第035戦:鶯誘ふ しるべにはやる

「兄さんは……、兄さんは選ばないんじゃない、選べないんだ。

 兄さんは嘘に嘘を重ね続け、いつしか自分で吐いた嘘に囚われた、哀れな臆病者だっ……!」



 そう告げる牡丹の声は、微弱にだが震えており。その所為で、ちっとも迫力が感じられない。


 しかし、梅吉はたった一瞬だけ。顔を歪めるも。


「……へえ。よく分かったな、牡丹。いや、ホームズくん。ご名答、さすがは名探偵――とでも言えば、満足か?」

と、至って平静と変わらない……、いや、やや冷笑を称えている。


 いつまでも二の句を告げないでいる牡丹に、梅吉は救いの手とばかり。ゆっくりと口角を上げさせ。



「なあ、牡丹。少し、上に行かないか?」


「えっ? 上って……」



 つい呆気に取られ。こてんと首を傾げさせる牡丹に、梅吉はくいと天井を指し示す。牡丹は訳が分からぬまま彼の指先をなぞり、ゆっくりとその先を見上げていった。






✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎






「うわっ……」


「どうだ、気持ち良いだろう」


「はい、」



「とっても……」と、牡丹は夜風に当たりながら後を続ける。


 先程までの強張った顔は、いつの間にかすっかり解かれ。彼はもう一度、短い歓声を上げた。



「俺、屋根なんて初めて登りました」


「それは勿体ねえなあ。こんなに気持ち良いのに。周りが明るい所為で全然星は見えないが、これはこれで、なかなか良い景色だろう?

 あーっ。風、気持ち良いなあ。……なあ、牡丹」


「はい、なんですか?」


「お前、女と付き合ったことないだろう」


「えっ……。なっ……、なんですか、いきなり!?」


「ふうん、やっぱりな」


「やっぱりって、まだ何も言ってないじゃないですか!」


「なんだ。それじゃあ、あるのか?」


「いえ、ありませんが……」



 確かに兄の言う通りではあるものの、こうも簡単に決めつけられるのはなんだか癪で。それに加え、笑われるのはもっと癪であると。


 牡丹は隣でデリカシーの欠片もない兄に対し、むすりと眉間に皺を寄せた。



「別に俺はいいんです。その、恋愛はしないって決めているので」


「へえ、それはまた……。まあ、別にいいんじゃねえの? どうするかはお前の自由だ。

 そんじゃあ、そんな牡丹くんにとっておきの朗報だ。知ってるか? キスってさ、好きな相手じゃなくても簡単にできちまうんだぜ?」


「えっ……?」



(キスって……、キスって――!?)



 牡丹は瞬時に顔を真っ赤に染める。まるで金魚みたく、ぱくぱくと口を小さく動かす。


 彼のそんな反応に、梅吉はにたりと白い歯を覗かせ。



「なあに、キスだけじゃない。その先だってそうだ。やろうと思えば容易いことよ。

 なんなら今から試してみるか?」



 月光の下、にやりと不敵な笑みを浮かべ。梅吉はずいと牡丹の顔に己のそれを寄せると、そっと彼の頬に片手を添え。



「なんて。冗談だよ、冗談。兄弟だろうと、俺は男を相手にする気はないからな……って、おーい、牡丹」



「聞いてるかー?」と、咄嗟に距離を取り離れて行った牡丹目掛け。梅吉は声を張り上げる。



「なんだよ。もしかして、真に受けたのか?」


「……兄さん。俺のこと、馬鹿にしていますよね?」


「別に馬鹿になんかしてねえよ。けど、どうせなら大事に取っておきな。ファースト・キスは、一生に一度しかないんだ」



(それくらい……。)



 いくら俺でも知っていますと、返すつもりが。急に強く吹き上がった風が邪魔をした。


 風が止むも、結局は興が覚め。口を閉ざすと隣で梅吉が腕を枕代わりに寝転がり、そのまま天を見上げる。



「さてと。そんじゃあ一つ、昔話でもするか」


「昔話ですか?」


「ああ。別にたいして面白くはないけどな。なに、適当に聞き流してくれて構わないぞ」



 そう言うと、梅吉は小さく息を吐き出し。やはり視線は天に向けたまま、ゆっくりと口角を上げていき。



「俺のお袋は、すごく綺麗な人だった。それから、胸も大きくてさ。だからクラスメイトにはよく羨ましがられたっけ。『お前の母ちゃん、美人だな』って。

 でも、あの人の仕事って水商売でさ。周りの大人からは好い顔をされない上に、昼間はパチンコか男の所で、子供より平気で男を選ぶような人だった。そんなお袋は俺が七歳の時、突然、俺の前から姿を消した。店の客……、確か、奥さんと子供が二人いたって言っていたな。そんな男と一緒に蒸発して、未だに行方知らずだ。

 一人になった俺はお袋がいないことを除いて、そのままいつも通り暮らした。最悪、お袋が情けとばかりに置いて行った金がそれなりにあったし、ほら、俺ってモテるだろう? 女の子達がいつも晩飯の残り物を持って来たり、代わりに家事をしてくれたりと面倒を見てくれて。けど、近所のおばさん達は目敏いんだよな。お節介にも通報されて、お袋がいなくなったことがばれちまって。

 その後は、大変だったな。担任からはどうしてもっと早く言わなかったんだって怒られるし、警察は家に押し掛けて来るし。てんやわんやの大騒ぎでよ。でも、俺にはそれが酷く他人事に思えて。事務的な処理に追われている大人達を、ただ遠くから眺めていたっけ。

 その上、親父は端からいないし、お袋の両親はとっくの昔に亡くなっている。頼れる親戚もいなくて施設行きになりかけた所に、天羽のじいさんがひょっこり現れてさ。それで俺はじいさんに引き取られて、そのままずるずるとここで暮らしているって訳だ。

 なっ、別にたいした話じゃないだろう」



 そう締め括るなり、二人の間にひんやりとした夜風が流れ込んだ。それは牡丹の過度な熱を溜め込んだ頭を冷やすには丁度良く。彼はそれを体内に取り入れるよう、すうと軽く吸い込んだ。



「なあ、牡丹。お前は、親父のことを恨んでいるんだよな?」


「えっ……? はい。俺は親父に恨みを晴らす為に、ここに来た訳ですし……」


「ははっ。お前も相当根に持つ奴だな。たかが浮気で、そんなに恨むことかねえ」


「たかがって……、悪いに決まっているじゃないですか。しかも、一人、二人ならまだしも、まさか、こんなにも多くの女に手を出していたなんて……」


「そうかあ? 俺は親父みたいな生き方が、至極全うのように思えるけどな。

 だって、人間くらいだと思うぜ? 他の生物は本能の赴くままに、生殖活動に勤しんでいるというに。愛とか貞操とか、そんなくだらない戯言を並べ立てて自制するのはさ」


「くだらないって……」


「だって、女なんて星の数ほどいるんだぜ? 誰が一番なんて、何を基準に決めればいい? それに、お互いにいくらだって代わりはいるんだ。

 そんな面倒なことを考えないで、好きな時に好きな相手と。それでいいじゃないか」



 梅吉は気怠そうに、ゆっくりと上半身を起こし上げるが。視線は未だ、天に向けられたままだ。


 牡丹はただじっと、月光を受け薄らと影の掛かったその横顔を一心に見つめ続ける。



「……あの、兄さん。一つだけ、訊いてもいいですか?」


「おう、なんだ」


「その、どうしてあんなゲームを仕組んだんですか? それも、神余を人質に取って。

 俺にはどうしても、俺をからかう為だけとは思えなくて……」


「どうしてって、そうだなあ。最後の賭けみたいなもんかな」


「賭けですか?」


「おい、おい。一つだけって言ったじゃねえかよ。これ以上の質問は受け付けないぞ。

 あーあ、ゲームオーバーか。なに、男に二言はねえよ。勝負はお前の勝ちだ。安心しろ。彼女には、もう会わないから」


「会わないって……」


「何をぼけっとした面をしているんだ。お前から言い出したんだろう?」


「それはそうですが、でも……」


「なんだよ。相変わらずお前は甘いなあ。まあ、そんな甘々でおこちゃまな牡丹はおこちゃまらしく、いつまでもおこちゃまでいろよ」


「おこちゃまって、俺はおこちゃまなんかじゃありません!」



 そう宣言すると、牡丹は頬を膨らませ。つんと口を尖らせる。


 そんな牡丹の態度に、梅吉はけらけらと笑い出し。彼の頭を掴むと、がしがしと乱暴に揺すり出した。ぐらぐらと揺れる世界の中、牡丹は何も言葉が浮かばず。彼の圧力に抗うことなく、強く頭を揺さ振られ続ける。


 真っ暗闇の下、この時の兄が酷く大人に思えたと同時、やっぱり大嘘吐きだと。特に何か根拠がある訳ではなかったが、牡丹は自然とそう思った。






✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎






 あの日の夜から、幾日かが経過し――……。


 ここ弓道場の裏手は、辺り一面が鬱蒼とした林で囲まれており。見た目通り、閑散とした空気が一帯に広がっている。


 そんな静けさの中、ぽつんと一人。袴姿の男子生徒が身を投じていたが、そんな彼の元に、すらりとスカートの下から伸びた生白い足が一歩、また、一歩と、焦らすように近付き。



「ねえ、梅吉!」


「ん……? なんだ、アキちゃんか。こんな所でどうしたの?」


「どうしたのって、梅吉に会いに来たに決まっているじゃない」


「おい、おい。そんなこと言って。彼氏はどうしたんだよ?」


「だってえ……。アイツ、一緒にいても全然楽しくないんだもん。それに、キス下手だし。やっぱり梅吉が一番だなって。だから……」



 ふふんと、薄紅色に塗りたくられた唇に、更に艶を乗せ。女生徒は更に歩み寄ると、ぴたりと梅吉の胸に頭を預ける。


 それが引き金とばかり。梅吉は、すっと手を伸ばすと彼女の頬に片手を添え。そのままゆっくりと、己の顔を近付けていく。



「梅吉? どうしたの、珍しいわね。梅吉の方から甘えて来るなんて」


「なんで? 嫌?」


「ううん、嫌じゃないけど、でも、いくら人気がなくても弓道場の近くだし。人に見られちゃうよ?」


「いいじゃん、別に。誰に見られたって。それとも、アイツに見られたら困る?」


「別にアイツは。もう別れたし。ねえ、ちょっと待って。ねえ……、んっ……!」



 彼女の制止の声も虚しく。梅吉はそれを受け入れることなく、彼女の口をそれで塞ぐ。


 その柔らかな圧力に、意識が遮断。嫌々といった様子であった彼女も、気付けば縋り付くように。苦しげながらも甘ったるい声ばかりが、小さくもその場にこもるよう響き渡る。



(そう言えば、初めての相手は誰だっけ。覚えてないや。アイちゃんだっけ? それともマイちゃん? 隣のクラスのミイちゃんだったかな。

 休憩時間、そろそろ終わりか。早く戻らないと。穂北の奴、最近一段とうるさいからな。あー、そういやあ、数学の宿題を出されたんだっけ。面倒だな。今日の夕飯はなんだろう。

 ……明日は、誰と……。)



 ――――しよう……と、彼の呟きは甘美な音へと溶け込み。虚ろな瞳が宙を漂う。


 濃密な音が奏でられる中。不意に発せられた鈍い音が、彼の意識を現実へと呼び覚まし。音のした方へ、特に意識することなく。ゆっくりと視線が向けられる。


 が、無意識に向けられたその瞳に、刹那、瞬く間に動揺の色が迸る――。


 その先の光景は、梅吉にただ息を呑み込ませ。彼の瞳は一際大きく見開かされる。


 互いの視線が予め細い糸ででも結ばれていたかの如く、引き合うようにして宙の一点で混じり合い。



「あっ……、あの、その、私……。私、その……。

 ごっ、ごめんなさい!」



 それだけ言うと梅吉の揺れる視線の先で、栞告は脱兎の如く駆け出した。


 彼も数歩走りかけるが直ぐにも足を止め。ふと足元に視線を落とすと、草原の上には数冊の本が落ちていた。硝子色の瞳をそのままに、梅吉はそれを拾い上げ。



「『ボッコちゃん』、『はなとひみつ』、それから、『春を告ぐ人』か……。

 あー……。馬鹿だな、俺。はっ……、自分で仕掛けた罠に掛かったら世話ねえな」



「本当に馬鹿だ……」と、小さな声で。梅吉は真っ青な空に向かい、投げ遣りとばかりに呟いた。






✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎






(馬鹿だな、私。始めから、分かっていたことなのに。先輩にとって私なんて……。

 それなのに先輩のことを理解したつもりになって、挙げ句の果てに、勝手に傷付いて……。)



「馬鹿だなあ」と、もう一度。窓の外を眺めながら栞告はぽつりと呟く。


 しかし、その呟きは午後一の始業を告げるチャイムの音により掻き消され。その音と共に、ずるずると足を引き摺るように担当の教師が教室の中へと入って来る。



(どうしよう。結局、まだ先輩にウインドブレーカーを返せていない。長いこと、ずっと借りっぱなしだ。

 それから、あの時に落とした本……。あの後、戻ったけど、どこにも落ちていなかった。落し物コーナーにも届いていなかったし、もしかしたら先輩が……って、あの本には手紙を挟めていたんだ。もしも読まれていたら、それこそもう逢えない。こんなことなら、あんな手紙、書かなきゃよかった。でも、先輩が気付いているとも限らないし……。

 あーあ。どうせならあの時、本じゃなくてウインドブレーカーを落とせば良かったんだよね……。)



 私のドジ……と、またしても。蚊の鳴くような声で呟き。


 浮かない心情をそのままに、それでも栞告はノートを取り続ける。普段なら内容を理解しながら写している黒板の文字も、全く頭の中には入って来ず。ほとんど機械的な動作となってしまっている。


 それでもひたすら手を動かし続けていると、突如こんこんと、鈍い音が耳を掠めた。その音に、栞告はちらりと窓の方へと視線を向け。



「きゃっ!?」


「んー? どうした、神余?」


「いっ、いえ。済みません、なんでもありません……」



 栞告は咄嗟に口を押さえ、訝しげな視線を寄越す教師に頭を下げた。


 彼がそうかと短い返事をし。再び背を向けるや、栞告はそっと窓を開け。



「よっ、栞告ちゃん!」


「先輩!? ここ、三階ですよ! 一体どうやって……」



 おそるおそる窓の外を覗き込むと、梅吉は器用にも校舎脇に聳え立っている木の、沿うようにして伸びている太めの枝に腰を掛けていた。


 その光景に、栞告の顔は一瞬の内に蒼褪め。



「落ちたら危ないですよ!」


「だって栞告ちゃん、図書室の窓を開けて置いてくれないし、それに、優秀なガードマンが四六時中ぴったりと張り付いているし。次は負かす自信なんてないから、奇襲でもしない限り取り合ってもらえないと思ってさ」



 そう言うと梅吉は、黒板を向いている明史蕗の背中を指差した。



「あっ、明史蕗ちゃん……。ふふっ、確かにそうですね。

 でも、先輩はどうしてここに……」


「どうしてって、栞告ちゃん、言ってくれたじゃん。俺と一緒に春が見たいって。まあ、正確には手紙でだけど。

 いやあ、本なんて全然読み慣れていないからさ。思いの外、時間が掛かっちゃった」


「えっ……?」



(手紙って、時間が掛かったって……。

 まさか、私があの本の最後のページに挟んで置いた……。)



 どくどくと、胸が勝手に高鳴り。栞告が結論を出そうとするも。


 不意に、「おいっ!」と、一つの怒声が教室中へと響き渡り。



「天正、そんな所で何をしているんだ!? 今は授業中だぞ!」


「へっ!? 普通にノートを取っているだけですけど……って、げっ、梅吉兄さん!?

 本当になにしているんですかっ、そんな所で!」


「よっ、可愛い弟よ。いやあ、ちょっとな。

 済みません、先生。直ぐ終わりますから、少しだけ時間を下さい。それと、神余さんもお借りします」


「何を言っているんだ。早く自分の教室に戻れ」


「先生ってば、お願いしますよ。これから先生の授業、居眠りなんかしないで、ちゃんと真面目に受けるよう努力しますから」


「本当か? ちっとも信用できないのだが……」


「またまたー、そんなこと仰らずに。俺の弟が保証人になりますからー」



「なあ、牡丹」と、いきなり名指しされ。勝手に決めつけないで下さいと、牡丹は心の内で喚き散らした。



「全く、特別に今回だけだぞ。その代り、約束はきっちり守ってもらうからな。それと、木から落ちても俺は一切責任を取れんから絶対に落ちるなよ」


「へへっ、ありがとうございます。それと、俺がそんなヘマする訳ないじゃないですか。安心して下さいよ。

 それじゃあ、交渉成立ってことで。さっ、みんなは授業に戻って、戻って。先生の話をよく聞くように」


「天正、お前が言うな……」



 説得力の欠片もないと、教師は額に手を当て。小さな声でそうぼやいた。



「さてと。それじゃあ、早速本題に入るとして……。

 あのさ、栞告ちゃん」


「はっ、はい!」


「俺が小学生の頃、作文の宿題が出されたんだ。『将来の夢』ってテーマでさ。だから、俺はこう書いたんだ。『俺の将来の夢は総理大臣で、一夫一妻制を廃止してハーレムを築くこと』って」


「はあ、なんだか先輩らしいですね……」


「……なーんて、嘘」


「えっ……?」


「本当は宇宙飛行士とか野球選手とか、いかにも子供らしい夢を書かせる意図だったんだろうけど、俺にはそういった夢がなくってさ。だから、将来は綺麗なお嫁さんをもらって子供を作って、大きな家で、家族みんなで暮らしたいって。そう書いて発表したら、先生が大泣きしちゃってさ。結局、授業もそれ所じゃなくなったっけ。それで仕方なく咄嗟に総理大臣って言い直したから、未だに俺の夢は総理大臣な訳。

 あの時、先生がどうしてあんなに泣いたのか。俺が当たり前のことをさぞ羨ましげに書いたからなんだろうけど、でも、俺には世間一般なそんな風景が、やっぱり遠い雲の上の話にしか思えなくて。泣きじゃくっている先生の姿は、『お前には一生無理だ』って、そう言われているような気がしてさ。だから、きっと叶わないんだろうなって、今までずっと諦めていた。けど……。

 嘘吐きだらけの俺を、栞告ちゃんが解放してくれたから。一緒に春が見たいって、言ってくれたから。栞告ちゃんとなら、そんな風景を見られるような気がしてさ。

 まずはちゃんと交際して、それから結婚して。子供は、そうだなあ。できたら男の子と女の子を一人ずつ、大きな家に一緒に住んで。家族みんなで、毎日笑いながら過ごしてさ。そんな当たり前のことを一つ一つ、栞告ちゃんと一緒にやっていきたい。

 だから……、あなたに春を告げに来ました」



 ――刹那、一羽の鶯の喉奥から甲高い音が奏でられ。薄桃色の淡い小さな斑点がぽつぽつと重なり合い、栞告の瞳いっぱいへと広がっていく。すると、一筋の風がふわりと甘い香りを乗せて窓から入り込み。彼女の熱を帯びた頬を優しく撫でた。


 梅吉は、栞告の頬に片手を添えたまま。つうと流れ落ちてきた一滴の雫を親指の腹でそっと拭い。



「あの、先輩。その……、私でいいんですか……?」


「うん、栞告ちゃんがいい」


「本当に、私でいいんですか……?」


「栞告ちゃんじゃなきゃ嫌だ」


「でも……」


「それとも、俺じゃ不服?」


「いえ、そういう訳では……」



(先輩ってば、言わなくても分かっている癖に……。)



「ありません」と言う代わりに、「先輩の意地悪……」と、栞告は口先で呟く。すると、「知ってる」と、短い答えが返って来る。


 その声に彼女が小さく頷くと、梅吉はくすりと口元を綻ばせ。彼女の薄らと赤く染まる目元を指腹でそっと撫で。



「全部、全部、受け止めるから。だから。

 俺と、物語の続きを綴って下さい――」



 初夏の兆しに包まれた、温かな日差しに照らされながらも。この瞬間、二人の間だけに、季節外れの春が訪れた。

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