0133 本質

 地面を打ち付けるような雨は、濡れた地面の雨水を弾けさせるように強まり、降り続けた。さっきまではポツポツという音だった傘に当たる雨粒も今はバタバタとうるさいい音になっていた。

 俺が池浪に傘を差してやった頃には、彼女はもうズブ濡れだった。

「すみません。ありがとうございます」

「大丈夫か?」

「見苦しい姿を……」

「まあ……、気にするなよ。俺も……あらかた同じ気持ちだ」

「よかった……」

 ――池浪は差してやった傘を受け取り、目を閉じたまま長い深呼吸をした。その口元には笑みがうかがえた。多少の池浪の不可解な行動には、もう不思議だと感じる純粋さなど俺にはいささかも残ってはいないはずだったが、何故かこの瞬間はその姿に見惚みとれてしまっていた。

 

 

 

「鳥嶋さん、私、書きます!」

 

 

 

 即時にその意味は理解わかった。その言葉はこの記事を自分が書くという決意表明なのだ。

 



「わかってるよ。待ってたぞ、おかえり」

 



 それでこそ、池浪耀だ。今、俺の目の前に立つのはまさしく、女『松岡修造』だった。

 

「あの……、鳥嶋さん」

「えっ?! 寒いか?」

 ズブ濡れの池浪を助手席に乗せ、俺が何か助けになるようなものを貸してやれるとすれば、今朝の倉庫で作業していた時に俺が首に巻いていたタオルぐらいだった。

 秋もしだいに深まって来ているとはいえ、まだ車内を暖房で暖めるには時期尚早なのだが、池浪は俺のタオルで濡れた髪を拭きながら、温風を顔に受けていた。

「寒くないです。タオル助かります」

 ――匂わないか心配だった。

「ヒスイ、拾い集められたか?」

「はい。でもたぶん全部は無理で……。ただこの子たちは由喜恵さんコレクションの元々の居場所に帰してあげたいと思います」

 ――その言い回し……、お前らしいわ。

「さっき、何か言おうとしてたやんな」

「ああ、その……」

「なんやねん」

「鳥嶋さんが那珂文舎賞を受賞した作品を読みました」

「ああ、そりゃそうやろな。むしろ読んでなかったことが理解不能だ、そもそも受賞者を過去にさかのぼって知ろうとせずに何を目指そうとしていたんだ、お前は」

「たしかに……」

「そっか。読んだんだな」

「何と言えば良いか……」

「まあ何も言うな」

「はい」

 

 一時いっときは強く降っていた雨も、もう止んだようだった。信号待ちで車内の空気を少し入れ替えようと、俺は窓を少しだけ開けた。その隙間から流れ込む外の空気は、雨上がりの後の独特な田舎の匂いがした。

「石の匂いがする……」

「何でも石に結び付けたがるんじゃない」

「ペトリコールです」

「池浪、すまんが説明してくれ」

「この匂い、ちゃんと名称があるんです。ペトリコールと呼びます。この言葉、ギリシャ語では石のエッセンスを意味します」

「エッセンス……、本質?」

「そうです。雨が降った時にだけ感じられる石の最も大切な要素……。心にみます」

「深いな」

「鳥嶋さんは、どんな気持ちであの作品を書いたのか聞こうとしました」

「なるほどな」

「那珂文舎賞は意識しておられたのでしょうか」

「まったくです」

「信念は……、まず何を信じて書いたんですか」

「俺は……」

 ――あの時のことを思い出していた。もう何もかも消えてしまえばいいと、現実世界から逃げ出してしまっていた。自分は何をしているのか、何をしたいのか、何をするべきなのか……。もう何も考えることをやめて、非現実の中に閉籠とじこもりたかった。

「ノンフィクションの役目って何だと思う?」

「役目……ですか」

「人間は、現実から目をそむけて生きられない。そりゃ楽なんだ、現実を見ない方が。残酷だから、現実は。だけどこの世に起こる残酷な現実を知って、ゆえに幸せを求める。愛する人の幸せを願う。心のいたみを知ってこそ罪の深さを感じられると思うんだ、俺は」

「そう、ですね」

「ノンフィクションの役目は、現実を切り取って残すことだ。そうしなきゃまたたく間にみるみる消えていく、残酷で最も大切な現実を世の人たちの記憶に残す」

「現実の本質って……」

「ああ、それは人間の心のエッセンスみたいなもん……かな」

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