第5話 嵐過ぎ去りし海
秀人は、静かに降りてくる緞帳を見送った。完全に観客から舞台が遮断された後、みんなは終わった実感がわいていないようだった。啄木はまだ“モード”から抜け出していないようで、
「よし、みんな、さっさと撤収するぞ! いろいろなことは後だ!」などと指示を出している。楓はそれでもぼーっとしているし、仁はその場に座り込んだ。
「おい、みんな、どうした? とりあえず、タクの言うとおり、まずは元に戻さないと」
秀人がみんなに呼びかけるも、大半にはその言葉は届いていないようだった。動いていたのは秀人と啄木ぐらいだった。そのほかのみんなは魂が抜けたように、微動だにしなかった。
パンパン、と先生が手を鳴らした。
「みんな、閉会式には出なくていいって校長先生に許可もらってるから、とりあえず片付けて教室に戻ろう」
それでやっとみんな我に返って、無言で片づけを始めた。いまだ放心状態からは抜け出せていなさそうだった。秀人自身の心にもぽっかり大穴が開いているようだったが、啄木に任命されてクラス長になっただけあって、肝は座っていた。
何とかすべてを修復しきったころには、もう日は傾いていた。最後、見回りが終わって帰って啄木が帰ってきたころには、啄木も放心状態だった。そして、偶然引っかかっていたストッパーが外れたように、啄木は地面に膝をついた。それとほぼ同時に他全員も同時に、マリオネットが操り糸から解放されたかのように崩れ落ちた。
何か大きなことを成し遂げるには、それ相応の覚悟が必要だ。小学五年生の彼らにとって、それは重すぎたのかもしれない。一つの長編名作映画を見終えたときの虚無感に似たものが、彼らの心に残っていた。彼らは演者でありながら、観客でもあり、登場人物でもあった。感情移入のし過ぎで疲れ果てた彼らを、しばらくそっとしておこう、と先生は思っていた。
「先生、ちょっと」と、後ろから肩をたたかれた。校長先生だった。
「はい、何でしょう」
「こちら、アトリアルホールの支配人の、金沢さんです。どうぞ」
「どうも、金沢と申します。素晴らしい舞台、ありがとうございました」
「いえいえ、子供たちががんばってくれたからです。私は何もしていません」
「それなんですよ。この舞台は子供の力がほとんどというのは先程校長先生にお聞きしました。あのクオリティのものを子供だけで、しかも小学五年生の子が成し遂げるというのは、ふつうあり得ないことなんですよ。そこで、一つ話がありまして」
金沢さんは鞄の中をもぞもぞと探り、一つのチラシを取り出した。そこには、「地元の輝く人々」というイベントの概要が書かれていた。もちろん知っている。学校の前の掲示板に載っていたものの、県内とはいえあまりにも遠すぎるので誰が行くのだろうと思っていた。
「これなんですけど、今回の劇をここでやっていただきたいのです」
「えええっ!?」
実は、そのイベントにはコマーシャルソングを歌うバンドや漫才コンビ、アイドルグループや噺家さんなど、テレビに出ているような著名人が多く集うイベントで、テレビ局は五つほど来て撮影し、その中の一局は生放送で全国に流すそうだ。先生はその場所に自分のクラスの子供たちに出させるという決断をすぐに下すことはできなかった。
「ぜひ、ご検討していただきたいのですが、誰か子供でこれの製作に多く関わっていた人はいますか?」
「えーと、ただ、今子ども達はかなり疲れていて……」と、教室の扉の方を見ると、啄木がひょっこりと顔を見せているのが見えた。
ふと気が付くと、教室には先ほどまでの静寂はなく、歓喜の声であふれているのが聞こえた。
「やったんや、俺たち、やったんや!」
「うん、ほんとに、最高だったよ!」
「みんなの本気の姿、五年間で初めて見たかも」
「私たち、最強のクラスだね! ね、たっくん」
楓は啄木のほうを見ると、彼はドアの影から廊下の方をうかがっているようだった。楓はみんなが抱き合って喜んでいる中、何となくそちらのほうに行った。
「何してるの?」
「わっ」
びっくりして思わず啄木は声を漏らした。
廊下を見ると、先生がこちらを見ていた。
知らない人もこちらを見ていた。
「あーあ、ばれちゃったじゃん」
楓は廊下を啄木の背中越しに見た。すると、先生がこちらに手招きをした。二人は顔を見合わせて先生のもとへ行った。
「やあどうも、君たちが製作の幹部だね?」
「え、まあそうですけど。ほかのひとも呼んできましょうか?」
「いや、大丈夫。ありがとう。で、話なんだけど、君たちはどんな思いでさっきの舞台を演じきったか、教えてくれる?」
楓は啄木の顔を見た。もうすっかり“モード”から解放された彼の表情を見ると、いくら待っても答えが出なさそうな顔をしていた。
仕方なく、私が説明することにした。
「実は、彼はあと少しで山を越えた隣の町に引っ越しちゃうんです。それで、読書好きな彼の薦める作品で、彼の参加する最後の学校行事の学芸会をしようっていう雰囲気になって。彼の選んだ作品を、また別のクラスメイトが劇のためにペンを入れて完成したのがこの『海賊たちの声』なんです。その登場人物の一人一人が、まるで私たち一人一人みたいだなって思って、みんな集中して演じました。それで、私たちは誰も劇が始まってからの記憶があんまり残っていないんです。私も、なんであそこで泣いたのか、全くわかんないんです。でも、これはたぶん彼への気持ちなのかなって思ったんです。私はこのメンバーでしかできなかった舞台だと思っています!」
いざ話し終えると、喉がからっからだった。
周りを見ると、各々びっくりしていた。
「君、すごく人に訴える言葉の使い方がうまいね。これなら納得だ。よし、決めた。きみたちに、この舞台に出てほしいんだ」
金沢さんはチラシを彼らに見せた。
「本当に、これまでオファーしてきた中でもこれほど呼びたいと思ったところはなかったよ。どうだい?」
金沢さんはおもちゃをねだる子供のような顔で啄木を見る。これじゃどっちが子供かわからない。
その啄木は、複雑な気持ちだった。ここまで楓がこの劇に対して、そして自分に対して思っていたことへの驚き、参加したいという好奇心、期待にこたえられるかの不安、またみんなとこの劇ができるという喜び。少なくとも、気持ちは参加することについて前向きであったことには違いない。そして、啄木は決断を下した。
「今回ほどのクオリティは期待できないかもしれないですが、是非!」
金沢さんはにっこりとした。先生が慌てて付け加えた。
「あ、でもテレビに出るとかの話は、また保護者の方々の同意を得てからになりますが」
「いえ、全然かまいません。参加していただけたら大丈夫です」
啄木は、大変なことになったな、と思った。
この町を離れるまであと数か月というときに、人生で一度あるかないかの経験をするのだ。もう今は、子供の好奇心しかなかった。
楓のほうを見ると、満面の笑みだった。
嵐が過ぎた後の海には、何も残らない。その虚無に、その虚空に、その大海原に、人は好奇の念を抱いて繰り出す。
海は無常だ。その変わり続けるものに心惹かれるものがいる。その冒険者にしか気づけないものが、一番の宝物なのかもしれない。
二人は教室のざわめきの中に戻った。
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