零和元年

とだまどか

零和元年

「新しい元号は、レイワであります」

 余り勿体ぶることなく官房長官が発表する様子が、定食屋の液晶テレビに映されていた。常連の男たちは関心があるような、ないような表情でそれを注視している。

「メイワ?ヘイワ?」

 と誰かが言った。その問いかけに答える者はない。官房長官が揮毫された元号の入った額を顔の横に掲げる。取り澄ました顔つきだが、これは今世紀における歴史の一幕、ハイライトのひとつとして残り続ける場面なのだ、その中心に俺がいるのだ、という思いが口の端に浮かんでいるように見えるのは気のせいだろうか。滝の落ちるようなシャッター音。一方でテレビの画面上では、手話通訳の四角いワイプが額の上にかかっていて、肝心の元号が見えていない。「おいおい、かぶってるぞ」、と俺の隣の席にいた作業着の男が画面に向かって文句を言った。

 手話のワイプがフェードアウトし、額の字が明らかになった。

「『零和』。レイワだ」

「なんじゃ、そりゃあ」

「画数が多すぎるんじゃないか」

 一渡り感想を言い終えると、男たちはにわかに関心を失った様子で、テレビから視線を外した。腕組みして戸口に立っていた店主も厨房に戻って行く。俺もいまさっき出されたばかりの生姜焼き定食に取り掛かることにした。味がやたらと濃い。この辺りでは珍しく禁分煙がされていない飲食店なので、ヤニで舌がバカになっている人間向けの調味になっているのだろう。

 少し早い昼食を片付けて、熱い茶を啜っている頃、テレビでは内閣総理大臣が元号の説明を始めていた。

「『零和』とは、英語で言うところの『ゼロ・サム』であります。ウィキペディアによりますと、これは『複数の人が相互に影響しあう状況の中で、全員の利得の総和が常にゼロになること、またはその状況』だとされます。

 ゼロ・サムの戦略的状況においては、一方が利益を得ることは、他方が損失を得ることを帰結します。社会においては、非ゼロ・サム的状況、すなわち『ウィン・ウィンの関係』などということが言われますが、よく考えてみていただきたい。無から有は生まれません。エネルギー保存の法則という科学における初歩の原理がこれを裏付けています。ウィン・ウィンの関係といえども、より巨視的に見れば、同じ土俵に乗ることができないアクターから価値を奪った結果であるにすぎないのです。ここでもやはり、見方によっては零和の関係が成立していると考えられます。

 仮に考えられる全てのアクターが同じ戦略的状況に置かれた場合、必然的にそれはゼロ・サム的状況になります。零和でないということは、平等でないということなのです。全ての国民にチャンスを。それが我々が新元号に込められた思いです。皆さんと一緒に、真に平等な社会を築いていきたいのです」

 首相は腕を広げて熱弁を振るっている。

「わけがわかんねえな」

 奥の席で一服していた男が漏らした。

「平等だとよ。俺にもチャンスが巡って来るってことかねえ」

 いつの間にか俺の席に居たヤツが不意に話しかけてくる。辟易しつつもつい返事してしまう。

「どうだか」

「しかし、総理も随分お疲れのようだね。モノの言い方も何だかヤケッぱちみたいだよ」

「疲れもするだろうさ。何しろこんな状況だ」

「こんな状況ってえと、どんな状況だい」

 俺はもう返事をしなかった。周りの客がちらちらとこちらを見る視線が気になったからだ。なにしろ、話しかけてきたヤツは大きめのイエバエに過ぎない――醤油差しの周りを飛び回りつつ、羽を震わせて器用に人語を操ってみせやがる。こっちは虫と会話して孤独を紛らわせなければならないほど焼きが回ってはいない。

 さりとて、どんなことでも慣れれば慣れるものだ。これが始まったのは確か三か月ばかり前のことに過ぎないし、結局のところ誰も、何の説明も付けられずにいる。それにも関わらず、ハエが喋ると言うことを素直に目の前のこととして受け入れてしまう適応力というのは、適応力というよりはむしろナアナアで現実と妥協する弱さに近いと思われなくもない。

 鳥獣や草木がモノを言うのだ。舞台設定によれば水玉ワンピース着た少女が頬を染めて憧れるファンタジーの世界になったかもしれない。しかし現実は甘くなかった。ヤツらは人語とそれを扱うだけの知性を得たのみならず、人間相応の権利意識まで身に着けていやがった。ハエなどはまだ可愛い方だ(いや、決して可愛くはないが)。虫どもときたら、せいぜい残飯に取り付いてぶんぶん喚くぐらいのことで、以前より他の害をもたらすことはない。一人の部屋でいきなりゴキブリに話しかけられたりしたら気味は悪いが、気味が悪いという以上の害はない。虫は気ままなのだ。問題は、人間と同じ『戦略的状況』に立とうと思い立った連中である――。

 テレビではコメンテーターが新しい元号についてアレコレと述べ立てている。俺はスマートフォンを取り出し、ネットニュースのコメント欄なんかも浚ってみた。昨今の混乱に対する政府の対応について、種々の意見はあるようだが、元号自体の趣旨には大体みんな得心し始めたようだ、という空気を感じる。真の平等。本当によいものなのか、実現可能なものなのかは措くとして、それを意識しなければいけない段階に直面しているということを、誰もが薄々気付いているらしいのだった。

 勘定を済ませて店を出ると、商店街のアーケードを見上げた。底の灰がかった雲が密度を増し始めている。そのうち、一雨来そうである。

「だから、奥さん。分からんかなあ、言うとることが」

 ふいに大声が辺りに響いた。明らかに人間の声ではない。弦楽器を無理やり喋らせたような、それでいてドスの利いた声だ。見ると、はす向かいに建つ魚屋の店頭に十数匹の猫が群れ集い、店番の中年女性を完全に包囲していた。凄んでいるのは、腹にぼってりと脂肪の乗った首領格らしい三毛猫だ。

「払うべきもんを、耳揃えて払ってもらわんと困るっちゅう話よ」

「そんなこといったってね、おかしいじゃないのさ。何でウチがあんたらに餌をやらないといけないの」

「御説明申し上げたでしょう。そう、以前も確かに説明しました。それが、あなた方の種族としての義務というものなのです」

 引き取ったのは、三毛猫の横に控えていた、こちらは参謀格らしいほっそりした黒猫だ。

「貴方がたは、我々から利益を得ています。それに対して対価を払うのが筋でしょう。貴方だってその原則を前提にして商売をなさっているはずです」

「小生意気なことを。第一、あんたらから利益なんてこれっぽっちも受けた覚えがないよ」

「いいえ。あなた方は我々からカワイイを受益しているのですよ」

 黒猫が尻尾をくねらせた。魚屋のおばさんが言葉を失くしてかぶりを振る。

「我々は我々がカワイイの存在であることを知ってしまったのですよ。テレビだの、SNSだの、様々な媒体で、貴方がたは我々のカワイイを複製し、拡散しつつ享受してきたのではありませんか。しかも、無料で。これまでの分の対価を全て払えとまでは申しません。しかしこれからの分はしっかりといただこうと、こういう訳です。今このときにも、カワイイが発生しているのです。つまり、債権債務関係が発生しているというわけです」

「ふん」おばさんは嘲弄気味に鼻を鳴らした。「うちはポチを飼ってるからね。立派な柴犬だよ。アンタらみたいな雑種の野良じゃない。猫はお呼びじゃないんンだ。大体、猫好きの魚屋なんているもんかね。。アンタらなんてちぃともカワイイなんて思わない。うちには関係ない。ポチを見習ったらどうなの。うちの子はそんな風に浅ましく他人に餌をねだったりしないんだ」

 おばさんに人差し指を突き付けられた三毛猫と黒猫が、顔を見合わせてにやついた。

「犬どもの奴隷根性と来たら」

「何だって」

「いいえ、何でも。しかし、血の巡りの悪い方ですね。関係はあるんですよ。種族としての義務、と申し上げたでしょう。貴方が個体として我々から受益しているか否かは問題ではないのですよ。ヒトという種と、ネコという種の、慣習によって形作られた契約とでも申しましょうかね。まあ、法的構成は何でもよろしい。それは貴方がたの共同体におけるルールに過ぎませんからね。我々の間に、超種族的に通用するルールはただ、平等、公正、正義であるわけです。こちらがカワイイを与えている以上、そちらから何かを受け取らなければ不平等となるわけです。我々としては、我々の与えたカワイイを、不当利得として返還請求するという手段も考えられるわけですが、ねえ。返していただけますか。我々のカワイイを、カワイイで返していただけますか」

 猫たちが包囲を狭め、じりじりとおばさんに迫っていく。おばさんは思わず後ずさる。

「何を言ってるんだい。バカみたいなこと」

「それでは、やはり、お魚で対価を与えていただくほかないわけです」

「とんでもない」

「おい、勘違いしとったらいかんど」

 三毛猫がひときわドスの利いた声で鳴く。

「こっちはお願いや交渉のつもりで来とるのとは違うんぞ。これは通告。申し渡しじゃ。もう一遍断ってみいや、そんときゃ、出入りになるけんの。そこいら糞尿まみれにするだけじゃ済まされんけ、覚悟しんさい」

 ボスが声を張り上げるのを合図にして、群れの猫たちが背中の毛を逆立て、一斉にニイニイナアナアと鳴き始める。さすがに恐怖を覚えたと見える魚屋のおばさんは、ついに折れて陳列してあった手ごろな青魚を配り始めた。

「最初からそうしておけばよいのですよ」

 群れは食事を終えると、すぐに商店街の外へ歩き去った。動物の浅ましいところで、その場の食欲が満たされれば、蓄えの為にもう少し恐喝しておこうとは考えないらしい。いや、あるいは破産されると長期的に見て損だという打算がきちんとあるのかもしれない。いずれにせよ、奴らはまた来るだろう。

 食い散らかされた残骸を拾ってポリバケツに集めている魚屋のおばさんの背中が物悲しい。自らが魚屋であるということを恨みに思うわけにはいかないが、畳屋や仏具店であったならあんな恫喝を受けずに済んだことも確かだ。しかしこうした憂き目は今や誰にとっても他人事とは言いきれないことになりつつある。現にうちの会社でも、確か既に――。

 俺は腕時計に目を遣った。少し休み過ぎたらしい。午後の営業仕事のため、郊外をさして歩いていくことにした。

 寺の門の前を通りかかるとき、ぱらぱらと地面のざわつくような音がした。雨が降ってきたのかと思って見上げる。なおさら雲が厚く垂れこめる様子だが、雨脚はまだ見えない。代わりに、ムクドリらしい小ぶりの鳥類の群れが東に向かって飛んでた。。

 小石のようなものが十ばかり足元に降ってきて、俺は驚いて飛びのいた。落ちてきたものをひとつ拾い上げる。

「なんだこれは、どんぐりか」

 ずいぶんと久しぶりにこんなものを見たので、いささかほっこりとした気持ちになる。他に落ちてきたものをみると、同様な大きさの木の実や松ぼっくりで、白い糞も混ざっていた。すると、鳥たちが降らせてきたもので間違いないらしい。これも彼らが何らかの要求を通すための嫌がらせの一環なのだろうか。

 呆気に取られていると、今度は本当に雨が降り始めた。熱を帯びていたアスファルトが冷やされ、きな臭い匂いが辺りに充満する。俺は鞄から折り畳み傘を取り出して差したが、みるみる雨量が増し、ズボンの裾が濡れ始める。堪ったものではないな。ここまで降る予報だっただろうか。気が付くと公園の入り口の前にいた。公衆トイレの前にあずまやを見つけ、しばし雨宿りすることにした。

 ベンチに座り込むと、時間を潰そうとスマートフォンを取り出してニュースアプリを開き、見出しを漁り始めた。テレビやネットの話題を下手な一般名詞が占める割合がすっかり増えてしまった。しかもそのほとんどがつまらない冗談のような内容なのである。

 動物が相当の知能と権利意識を身に着けたことによる弊害が最も素早く、かつ顕著に表れたのが、酪農・畜産業界であることは言うまでもない。乳牛たちは搾乳機を前にサボタージュを実施し、クレートの中の豚たちが結託してハンガーストライキを起こした。ともかく彼らは家畜に過ぎないのだから、これまでもやってきたように捌いてしまえば問題ないという向きもあるかもしれない。やることは変わらない。しかし人語をつかい、命乞いし、人並みの断末魔を上げる相手を屠るのは、単なる畜生を殺すよりよほど心理的コストを要するだろうことは想像に難くない。いずれにせよ現に動物に直接関連する産業の生産額は急激に減り始めている。

 最も恐ろしいことには、歴史上、人類文明の伸長によってその他の種の縄張りが絶えず収縮を余儀なくされていること、また人間以外の種の大半の個体が、人間の用に供される為に生存を許されているに過ぎないことを、動物たちは理解している。彼らの中には、その為に人類種そのものに対する憎悪を燃やし、超種族的に結託した上で、階級闘争を展開しようと目論む勢力があるとかないとかいう話である。

 それは噂の域を出ないにしろ、事実として先ほど商店街で目にしたような暴力団紛いの恫喝や、不意の襲撃が散発的に起こっているのは事実。間抜けなのはイヌが大挙してどこそこの工場になだれ込みましたとか、サルがまんまとあれこれの事務所を占拠しましたとかいう報じ方しかされようがないことだ。イヌやサルが何らかの主義を標榜したり、名前のついた団体を結成して登記していたりするわけではないからそうなるわけで、ちょっと読み間違うとよくある動物絡みのほのぼのしたニュースと見紛いそうになる。しかしよく考えれば、彼らが一般名詞のイヌやサルでしかないことは、問題をより深刻にしていることがわかる。彼らが匿名の動物でしかないために、この問題には中心がない。五月雨式に起こるごたごたに対してい五月雨式に対処していく他ないのであり、ひょっとすると人類以外の種を根絶しない限り、このことが続いていくことになるのだ。それは現実的なことだろうか。いや、それが必要であるとわかれば、人間はきっとやってしまうだろうと俺は考えている。

「少しはましになりましたかな」

「へ?」

 いつの間にかあずまやの中の向かいのベンチに中年の男が座っていて、話しかけてきた。

「雨ですよ、雨」

 俺は屋根の外に視線を向けた。確かに、先ほどは公園の砂を全て押し流さんばかりの雨だったのが、幾らかは弱まっている。

「ええ、そうですね」

 少し面喰いながら返事する。一体いつのまに、どこからやってきたのだろう。トイレに入っていたのかな。見ると男はよれよれの上着を羽織っていて、しわとしみだらけの顔はどこか途方に暮れた風である。

「御覧になりましたか、あの鳥の群れを」

「はい。どんぐりを落とされて――何なんでしょうね」

「彼らは、あれで爆撃をしているつもりのようなのですよ。彼らなりに街に恨みを持っていて、精いっぱいの復讐をしておるそうです」

「どうして、そんなことがわかるんです」

「話しておるのを聞いたからです。鳥は自ずから知能にも限界があります。御存知ですか」

「何となくは」

「行為と結果のつながりを十分に理解していないのですよ。それもそのはずで、余りに高い脳機能は飛ぶことに際して邪魔になるのだそうですよ。単純に頭が重いと不利だということもありますが、飛ぶという行為が余りに微妙なので、ふと何か他のことを考えてしまったりすると危険でしょう。それに、ともすれば飛ぶことそのものに対する恐怖を持ってしまうとか。空を飛ぶためには、余計なことを考えずに済む頭が必要なんですな」

「はあ」

「いずれにしろ、もう人間が今までと同じようにのさばり続けるのは無理でしょう。どうして動物が急に知恵を付けたのかはわかりませんが、結局のところ野放図な人間中心主義のツケが回ってきたのですよ」

 どうしたことか、この男は動物どもの肩を持つらしい。俺は思わず反駁した。

「そうでしょうか。仮に彼らの知能が人間並みに発達していたとしても、文明の点で人間に数千年のリードがあるわけでしょう。仮に真っ向から戦うことになれば、一日の長ですら決定的な差になります。特に日本の野生動物なんて多寡が知れています。結託したところで、農民一揆以上のものになりようがないんだ。ちゃんと国が実効力を裂けるようになりさえすれば、すぐに収束しますよ」

「実効力というのは、自衛隊なんかのことですかね。どうだか。交戦を伴わない活動ですら、あれだけゴタつくんですからね。どうせまた揉めるに決まってるんです、動物が相手でも、戦争は戦争だから憲法違反じゃないかとか。第一、現時点で揉める段階にまで至ってないことが異常ですよ。そうなると、法に縛られない動物たちに分があると思いませんか。何より彼らは戦いに慣れてますよ。現に生存競争に晒されているわけですからね。重要なのは、人間と動物が零和ゼロサムゲーム式に、資源を対等に奪い合う関係になってしまったということですよ」

「対等の立場になんてならないと言っているんですよ。人間の内ですら、対等なゼロ・サムゲームなど成立していない。全人類が中流の日本人とかアメリカ人並みの生活を送ったら、地球上の資源は即座に枯渇すると言うじゃないですか」

「つまり、動物と人間の平等が非現実的であるのと同様に、人類皆平等なぞは絵空事だとおっしゃるわけだ」

「そんなことは言っていないじゃないか、いったい何の話を――」

 俺はそこまでで言葉を切った。無駄な論議だ。結局この男は、捨て鉢の敗北主義ないし破滅主義に支配されているだけに違いない。恐らくは、動物愛護の精神を説いているわけですらないのだ。見れば明らかに落伍者的な風体だし、よしんば人類が諸共に身を持ち崩すようなことになれば愉快だと考えている類の人間なのだろう。俺はそうじゃない。仕事も概ね上手く行っているし。妻子もある。人類に衰退してもらっては困るのだ。

 第一、人間が人間中心に暮らして何がおかしいのか。人間が人間を軽視して、猫中心や豚中心のライフスタイルを持つとすれば、それこそ嘘があるじゃないか。

 雨が小降りになったのを見計らい、俺は無言で公園の外へ歩き出した。すると道半ばで会社からの連絡が入る。係長だ。すぐ社に戻れというお達しだった。

「どうしたんです。何かあったんですか」

「何かあったどころの騒ぎではないんだ。説明は戻ってからだ。とにかく帰ってこい」

 電話が切れる。俺は踵を返し、地図アプリで最寄り駅を確かめる。

「いったい、何事だ」

 と独り言を漏らす。頭のどこかでは何となくあたりが付いている。きっと動物絡みのトラブルに違いない。しかし、俺が呼び戻されるようなことはこれまでになかった。思ったより早く、恐れていた事態が起こったのでは――。

 駅前のビルの内、ワンフロアを借りている自社のオフィスに戻ってくると、案の定、前代未聞の惨状が広がっている。デスクの上から下から荒らされまくっており、書類やディスプレイや文具がこれでもかとが散乱している。窓は割れていない物の方が少ない。あちこちにキツネだのカラスだのリスだのの遺骸が転がっていて、ちょっとした死のわんぱく動物ランドみたいなことになっている。初めて見るような珍しい動物も死んでいる。社員たちはその間をおろおろと歩き回っていて、けがをしているらしい者もいた。

「どうしたんだ、これは」

 俺は近くにいた同僚の男に尋ねた。

「どうしただことがあるか。見てのとおりだ。山の連中が攻めてきた」

 すると悪い予感はすっかり的中したらしい。うちの会社は木製コンピュータや木製家電を主力製品にしていて、随分森林を伐採している。それで、中国山地の動物たちからは相当恨みを買っているのだった。賠償の要求を長らく突っ撥ねていたところだったが、ついに連中が実力行使に出たということらしい。

 黄色い防災ヘルメットを被った係長がやってきて、何も言わず俺に角材を投げ渡した。

「何です、これは」

「さっき来たのは先鋒隊に過ぎない。本隊はこれからやって来るのだ。あいつに吐かせた」

 係長が指さすと、タヌキが尻尾にビニール紐を巻き付けられて、照明具から吊るされている。

「オフィスで拷問をしたんですか」

「もうここはオフィスではない」

 同僚の男がボタンを引きちぎりながら自らのシャツを剥ぎ取り、上半身裸になった。鍛え上げられた隆々たる両の大胸筋が露わになり、汗でてかてかと光る。

「戦場だ!」

 決然と言い放つと、彼は拳を握りしめて通用口に向かった。

「エントランスで迎え撃つことになった。参謀本部の決定だ、お前も来い」

 いつの間に参謀本部が置かれたのか。そう命令を下す係長の手には小型のチェーンソーが握られている。何で事務所にそんなものがあるのだ。それに比べて、俺の木材の頼りないこと。五センチ角で、長さ1メートル程度のそれは、床に向かって振り下ろせば即座に折れてしまいそうな代物だ。キツネ一匹まともに倒せそうにない。

 しかしそこは雇われ人の悲しいところであり、下された職務上の命令に逆らう術はないのだった。所詮は一兵卒、死ねと言われれば死ぬほかない――死だって?タヌキやカラスに殺されるなんてことがあるだろうか。まさかな。

 エントランスの受付前には、既に机や椅子を積み上げたバリケードが張られている。少し大げさじゃないかと思われるほどだ。通りに出て、今か今かと動物の軍隊がやってくるのを待ち受けている社員の列に加わった。みんな俺と似たり寄ったりの木材だの、金属バットだの、竹ぼうきだの、思い思いの武器を手にしている。

「おい、あれ!」

 一人の男が通りの向こうのビルの上手を指差した。一瞬、その屋上から黒い煙が上がるのかと思ったが、それこそ動物軍本隊の先陣を切る鳥の群れだったのだ。

 見る間に黒煙が通りを覆わんばかりになり、走っていた車がクラクションを鳴らす。群れの内の一羽一羽の姿が明瞭になったかと思ったとき、ひゅぽん、と妙な音がした。次の瞬間、俺の右三メートルほどのところにいた男がカエルの鳴くような悲鳴を挙げた。見ると彼は目の辺りを両手で押さえ、その指の間からは幾筋かの血が流れている。

「どうした」

 カラス、イエバト、スズメなどの混成部隊が我々を包囲せんとするにつれて、奴らの鳴き声とともに、じゅぽん、ぎゅぱんと間抜けな破裂音が次々鳴る。俺は咄嗟に腕で顔を覆う。右手の甲に鈍い痛みが走る。

「パチンコ玉だ。パチンコ玉を撃ってきてる」

「目を狙ってきやがる」

 誰かが叫んだ。鳥たちは腹に竹筒のようなものを括り付けていて、どういう仕組みか相当な速度で弾を打ち出せるようになっているらしい。奴らの知恵ではどんぐり爆撃がせいぜいではないのか。他の動物に知恵を漬けられたのかも知れない。そうでなくともカラスは他の鳥より格別に賢いと聞いたことがある。

 そんな考慮を巡らすどころではない。思わぬ不意打ちに同僚たちは意気を挫かれ、エントランスに雪崩を打って退却していく。鳥たちも後を追い、羽根をまき散らしながら殺到する。そこから先は大混乱だった。怒号と鳴き声、羽根の音、バリケードの崩れる音。ともすれば鳥たちは顔目がけて嘴を突き刺し、眼球をついばもうとしてくる。俺は目を閉じて一心不乱に角材を振り回す。歯の間から鋭く息を吐くような音がして、屋内にもうもうと白い煙が満ちる。誰かが消火器を使ったらしい。

 もう限界だ。俺はバリケードの後ろに潜り込もうと後退する。椅子と机の脚を掻き分け、受付のカウンターの下に潜り込んだ。

 ひどく長い時間そうしていたような気もするが、恐らく三分間くらいのものだったろう。俺が恐る恐る顔を出すと、概ね消火器の煙は落ち着いて、辺りの様子が見て取れた。鳥は例外なく粉を被って、床の上でぐったりとし、あるいは苦しそうにのたうち回っている。人間の方も立っている者のが少ないようだ。腕も脚も傷だらけにして仰向けに倒れていたり、頭を抱えてうずくまっていたり。動ける人間の中には、錯乱したように手に持ったものを振り回し続けている者もいれば、茫然自失としてただ立ち尽くしている者もいる。

 まだ立ち込めている消火剤の霧が、わずかに揺らいだ気がした。悲鳴とも唸り声ともつかない妙な音が地を響かした。どこか現実感を欠いていて、空耳だったんじゃないかとも思ったが、そうではないとすぐに知れた。またしても、けたたましいクラクションの音――それに続いて、不定形の褐色の波が押し寄せ、霧を引き裂く。シカだ。白々と光り、禍々しく枝分かれする角を持った牡鹿たちの群れ。野生の勢いのままに我々のもとにぶつかってきたのだ。それを目にした途端、俺の中に、どういう訳か俄かに怒りとも喜びとも形容しがたい感情が沸き起こる。目の前が赤く染まる。いつの間にか手に持っていた角材は無くなっている。俺は手近のパイプ椅子を手に取ると、バリケードを越えて群れに向かって走り出す。勢い込んできた一頭に向かって両手で椅子を振り下ろす。角だか首だかが折れる感触が伝わってきて、獣はくずおれる。また一頭の腹を打つ。その次の一頭の脚を薙ぎ払う。もう自分が何をしているのだかわかったものではない。

 傍らでブウンとエンジンの回る音がした。係長がチェーンソーを振るっているのが見えた。四十絡みのオッサンが血眼になって、工具でシカを解体しているところを見られるとは思わなかったな。ハエが喋るより珍しいよ。

 ずきりと左腕が傷んだ。見ると前腕が尺骨にそってざっくりと裂けている。シカの角で突かれたせいだろうか。そんなに激しくやられた覚えはない。潰れているシカの角を見ると、どうやら鋭利に研いであるようだった。忌々しい。全く小賢しいとしか言いようがない。

 打てども打てども動物の群れは途切れない。一旦、またバリケードの後ろに退こう。そう考えて係長に声をかけようとしたとき、俺と彼の間に黒い影が横切った。瞬く間もなく目に飛び込んできたのは、係長と、その喉笛に噛り付く野犬の姿だった。係長は驚いたように目を見開き、声を上げることも出来ず、ただ口をぱくぱくと動かしている。チェーンソーが手から滑り落ちる。弓なりになって仰向けに床に倒れる。野犬がその肉と腱を食いちぎる。血潮が弧を描いて弾ける様子が、スローモーションになって俺の目に焼き付いた。

 既に次の獲物を俺に見定めていたヤツは、直ちに俺の喉元に向かって飛びかかって来る。俺は咄嗟に椅子を胸の前に構える。その枠組みのパイプにヤツが食らいついた。俺はその勢いのままに、身体を軸として椅子をぐるりとまわすと、ヤツごと床に叩き付けた。ヤツの顎が砕け、歯が飛び散る。野犬はぎくぎくと身体を震わせつつ、黄色い目で俺を見上げて睨み、

「許さん」

 と唸った。俺は再び椅子を振り下ろし、角のところでヤツの頭を叩き潰した。

 俺は係長の使っていたチェーンソーを拾い上げ、彼に倣ってやみくもに振り回した。バターを切るようにとは行かないまでも、その機械工具は効率的に、かつ惨たらしく動物たちの身体を破壊してくれる。文字通りに猪突して来たイノシシにその切っ先を突き込むと、ヤツは脳漿を散乱させながら断末魔を挙げてもんどりうって斃れた。もっとも、俺も無傷では済まなかった、というのも、ヤツの牙は相討ちの形で俺の脇腹に食い込んでいたのだった。しかしこちらは致命傷にはならないだろう。今まで大した怪我もして来なかったくせに、俺は何の根拠もなくそう思った。少なくとも立ってはいられるのだから――。

 動物も死屍累々だがこちらも今や立っているのは数人に過ぎない有り様だ。筋肉自慢の同僚の姿も見えない。

「ああ……」

 溜息にも似る、絶望に満ちた声が聞こえた。自分自身が無意識に発した声かとも思ったが、違った。バリケードの傍に居た、背広の男の嘆息だったのだ。総務の人間だったかな。彼の視線の先を見た俺の方は、声すらも出なかった。ビルの正面出入り口を塞ぐように、一頭のヒグマが現れていた。

 ヤツは二本足で立って、どんな目をしているのかはドス黒い毛並みに隠れて見えないが、殺気だけは容易に感じ取れた。俺の頭はかつてないほどの高速度で回転し始めた。今からバリケードに向かって走っても間に合うだろうか。ヒグマは時速六〇キロで走ると言う。逃げきれないかもしれない。死んだふりは言うまでもなく論外だ。クマに遭遇したときは、視線を反らさず、ゆっくりと後ずさりして立ち去るのがよいと聞いたことがある。しかしそれは、クマの方で人間という未知に対する恐怖を持っている場合にのみ有効な方法に違いない。ヤツは明らかに害意を持ってここにやってきている。そして人間が基本的には自分より弱い存在だと知っているのだ。ほら、その証拠にヤツは今、口元を歪めて陰惨な笑顔を浮かべている。気のせいじゃないはずだ。俺たちが恐怖する姿を見て、楽しんでいるのだ――。

 覚悟を決めるしかない。俺は再びチェーンソーのスロットルを握り込んだ。しかし、鎖の刃は数秒の後、ガゴガゴと嫌な音を立てて回転を止めてしまった。無理もない、これだけの血と脂と毛皮を巻き込んでいては、まともに動く方が不思議だ。

 全身から血の気が失せていく。俺が完全に気力を失ったのを見計らったかのように、ヒグマが四つん這いになって、後ろ足を蹴りだそうとしたそのとき、乾いた破裂音が屋外から響いてきた。ヒグマは拍子抜けしたかのようにがくりと右肩を落としたが、そのまま俺に向かって突進してくる様子を見せた。俺は全く身体を硬直させていたが、遂にヤツの爪が俺を捕らえることはなかった。俺のところまで達するより五メートルも手前で、ヤツは横倒しにゴロリと倒れてしまったのだ。

 ただの毛皮の塊になったヤツをじっと見ていると、拳銃を構えた制服の警官が五人ばかりと、猟銃を持った男が二人、入ってきた。エントランスの惨状を見て、流石に面食らった様子だった。足の力が抜け、俺は膝から崩れ落ちた。

「大丈夫ですか。酷いですね」

 警官の内の一人、若いのがニコニコと愛想よく話しかけてきた。些か暢気すぎるようでもある。酷いなんてものではないのだ。

「この手の事案は、警察が対応してくれることになったんですか」

「ええ、まあ、刑事事件とは違いますが、暫定的にね。地元の猟友会と協力して。こんな街でも猟友会なんてものがあるのだなあと思いましたね」

「法律で決まったんですか」

「さあ。違うのでしょう。こういうことが起こる以上、実際問題として地域単位で超法規的な対応をしていく他ないという判断らしいですね。責任は誰かが取るんですよ。本官ではない誰かがね。とは言え、誰も文句ないでしょう、人命が懸かっていますから」

 俺は安堵と憂色混じりの溜息を吐いた。

「そうですか。お疲れ様です」

「いえいえ。普段は拳銃を撃てることなんてないから、わくわくしてきましたよ!」

「あっ、そうですか」

 稚気を振りまくのも大概にしてほしいところだが、助けてもらった以上文句をいうわけにも行かない。

 しかし思ったとおりだったな。何だかんだ言って、ちゃんと対応すべきときには対応してくれるんだ。公僕も捨てたものではない。いや、もう、そんなことはどうでもいいような気もしてくる。

「そうだ、救急車。救急車を呼んでください」

「大丈夫です。もう呼んでますから。しかしこれ、もう半分くらいは手遅れではないですかねえ」

 警官はなおも不謹慎な暢気さで言った。これとても、もう不謹慎とか何とか言ってる場合じゃないのかもしれないが。

 俺はよろめきながら立ち上がると、社内の人間の生死を確かめ始めた。あれは課長だ――どう見ても死んでいるな。まことに胸糞悪い上司で、死にゃあいいのに、と何度か思ったことはあったが、いざ本当に死なれると気分のよいものではない。

 筋肉自慢のあいつはどこだ、デカいからそれなりに目立つはずなのだが。あっ、あれだ。壁に背を預けて座っている。黒い顔と腹をしている――間もなく、彼も事切れているとわかった。腹のところがずたずたに裂けていて、小腸がはみだしている。シカとまともにぶつかったのだろうか。腹直筋を過信したのだ。人間ってのは柔らかいものなんだ。可哀想に。

 その横に跪いているヴィーガンの女は、切断されたシカの首を掲げて、滴り落ちる生き血を舌の上に落として啜っている。可哀想に。狂っちまってるんだ。可哀想に。俺も狂っちまってるのかも知れない。涙が止まらない。動物なんか、どうかすれば滅ぼしてしまえばいいと思っていたが、気が変わった。戦争は悲惨だ。こんなことは真っ平だ。いくさはむごいよ。でも、これが本当なのかもしれないという気もするのだ。地球の歴史を顧みれば、血まみれの歯と爪によって特徴づけられていた歳月の方が、よほど長かったはずだ。何十億年もの間、命のあるかなしかのゼロサム・ゲームが、進化の方向性を決定づけてきたのではないか。それに比べ、血も見ずに、死も見ずに、ただ無自覚に奪っているのだ、俺たちは。血と死が異常だと思うことの方が、よほど異常なんじゃないのかしら。

 それでもやはり、血も死も見たくないものだよ。動物にもヒューマニズムを教えなくちゃいけないんだ。

 俺はその後、会社に辞表を出し、剃髪して、入山した。そして森の生き物たちに、諸行無常を説き、色即是空を語り、悟りの道を勧めた。大概の場合は嘲られ、時には傷つけられもしたが、幾らかは理解を得られ始めていると感じる。少なくとも、俺は彼らの仲間として受け入れられつつある。俺が一代で理想を遂げられずとも、誰かが後を継いでくれるだろう――。

 しかし結論から言えば、その思いが叶えられることは永久になかった。全てが無駄だったとは思いたくないが…。それから半年も経たないうちに、おひさまがその活動を停止したのだ。彼が請求してきた光熱費を、地球の生命体は支払うことができなかった。いずれほとんどの生き物は死滅することになるだろう。宇宙を舞台にした零和ゼロ・サムゲームを扱うことなど、期間の定められた命しか持たない者たちには、毛頭不可能なことだったのである。

 このようにして、新しい時代はその幕が開き切る前に終わってしまったのだった。

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零和元年 とだまどか @todama

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