第3話 逆瀬川の陰謀

 啄木は目を覚ますと、白い病室にいた。今、自分がどこにいるのか、すぐにはわからなかった。隣を見ると、頭に包帯を巻いた成人男性がベッドで寝ていた。その男性が、あの有名な俳優、逆瀬川隆之介だと分かって、やっと啄木は自分の置かれている状況が分かり、同時にあの時の記憶が鮮明に浮かび上がってきた。

 楓を突き飛ばした後、その突き飛ばした腕の上に瓦礫が落ちてきた。幸い、障害物にあたって失速していたため、かなり痛かったが、腕がはね飛ぶことはなかった。啄木はその場にうつぶせになって倒れた。意識はかすかにあるものの、腕の上に乗った瓦礫のため、動くことはできなかった。そして、上のほうで、大きく瓦礫が崩れ、耳がつぶれそうな程の大きな音を聞いた。それも幸いが重なって、ちょうど瓦礫の隙間に位置できたため、瓦礫がそれ以上落ちてくることはなかった。それでなぜか安堵し、啄木は意識を失った。

 奇跡の連続で生きていることが分かり、この一瞬だけ神様を信じた。

「ううっ……」 

 隣で逆瀬川が起きた。

「あ、君もやっと起きたんだね。もう一日僕より多く寝ていたんだよ」

 啄木は驚いて隣のデジタル時計を見た。その日付はホールに行った時の二日後になっていた。

 逆瀬川はリモコンをいじって、ニュース番組を付けた。そこには、あの爆発の映像が流れていた。

「君はこの現実を受け入れられるかい?」

 その時、がれきが崩れた後、消防車による消火活動の映像が流れた。これから助かったと考えると、かなり低い確率を引き当てたのだと分かった。

「現在、逆瀬川隆之介さんの意識は回復しましたが、依然として十一歳の男の子の意識は戻らないままです」と、アナウンサーが読み上げるのを聞いて、それが自分であると認識した。

 逆瀬川は壁掛けテレビの電源を切った。

「まあ、無事でよかったよ」

「あ、ありがとうございます」

 逆瀬川は笑顔で話してくれた。啄木が寝ていた間のニュースの報道、彼自身の私情、両親が見舞いに来てくれていたこと。話し上手だったので、飽きることなく聞き続けられた。

 そして、両親が来て僕を抱いた。すると、お医者さんと看護師さんが入ってきて、なぜか全員椅子に座った。初めに口を開いたのは、お医者さんだった。啄木はてっきり、けがの状態を話してくれるのだろうと予測していたが、彼の口から出たのはそのことだけではなく、それは自分の耳を疑うものだった。

「啄木君、君はこうして生きている。でも、このまま世間に生きているということが分かれば、あの惨劇を思い出しかねない。だから、名前も顔も出ていない今、君はこの社会から一回消えてもらいたい」

 啄木は彼の言っていることの意味が全く分からず、戸惑っていると、警察官が一人、入ってきた。

「失礼します。ここから先は私が説明させていただく。刑事の佐藤だ。実は、関係者の中では、君はもう死んで人間と思われている。そういう風に私から話した。そして、君にやってほしいことは、大人になるまでその嘘をつき続けてほしい。きみはかなり賢いとご両親から聞いている。だから、これから会う人とうまく話を合わせてほしい。さっき話があったが、これは君が報道機関に囲まれないようにするためだ。本来私も、このようなことはしてはいけない立場にある。でも、あの劇をビデオで見せてもらって、君はあまり報道の波には触れて育ってほしくないと思ったのだ。できそうか?」

 突然訳の分からないことを言われて、頭がまだボーっとしていることもあって、何もわからなかった。彼が逆瀬川に言いくるめられた刑事であることですら。

 それから何時間語っただろう。意識が戻ったばかりとは思えないほどの議論の展開があり、少しそれらしい論理の乱れもあった。その混沌の中、唯一確信できたことは、これまでの過去、思い出をすべて捨てるほどの勇気が、まだ自分には足りていないということだった。

 

 そう、あの日、僕は赤に染まった。

 周りを焼き尽くす炎。

 仲間の為に流した血。

 自分を守る為の大嘘。

 それはとても、朱雀の『明』より、玄武の『暗』に近い赤だった。

 外を見ると、真赤な夕焼けが、まぎれもなくきれいに街を照らしていた。

 啄木はため息をついた。これが大人というものか。少し絶望した。憂鬱な気持ちになった。憧れていた大人の階段は相変わらず高いまま、急かされて登るその一段は、体の芯から生気がえぐり取られるかのような気がした。   

 それでも、またいつか会えると思う自分は甘すぎるのだろうか。子ども過ぎるのだろうか。ありがとうの言葉もろくに言えずに、勝手に死んでいった自分と再会した時、彼らは温かく受け入れてくれるだろうか。

 これから自分は、世間よりちょっと浮いた道を生きていく。その軌道が修正できるのは何年後だろうかと思うのも、やはりガキの戯言なのだろうか。

 隣で、逆瀬川はつぶやいた。

「今日は、赤だな」と。

 自分の頭がよほどおかしくなってしまったのだろうか。聞くすべてのことの意味がさっぱりわからない。

 もう休もう。

 啄木は布団にくるまって、深い眠りについた。


 そうして自己暗示をした啄木は、本当に全てを忘れ、自分の設定した通りのことだったのだと、思い込んでいた。

 『ブックマスター』のみんなは死んだ。啄木サイドではそう思われていた。いや、思い込んでいた。


 入院中は寝ていることが多かった逆瀬川は、起きている時に色々な話をしてくれた。

「僕ってどういう風に見える?」

 ある日、逆瀬川が唐突に聞いてきた。

「どうって、かっこよく見えますけど」

「それが演技だとしたら、どうする?」

「どういうことですか?」

「僕は、これまでの人生、色々な経験をしてきた。下町で舞台に出て、お客さんにごみを投げつけられ、外を放浪してホームレスと談笑した。人はみんな、これまで経験してきたことの記憶をたどって、それに似た状況を再現するんだ。例えば、『あなたの手に紅葉載せて』の役は、ちょうどその時のことを思い出しながら演技した」

 逆瀬川は、何の感情もなく喋っていた。

「あの時の演技も、なかなかのものだったよ」

「あれは、みんなが作ってくれた劇です。僕は何もしていません」

「そうかい」

 逆瀬川は乾いた笑い声を上げて、ベッドの上に寝転んだ。

「君はこれから、他人とは違う人生を歩むことになる。これから演技の道に進もうと思うのなら、これからの人生を精一杯生きなさい」

 隣を見ると、逆瀬川はすでに寝ていた。

 もちろん、役者の道に進もうだなんて思っていない。でも、将来のことは考えるべきだと改めて思った。ここ最近、近い将来しか見えてない気がする。大人になった自分は、いったいどんな人物なのだろうか。そういえば、ほかのみんなは自分の夢を持っていた。中でも、仁は作家、弘子は役者というはっきりとした夢を持っていた。

 思い描くのは夢物語か、なりたい、叶えたい夢か。


 またある日、病院の屋上の洗濯物を干すスペースに出ていた時、事件は起こった。

 下の広場で、お医者さんと数人の子どもが言い争っているのが聞こええた。

「だから、彼は生きているんですよね?」

「何があって隠しているのか分からんけど、俺たちに会う権利はあるはずや!」

「だから、もう彼は死んだんですよ。もう葬儀も行われました」

「嘘だ!だったら墓場に連れて行けよ!」

「そうよ!せめて最後に合わせてもらおうじゃないの!」

 その時、病院の入り口から一人の男が出てきた。逆瀬川だった。逆瀬川は何かをしばらく話した。そして、軽く会釈をして、病院の中に入った。そして、お医者さんは頭を下げてそれに続いた。『ブックマスター』のみんなは帰ろうと、来た道を戻り始めた。

 今叫んだら、みんなは気付いてくれるだろう。でも、それでみんなとの日々が帰ってくるとは限らない。そう迷っていたら、もう彼らの姿は見えなくなっていた。

 もう、僕には決断することは、できないのか。

 僕は部屋に戻った。逆瀬川は相変わらず寝ていた。あとにその時の話を聞こうとしても、彼は無視を続けた。


 その数か月後、啄木と逆瀬川はほぼ同じタイミングで退院し、それぞれの道を歩み始めた。そして、逆瀬川はその事件についての自分の責任を感じ、精神的な病にかかって、亡くなったと報じられた。


 こうして、その事件は風化した。

 いや、風化するよう図られた。

 当事者たちも忘れていった。


 でも、真赤の意味は、だれとも交差することなく、心のどこかに残り続けた。


「今日も、赤だ」

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