伝来の宝物を納めた武器庫へと、屋根を音もなく走り抜け、壁を伝い下りる。武器庫には父王が強権をふるってドゥーガ湖から手に入れた秘宝の“獣”が安置されている。
《そうよ! エーリャ。わたくしは、ここよ……!》
(イリィナ……ああそうか、お前は、こんなところにいたのか……!)
夢と現実のあわいで武器庫の前に降り立つ。
「へ、陛下、一体、なぜ、こんな……?!」
衛士が恐怖の叫びをあげた。開けろ、と言ったつもりだったが、自分の声は何かうなり声のようにしか聞こえなかったらしい。目の前が赤く瞬いた。強く手を振り下ろす。指輪で顔を切られた衛士が悲鳴をあげて倒れこむ。
その時。鋼鉄の軋む音が武器庫の奥から近づいてきた。
鉄扉の向こうで、巨大な重量を持つモノがギイイギイイイイ! と爪を立てている。
衛士から奪った鍵で錠前を開ける。両開きの扉に手をかけた、その時。
陛下! という悲痛なまでの懇願の声が、足元にすがり付いてきた。乙女のように透き通る白い顔(かんばせ)をした、亜麻色の髪の少年親衛隊員だった。
「カローリ=エルスラン、このような夜中に、そんな薄着で……?! おそれながら“黒狼”は永久封印に処すと仰せになられたばかりでは……!」
「お前には聞こえないのか。イリィナが、呼んでいる……この中に、あの“獣”の中に閉じ込められているのだ!」
「陛下、お気を確かに……! 本当に、お忘れになったの?」
「なんだと? 余が、何を忘れたというのだ、ミーチャ!」
黒衣の少年を足蹴にする。闇の中、青褪めた顔で遠巻きにしている人々は誰も動かない。
蹴られた少年がまなじりに涙を光らせ、掠れそうな声でなおも取りすがる。
「……陛下、ああエルスラン様! 王妃様は、イリィナ様はもう二年前にお亡くなりに!」
その言葉は、形無きものなはずなのに心臓を抉るように貫いた。
胸から溢れ出した鮮紅色の悲嘆の海に、ぽかりと“正気”が浮き上がる。
武器庫を揺るがすほどの金属音、それに王(カローリ)の狂気の兆候に親衛隊員も肝を冷し、宮廷人や宿直の兵士らも集まり出している。
冬の真夜中に薄布の夜着一枚で怒鳴り散らしている王がどれほど異様で、“ミーチャ”がどれほど胸を痛めて宥めようとしているのか、徐々に理解していく。
大切にしていたはずのものが、失われていく。
とうとう、自分自身の頭蓋骨の中身まで失おうとしているのか。
この夜を境にエルスラン王は自分の魂が割れようとしているのを悟った。
僧侶にも、医師にも、呪い師にも治せない“業(ごう)”。
直せるのは、炎と水と金槌の使い手、強き腕と曇りなき目をした者のみであろう、と。
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