0125 感情
どれくらいの時間が経ったのだろうか。長い時間が経過した事を短く感じているにしろ、短い時間の経過をとても長く感じているにしろ、この空間が、俺の身体的感覚を平静に保つことにやや差し障りがあるのは間違いない。
「では裁判官から質問します」
「はい」
裁判長は少し黙って蒼井果奈を静視し、最後の被告人質問を始めた。
「事件当日、あなたは何時に起床しましたか」
「日は昇っていました。何時かは憶えていません」
「起床してから出掛けたのは何故ですか」
「その日は少し寒かったので、畑の水はけが心配で様子を見たかったので」
「スコップ、は何に使うつもりだったのですか」
「もしも畑に水溜りがあると良くないので、そのためです」
「そうですか……。確かあなたのその時の服装は、農作業をされるような服装ではなかったという証言がありましたが」
「…………」
蒼井果奈は黙った。しかしそれに動じる様子はない。
「少し寒かった朝、軽装で、何のためにわざわざスコップを持って畑へ?」
「畑の様子を見に。土の調子が悪ければ
裁判長の質問はいたってシンプルに聞こえたが、弁護側の主張をどう読み取るかにおいては、非常に重要なポイントになった。
「…………、わかりました。あなたへの質問は以上です。元の席へお戻りください」
裁判長は穏やかな口調で冷静に質問していたが、一言一言に重みがあった。それに対する蒼井果奈の返答は
――公判初日が終わった。この裁判に感情移入し過ぎている自分に気が付く。
張り詰めた緊張感が、開いた法廷の出入り口から空気の流れとともに室外へ開放された気がした。
突然、思い立ったように池浪が席を立ち俺に言った。
「鳥嶋さん、あの人に聞きたいことがあります」
そう言うと、風のように法廷から飛び出して行く池浪を、俺は見失わずに追うだけで精一杯だった。
池浪が言った『あの人』は裁判所内の駐車場で呼び止めることができたらしい。
「蒼井弁護士、すみません少し宜しいでしょうか」
そのガッチリした背中で池浪の呼びかけに反応した被告人の夫、蒼井秀忠はゆっくりとこちらを振り返った。
「どなたです?」
「
蒼井秀忠は少し細めた目で、池浪をまじまじと見て言った。
「よかったですね、審判妨害罪にならなくて」
その表情は笑顔のようにも見えたが、目の奥は笑っていない。何と言っても弁護側の証人尋問の真っ最中に、大声で邪魔したのだから無理はないかも知れない。
「奥様の弁護は、なさらなかったのですね」
「……それが何か?」
「素朴な疑問です」
「これは、取材ですか?……それとも、雑談ですかね?」
「取材では……ありません」
「そうですか、ああ、まあいいか、あの弁護士ね、女性の」
「はい」
「私の妹なんですよ」
「えっ?!」
「今は結婚して姓は『蒼井』じゃありませんがね、うちは兄妹揃って弁護士なんですよ。被告人にすれば義理の妹になりますね」
今思えば、法律事務所のホームページに写真があったかも知れない。姓が『蒼井』でないことで気にも留めなかった。
「差し支えなければ、妹さんが弁護を担当した理由は……」
「ああ、まあ別に私が担当しても構わなかったんですがね、妹がこの裁判の弁護は自分がやりたいって言うもんで、女性の被告人の弁護だしその方が心象もいいでしょうからね」
「そんな理由で……」
瞬間的に彼の表情から感情が消えた。無表情になり、同時にその口調からも感情は消えていた。
「もうよろしいでしょうか。では失礼します」
そう言い残し、大柄なその背中はのしのしと去って行った。
「兄弟揃って弁護士ねぇ」
「…………」
「どした?」
「似てない…ですよね」
「熊と兎の兄妹もいるんだろ、地球上には…」
「それはいません」
――どこか、はるか遠くの空で雷鳴の轟きが微かに聞こえた。
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