壱 秋の訪れ

第1話 春の訪れ、目覚め

 土砂降りで、少しテンションの下がった今日、バスの混雑を避けるために、普段もかなり早いが、さらに早めに登校して本を読んでいた。このクラスの皆は朝遅く登校する傾向にある。もちろん、今日も一番乗りだ。しかし、本を開いて間もないうちに、秋奈はやってきた。

「おはよー! って誰もいないか……、あっいた!」

 秋奈は自分の席にカバンを乱暴に放り投げて、近くにやってきた。

「おはよ」

「おはよう」

 一瞬の沈黙が流れた。

「えー、なにそれー。なんか話そうよー、本なんか読んでないで」

 そういって僕から本を取り上げた。

「あっ、やめろっ」

 秋奈はその表紙を見た。

「『エレベーター』?」

 人生を見つめなおすフィクション、『エレベーター』。主人公が死んだ後にとりついたエレベーターは一味違い、乗った人の悩みが解決されるまで、次のフロアにつかないというものだ。そこで言った人の言葉や、生き様を見て、主人公が学んでいくという、自己投影型の小説だ。

 そう説明すると、秋奈は難しそうな顔をして、

「ふうん、そんなの読んでるんだー」

 と、つぶやいた。

「そんなのとは何だ」

「いや、悪気があったわけじゃないよ。そういうことを考える、大人な子って、あまりこの学校にいないから。前から大人っぽいって、思ってたんだよねー」

「あ、そう」

 僕はすぐに話を切り上げた。また秋奈が話しかけようとしてきたが、女子生徒が数人教室に入ってきて、連れていかれた。なので、僕は安心して本の続きを読んだ。

 その日の授業が終わった後、僕は図書館に行った。ろくに部活動もやっていない僕の放課後は実にのんびりとしていた。本をいつも決まった位置で読み、ちょうど差し込む日が6時ぐらいに消えて、幻想的な色の空になった時、のんびり帰る。今日の僕の放課後も、そうなるはずだった。


 こんにちは、と私は彼の隣に座り、自分の本を膝の上に置いた。

「あのさ……」

「図書館内では、しゃべらないで」

「あ、ごめん」

 不穏な空気が流れた。気になった僕は秋奈のほうを見やると、何やら小さな紙に書いているようだった。すると、秋奈がこっちを見て笑って、

“じゃあ今日一緒に帰ろ?”

 と書かれた紙を見せてきた。なるほど、筆談なら話せる、と踏んだわけか。

 彼女、秋奈とは中学二年生からの付き合いではあるが、それは僕がその時に転校してきたのだから、そのころに会った人とは近からず遠からずの仲で、親しい人はおらず、半ば第三者としてみんなの会話を聞いているだけだった。でも、悪いやつは少なかったので、日常会話ぐらいはした。その中でも秋奈は苦手な部類に入っていた。

 マリンスポーツをしている彼女は、快活な少女で、とても僕とは合わない人だった。社交的で、話し上手聞き上手。クラスの男子から告白されたことだってあった。でも、何より人をからかうのが好きだった。なので、これも昔のようなからかいの対象が僕に向いただけなのだと思っていた。

 仕方なしに、僕はうなずいた。


「ねぇ、さっき読んでた本は朝のとは違ったみたいだけど」

 帰り道で秋奈が話しかけてきた。

「ああ、これか。『セッチュウキャンプ』だな」

「『セッチュウキャンプ』?」

「都会に住む一人のサラリーマンが同僚三人とともに、雪の降る北陸に旅行に行き、その雪を前に童心が戻りそうになったが、旅行を知っていた友人から、雪崩でその集落が孤立状態になったことを知らされ、どうしようもない状況に、今後の予定や仕事に対するストレスから起こる人と人とのぶつかり合い。これほど人間の醜さを美しく書いている作品はない!」

 そう、この本について力説したのは、これほど暑苦しくスピーチをしたらあきれて帰ってくれると思ったからだ。しかし、これが裏目に出たのは予想外だった。

 拍手をぱらぱらとした秋奈は、興味津々なまなざしを僕に向けていた。

「ますます面白いね。君は」

「えっ」

 僕は不意を突かれて、裏返った声を漏らした。

「私ね、君が本をずっと読んでいるのを見て、どこかで似たような人を見たことがある気がしたの」

「そう? 本を読む人なんて、そこら辺にいる人に声をかけても当てはまると思うけど」

「でもね、そんなありふれたことじゃなかった気がするの」

 全く話の意図がくみ取れない。

「ホールで劇とか、やってたかなーって?」

「はっ!?」

「いや、何となくそうかなって……」

「何で……」

「えっ?」

「なんでそれを知ってるんだ!」

 僕は久しぶりに感情をあらわにして、相手の目を見た。

 それは、本当ならば知っている人はもういないはずのことだった。僕は昔、あるイベントに出た経験がある。しかし、その時にあったある事件は、僕の心に穴をあけたまま、苦しさと空しさを残し、時の流れに導かれるようにこの世からもう消えたはずだった。

 それを、なぜ、なぜ……。僕は目をそらした。

「なんでお前が知っているんだ! ニュースでやっていたのかもしれないけど、なんで俺だと分かった! あれのせいで、あいつらは……」

 自然と涙が出てきた。これほどの感情に、抗えるものか。

「えっ、いや、私……そんな……」

「あっ、ごめん。そんなつもりじゃ、ごめん。あのさ、えっと…」

正気を取り戻した僕は、目の前で女の子が泣いているのを見て、戸惑った。しかも、その相手は秋奈だ。もしこんなところをほかの男子に見られたらどんな仕打ちに合うことになるか。

 焦りが顕著に出て、僕は何を言ったらいいのかわからなくなってしまった。

「……う」

「ほんとにごめん!何でもするから、だから……」

「違う……」

「えっ?」

「違うよ。君が本当に言いたいことを言うなんて、うれしかったんだ」

「……は?」

 これだから女という生き物はわからない。遠くのほうで、がたんごとんと電車の陸橋を通り過ぎる音がした。

「私、知ってたんだ。きみが本当の気持ちを押し殺して生きているっていうの。ちゃんと覚えてないけど、私、君が本気のところ、見たことある気がするの」

「本気……“モード”……」

 本気なんて、いつ失ってしまったのだろう。出そうと思えば出せるはずの、限界を超えた力。それを知っているのは自分自身。抑え込むのも自分自身。でも、僕はいつからか本気を失った。出したくないのではなく、出すこと自体、できなくなってしまったのだ。本気で何かと戦う人ってかっこいいと思っていた小学生の頃……。

「だから大丈夫、君が怒ったんだったら謝る。ごめん」

 なぜか僕が謝られてしまった。

「別にいいよ。僕もいきなり怒ったりして」

 上目遣いで僕のほうを見やる秋奈。僕の顔が一瞬赤くなった気がした。が、それはすぐ、

 いつもどおりになった。

「ん? どうかした?」

「ちなみに、さっき言ったこと、覚えてる?」

 悪戯っ子の笑みを見せて言ってきた。

「あ…」

「なら、一ついい?」

「いや、え……僕は何も……」

「男に二言はないでしょ! 観念しなさい!」

 ひぇ~、と猿芝居で答えた。

「で、何? 駅前のスイーツをおごるとか、荷物持ちとか?」

「ふふん」

 得意げな表情を作った秋奈の発した一言は、僕の一か月を変えることとなった。

「だったら、毎朝私と登校して。あと、放課後に今日みたいに図書館で一緒に本を読ませて」

「嫌」

「えー! 何でー? 別にいいじゃん。隣で本を読むぐらい。邪魔はしないからさ。」

「単純に嫌。というか何で僕なんだよ。もっと適役はいるって」

「それは、私の気分よ♪」

「はあ? そんなもので通用すると思っているのか?」

「じゃあ学校で流すよ?」

「それだけはっ」

「じゃあ決まりね? あと、下校もね」

 してやられた。僕は自分のカバンを肩にかけなおした。

「それともう一つ」

「まだあるのー?」

「私に週一で本のプレゼンをして」

「はぁぁぁぁぁ?」

「だったら、これ」

 秋奈の手にはスマホがあった。その液晶には、『町田啄木、女子生徒泣かす。』と書かれたツイート画面があった。慌てて取り上げようとしたらひょいっとかわされてしまった。

「まだボタンは押してないから、まあ、よろしくね、来週。今日教えてくれた本、たしか『セッチュウキャンプ』だっけ。それは明日探してみるから。はい」

 そういって秋奈は不敵な笑みを浮かべ、スマホを持ってないほうの手で僕に手を差し出した。

「よろしくね。町田君」

 すっかり乾いた彼女の目には今、勝ち誇ったような笑みが浮かんでいた。


「じゃあ、私はこっちだから」

「ああ、じゃ」

 そして、去ろうとした彼女の口元の動きに、僕ははっとしたのだった。


 夕焼けを見た。カラスが飛んでいた。約束をした。その非日常を思い出し、僕は日記をしたためた。

“今日は不思議だった。

 「おかしなこと」だらけだった。

   嘘みたいだと思っても、

    信じられなくて、

     何かが僕を変える気がした。

          嘘みたいだけど。“


 僕の日記はたいていこんなもんだ。詩みたいなもので、僕のその日のこころを書く。

 僕は日記を閉じ、『セッチュウキャンプ』を開いた。誰かにもらったブックカバーに手をかけ、本を読み進めた。蛍雪の功という言葉があるが、僕は月の明かりが出ているときには真夜中に本を読む。だいたい日付が変わるころ、月は屋根の上に登って見えなくなり、そのタイミングで僕は本を閉じ、布団にくるまる。 今日はおぼろ月。少し早めに終わろう。そう思ったのだ。

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