0131 衝突

「は、はい。あなたは……」


 池浪からの問いに蒼井果奈は、どなたですか?とでも言いたげにキョトンとしている。自分の裁判の場の法廷内で、あんなにも大胆に証言を否定した傍聴席の人物を、百歩譲って憶えていないとしても、そんな出来事さえなかったとでも言いかねない表情だ。それに、池浪の言っていたことがお門違かどちがいな勘違かんちがいでもない限り、この人は自分が嘲笑ちょうしょうの眼差しを向けた相手が目の前にいることになるのだ。

「私たちは那珂文舎の記者で、あなたと白峰由喜恵さんの事件をずっと取材してきました。公判の傍聴もさせていただきましたが……」

「すみません。存じ上げません。裁判の時は心の負担が大きかったもので、その時のことはあまり憶えてなくて」

「そうですか……」

 辺りは風があかく色付いた木々をを揺らす音が、時折やや乱暴に聞こえるだけで、会話の合間は一呼吸ひとこきゅうほど沈黙になる。その時、しばらく黙ってこちらを無表情で見ていた夫の蒼井秀忠は、妻の耳元に何やら耳打ちした。何を伝えたかなど興味はないが、蒼井果奈は相手が記者だと分かった上でも、表情を変えずにこう言った。

奇態きたい可笑おかしく見えるでしょうね。自分があやめた人のお墓参りに来ているのですから」

「いえ、そうは思ってません」

「私も言葉にしがたい複雑な気持ちでここを訪れています。だけど供養の心に偽りはないと思っています」

 会話の内容は至って自然だ。言っていることもこれと言って違和感はない。だがしかし池浪の思惑は初めから決まっていた。はいそうですかとは、この千載一遇せんざいいちぐうのエンカウンターの瞬間を逃す訳にはいかないと言わんばかりに語気鋭ごきするどく迫る。

「蒼井さんは『赤心の家』をご存じですよね」

「いいえ。何の家ですか?」

「白峰さんが野菜を届けていた児童養護施設です」

「先生が野菜を……。知りませんでした」

「その先生が、蒼井さんの野菜に害虫を放ったと言っておられたんですよね」

「それは、私が……未熟でした。農業人としても、大人としても」

「蒼井さんが白峰さんの元を去って、再び八王子に戻られてから、農園に悪質な郵便物や動物の死骸などの嫌がらせがあったそうです」

「それは……、大変でしたでしょうね」

「地域の防災訓練では、農園にだけそのことが知らせずに行われたそうです」

「そ、そんなことが……」

「なぜ再び八王子の農園の近隣に戻られたのですか?」

「また……先生に指南を仰ぎたかった。のだと思います」

「あなたのご友人が証言された、人生を変える方との出会いと関係がおありですか?」

「その人とは、この主人のことです。でも農業とは無関係です」

「白峰さんが農園の北端に建てた、塀は……ご存じですよね」

「ええ、壊されてしまいました。とても可哀相でした」

「自然野菜家族の農園の拡張の話題は、お仲間たちとお話しされた?」

「奥様たちがそんなような噂話をしておられたような……。でもあの人たちいつも噂話ばかりでした」

「あなたがヒントを与えたのでは?」

「…………どういう意味?」

「ところでどうして初めから無実を主張しなかったのですか?」

「だから、その時そのことを証明できる人なんていなかったじゃない」

「あなたは、山白峰やまのしらみねの中がどんなか知っていますよね」

「何ですか?それ」

「農園の白い建物です」

「ああ、納屋とあとは更衣室や休憩所でしょう」

「二階と三階へは?」

「入れるわけないでしょ。先生の部屋に」

「…………本当ですか?」

「あなた何を言って……」

「白峰さんのコレクションの趣味を知らないんですか?」

「知りませんよ」

「じゃあいいです。事件当日の朝、なぜ結城さんのお宅から見える農道をわざわざ通られたのですか?」

「近道だからです」

「農作業するような服装でないのに?」

「だから近道を使うのでしょ」

「…………」

「もう、帰ってよろしいでしょうか」

「あなたと白峰さんは最後に何を話したんですか?」

「証言した通りです!」

「白峰さんは何と叫んであなたを襲ったんですか?」

「聞き取れなかったってば!」

「あなたは無罪になった直後、私を嘲笑あざわらって見たでしょ!」

「知らないわよ!」

 

「ブルーフルーツはあなたなんでしょ!」

 



「あの人は魔女だから、魔女裁判にかけて魔女狩りにしてやったのよ!」

 



「なっ!!!」

 

 背筋が凍る。ついに出た、これが蒼井果奈だ、と俺は思った。その顔つきはまったくの別人のように面変おもがわりし、もはやそこに立っているのは人間ではなくなってしまってさえ見えた。ついに現した正体、これが『真実』であり『心実』だったのだ。俺の背筋を走った戦慄せんりつはこの肌を粟立あわだたせるように全身に広がり、後頭部でジワリとした痺れを感じさせた。

 この青ざめる言葉の直後、夫の秀忠は妻の両耳を塞ぐように両手で押さえ、掴んだまま妻の顔を自分に近付けた。そして目を離さず、ゆっくりと顔を掴んだその手で塞がれた耳を開放して言った。

「もういい」

 そうなだめられた蒼井果奈は脱力しそのまま夫に寄り掛かる。

 同時に衝撃的な言葉を聞き、その場に崩れ落ちそうになった池浪の肩を、咄嗟とっさに俺は掴み抱きかかえた。

 蒼井秀忠が俺たちに言う。

「完全にオフレコの雑談だ。あんたたちはこちらの許可もなく質問してきた。まったく非合法なやり方だ。一事不再理いちじふさいりはもちろんのこと、こちらは今後一切そちらからの訴えには応じない。ましてや裁判後の心的ストレスによる療養中のための取材拒否は、正式にオタクの会社に出していることから、あんたたちは一切手出しできない。わかってるだろうな」

 そのあせつくろうような弁護士トークに付き合うつもりははなはだだなかった俺も、そんなことは言われなくても分かっている。

「分かってますよ。でも記事にはします。ウチは写真週刊誌ですからね」

「勝手にしろ。この場で妻は何も会話していない」

 それだけ言い残し、この場を去っていく黒い喪服姿の男女のシルエットが、遠く小さくなってゆく様子をただ俺たちは黙って見送るしかなかった。

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