R―ST マイストーリー
「今日は、先生がみんなにお話をしたいと思います!」
楓は中学校教師になるための教員研修として、母校に来ていた。三週間という短い期間の中で、やっと配属されたクラスの生徒と仲良くなってきたところだった。そこで、担当の先生から学級活動の時限で自由に話す時間をもらっていた。
「まず、先生に何か質問のある人はいますか?」
クラスのあちこちで手が上がり、少し動揺して担当の先生のほうを向くと、にやりと笑ってこちらを見ていた。楓は自分が試されているのを把握し、全員を起立させて、すぐ終わる質問を答えた後、その質問をした人を座らせるという方法をとった。その案は成功した。ほとんどがプライベートや金銭関係だったので、残ったのは三人だけだった。順番よく答えていくことにした。一人目は眼鏡をかけた、ビジュアル系バンドのギタリストのように髪を伸ばした男の子だった。
「じゃあ、もう一度質問をお願い」
「はい、先生はどうして教師になろうとしたんですか?」
「それはね、私が好きな人が教師に向いてるって言ってくれたからよ。彼は何かの説明をとても雑にする人で、私はその雑な説明をかみ砕いて、友達に彼の言いたいことをつたえていたの。それで、彼に久しぶりに大学生の時にあって相談したら、私の説明が分かりやすいから教師になったらって言ってくれて、現在に至ります」
「その人は今何をしているんですか?」
「それはね……」
***
啄木は新聞を読んでいた。朝の窓からさす日光を明かりにして新聞を読むのが今の日課だ。僕は世間に遅れがちだから、大学に行く前にこうして情報を手にしている。サッカー日本代表のメンバー発表、今日公開の映画、毎日起こる犯罪。知っておいて損な情報はないので、あらゆる分野のものを取り入れている。
「また政治家が忖度、忖度って。税金払っている労働者のほうがもっとちゃんとした言葉を使うよ」
最近、独り言が増えた。『ブックマスター』の四人と再会してから、心の中にあったしこりは解消されたが、その分これまでの人生に対する後悔の大渦が渦巻いていた。いくら馴染めなかったとはいえ、中学生という一番多感な時期に何もしてこなかったという過去は悔やんでも変わらないものだ。みんなはそれぞれの夢を見つけ、もうその道に進み始めている人、その道になれている人もいる。
それに引き換え、僕は何も考えずに、とりあえず大学に入った。恐らく、一般企業に就職して、普通な生活を送るのだろう。その生活に安心する自分と、その生活におびえる自分がいる。こういう時に何かに逃げようとするのが人間の性なのだが……。
「ん? ポエム大賞?」
新聞の広告欄にあったものに目を留めた。
ポエム大賞とは、自分が日々過ごす中で気づいたことや、誰かの言動をもとに書いた詩を応募するものであった。そのジャンルは問わず、内容の多さも、応募の上限も決まっていない、実に自由な賞だった。以前秋奈に詩のようなものを書いていた日記を見せる機会があったのだが、その時に、
「啄木君の文章って面白いね。なんていうか、詩的っていうか。まとまっているのにそこに味が凝縮れていて、充実感があるね」と言っていた。しかも、この賞は大手出版社が主催しているとのことで、大賞をとった際、製本化されたり、雑誌に載ったりする可能性があるとのことだった。しかも、現代で活躍している作家、映画監督もこの賞からデビューをしたというのだ。唯一自分があの時から続けてきた日記に書いてある詩を、社会に出すというほんの少しの希望はすぐに衝動に変わり、僕は新聞を閉じてスマートフォンの電源を入れた。
でも、それもとりあえずに過ぎなかったのかもしれない。僕は衝動のままに動きがちだ。それも、昔のあの事件の恐怖を心のどこかに抱きつつも、である。僕は小さいころも、なるべく周りに迷惑をかけたくなかったので、大人の振りをして周りの子とは一部を除いて遊ばず、遊ぶ際も自分の中でリミットを決めておいた。それを一歩でも踏み外した瞬間に自分は死ぬのではないか、と勝手に思い込んでいた。そして、次第に自分の行動は必ず相手に迷惑をかけないという『ジシン』を持ち、本能のままに行動するようになった。しかし、僕の悪いところは、そのためには自分のことはどうでもよくなるところだった。酸素を発生させる際に過酸化水素に加えて反応を促進させる二酸化マンガンのように、僕は社会の触媒となって生きていくかもしれなかった。
あの事件があるまでは。
***
二人目の子は、よく私に話しかけてくれる女の子の一人だった。たしか、
「私は先生がさっき『赤色』だけは嫌いっておっしゃってたのを聞いて、その理由がどうしても知りたくて質問しました」
「なるほどね。みんなは赤って言われたら何を思い浮かべる?」
周りで、「トマト」「いちご」など口々に答えが叫ばれた。その中でいくつかをピックアップした。
「今、パトランプとか、火とか、嘘とかだれか言ってたと思うんだけど、この話は次のこの質問にもつながるからまとめて答えるね。じゃあ……」
***
秋奈は、今日も図書館に立ち寄った。
「どうもー」
「こんにちは。また来たのね」
「まあ、減るものじゃないし、いいじゃないですか」
慶子は苦笑いをした。出版社勤務の傍ら、図書館の司書の仕事もしている慶子は、秋奈から作戦成功の知らせを聞いてからも、彼が港で、また船の上でした話をしていない。それは彼の本当の素顔のような気がしていたからだ。彼は大人になろうとして無理をしすぎ、偽りの自分を演じすぎたのだ。そして、アトリアルホール爆破事件で、長年たまった疲労が一気に放出されたのだろう。そうしてアイデンティティを喪失してしまったのだろう。自分が会ったのはちょうどそれがあった後だったのだと、今なら思える。
二人の共通点はそこだった。そして、もう一つ共通点があった。それは、彼の回復期に立ち会ったということだった。各々彼の人に知られない一面を見た経験を共有し、秋奈はそのことをブックマスターの四人にも知らせた。極力彼の耳に入らないように。
「最近、頑張ってるみたいだね」
「まあ、ぼちぼちですけど。一応内定は決まりましたけど、本当にこれでよかったのかはまったく……」
秋奈は有名な企業への内定が決まり、残りの大学生活を謳歌していた。そしてたまに、いや、頻繁に図書館に立ち寄っていた。そこで慶子に悩みを聞いてもらっていた。図書館内は彼女らの訪れる時間帯はほとんど人がいなかったので、相談するには絶好の場所だった。今日は特別な日だった。
「今日は、アトリアルホール爆破事件のあった日だよね」
「そうですね。あの事件もすっかり風化して、周りの人は何も覚えてないです」
「で、今年は何か発見したことはあったの?」
「はい、それを伝えに来たんです。私が海に恋い焦がれていた理由がやっとわかったんです」
「ああ、それね。炎を打ち消そうとしていたんでしょ?」
「それだと、五十点です」
慶子は「あちゃー」と言ってこめかみのところをポリポリと掻いた。
「じゃあ、正解を聞かせてもらおうじゃないの」
「正解は、『赤』を消すためです」
「『赤』ね。炎のほかに何か……あっ」
「そういうことです。啄木君はそっちも強かったんでしょうね。人生をかけて大きな嘘をつき続けないといけなかったんですからね。自分の存在が社会から消えるよう、自分から仕向けるというね。どういう経緯でそうしたのかは、未だにわかりません。逆瀬川隆之介がかかわっているのはわかっているんですけど、彼はそのことについてどうしても話したくないというものですから」
「逆瀬川は一体何を考えているのか、全くわからないしね。まさか袴で立った人物が急に芸能界復帰だなんて、まさかちょうどあの事件から十年たった今日の朝、誰もそうなるとは思わなかっただろうし」
今日、逆瀬川の所属していた芸能事務所から、ある情報が報道各所に流れた。それは、逆瀬川がカメラに向かって笑って手を振っていて、大きく赤い明朝体の文字で『革命』と投影した、というあり得ないビデオメッセージだった。世間では合成だのシージーだの、オカルト方面からは死者からのメッセージだの騒がれたが、その昼、生放送のニュース番組に登場したのをきっかけに、その映像は紛れもない本人が映っていた、現在のものであると証明された。彼は事件の一連の流れを説明するわけでもなく、十年間のことを説明するわけでもなく現状を簡単に説明するのと、死んだと思われていた十年間の間に、裏で進行していた新作映画のことについて話しただけだった。もちろん、報道各所は逆瀬川をはじめとした、新作映画関係者に取材を申し出たが、すべて逆瀬川の指示で「後日逆瀬川がすべて話します」の一点張りだった。それでも、当時もっとも人気であった俳優であるために、復活が報じられた時の興奮は日本だけにとどまらず、世界でも大々的に報道された。
しかし、だれもその裏に一人の少年が関わっていることは、知る由もなかった。
秋奈はその場を離れて、久しぶりに実家の近くの海に寄った。サーフィンをしていた時のおばあちゃんはもう亡くなってしまって、
ごく稀にしか海に乗らなくなってしまった。
「この青、わたしが求めていたのは、これだったのね」
夕日はすっかり地平線に消え、群青色の空気が辺りを包んでいた。私は、あの事件があってから波乗りを始めたのだ。それに気づいたのはついさっきだった。
「全部の『赤』が、この海の『青』に飲み込まれて、晴れ晴れとした気持ちになれたらなぁ」
***
「俺は、先生が今までの人生の中で、一番印象に残っている出来事について教えてほしいです」
そう発言したのはクラスの中でずば抜けて賢い子だった。
「はい、それじゃちょっと昔話をするね」
***
危ない!
その声が聞こえ、私は後ろから誰かに押されて、かなり飛んで地面に倒れた。真後ろで天井が落ちる音が聞こえ、一気に恐怖に包まれた。
「君!早くこっちに来なさい!避難するぞ!」
救急隊員の人がやってきて、私のほうに向かって叫んだ。私は立ち上がって、右も左もわからず、ただ前に向かって走った。後ろから生暖かい風が、ぶわっと上着を膨らませて、体勢が崩れそうになったが、なんとか持ち直して避難した。
私は避難に成功し、仁たちと共に保護された。しかし、彼の姿はなかった。私は自分を責めた。私がわがままを言って残らなければ彼も今ここに無事でいられたかもしれなかったのだ。
「担架通りまーす」
隣で救急隊員の声が聞こえた。担架が運ばれてくると、私以外の人もはっきりと彼の姿を見つけた。
『たっくん!』
『啄木!』
彼を呼ぶ声はとめどなく叫ばれた。しかし、彼は目を固く閉ざしたまま救急車の中へ運ばれていった。赤く灯ったランプが彼を運んでいった。赤く顔を染めていた彼は、真赤な嘘をもって、夕日の奥に消えていった。
***
クラスはしんとしていた。
「こんな感じかな。みんなも知っているよね。ちょうど今日が十年前になる、アトリアルホール爆破事件。今日のニュースで、逆瀬川隆之介が生きていたことが公開された、あの事件。実は私もその被害者の一人だったの。さっき話した好きだった人は、そんな感じで私たちに死んだと思わせて隠れて生きていたの。彼は、本当に強い人間よ」
すると、日織ちゃんが急に立ち上がって、
「先生はその人に対して怒っていますか?」と唐突に聞いてきた。
「私は、怒ってないよ。久しぶりに会ったときはちょっと怒りっていう感情はあったけど、悲しさと喜びのほうが強かったな」
「先生がそんな人を好きになった理由がよくわかりません。一回先生たちを捨てた人なんて、放っておけばいいじゃないですか」
「じゃああなたは、久しぶりに昔自分がプロポーズした相手に会って、涙を流さずにそっぽを向ける?」
「それは……」
日織ちゃんは口ごもってしまった。
「私はその再会を、運命だと思いたかったんだよ。どうしても彼の代わりがいなかったから。これまでの仲間も、慰めてくれる家族も、今ここで教頭先生になっているその当時の担任の先生も、だれも彼の代わりにはなれなかった。彼が、私の心に色を与えてくれたんだよ」
「じゃあ、先生はその人のこと、今でも好きですか?」
いつの間にか座っていた日織ちゃんが言った。
「さあ、どうでしょう?」
私は笑ってごまかした。あちこちで冷やかしの歓声が上がった。
「ということで、みんなも、嘘はあまりつかないようにしましょうという話でした」
いや、そういう話じゃないでしょ、とみんなに突っ込まれ、私は苦笑した。後に担当の先生と話をして、アトリアルホール爆破事件について全校生徒に話してみないか、という話を持ち掛けられた。私はその返事を保留にし、しばらく悩むことに決めた。じっくり、今朝のニュースも含めて、過去を振り返る時間が必要だと思ったからだ。
クラスに誰もいなくなった後、赤い夕陽の差し込む教室のカギを閉め、私は自分の家にまっすぐ帰った。
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