旭座の女
北風 嵐
第1話
網干(あぼし)圭吾は弁護士である。大阪の阿倍野区美章園という所に事務所を構えている。初めての来訪者はまずわからない。その筈である。誰も弁護士事務所が高架下にあるとは思わない。丁目、番地を見ながら来ても、高架の向かいのビルらしき建物の方を探す。
美章園駅はJRの天王寺駅から和歌山線で一駅目にある。この辺は戦災でも焼けず、大正時代や戦前の町家が多く残され、レトロ感を残している。その分、発展から取り残された街ともいえる。
事務員は一人いるが、電話番とお茶汲みしか出来ない。もっとも、それ以上の仕事もないのであるからそれで十分なのだが…。事務員小倉恵子は28才、バツイチの子持ちである。子供は〈あんこ〉という名前で、5才の女の子である。変な名前は前の亭主がつけたが、娘は別段嫌がるふしもない。恵子も呼び慣れると、けっこう可愛い名前だと思うようになった。おとなしく一人で遊ぶのが好きで、手がかからないので恵子は助かっている。
恵子は駅前にあるパチンコ屋で圭吾と知り合った。よく、台を隣にした。圭吾は何時も箱を積んでいる。恵子は勝ったり、負けたり。負けてはいられないのである。勤めていた町工場が倒産して、目下、失業保険で食いつないでいる。子供を抱えて本採用のところは中々ない。パート勤務ならあるのだが、子供がいるから健康保険があるところが希望だった。
「お姉さん、もう上がりかい。さっき来たばかりじゃないの?」
「お大臣みたいに打ってられへんの。何せ子持ちの身分やからね」
「65番の台に行ってみな、二人つっこんでいたから、そろそろ出るかも知れんよ」
と言って玉をくれた。
ちょくちょく助けてくれるので、恵子は自分に気があるのかと思っていた。顔にはいまいち自信がなかったが、身体の線には自信があった。子供を一人産んでいるなんて誰も思わないだろう。でも、このナイスバディを褒めるのが鏡に映った自分であるのがチト淋しかった。
子煩悩な圭吾のお目当ては娘の方であった。圭吾は36才で、妻とは別居中であり、あんこと同じぐらいの歳の女の子があるのだが、あんまり逢わしてもらえないとのことだ。あんこに景品のチョコレートをくれたり、恵子が熱中して打っているときなどは、ファミレスに連れて行ってくれたりした。
三人一緒で食事をしたとき、仕事を探していることを言ったら、法人登記をしているので健康保険も適用出来るし、ウチで働かないかと誘われたのである。弁護士と聞いて恵子はビックリした。雰囲気もそんな「先生」という柄でなかった。気さくな街のお兄さんと云った方が似合っていた。何よりパチンコばっかりで、いつ仕事をしているのかという感じであった。
「ウチ、自慢やないけど、運動には自信があるけど、勉強はさっぱりやねん。法律事務所の事務員なんてとっても無理やわ」と断った。
「電話番とお茶汲みが出来れば結構。事務所のことは外で喋らない口が固いことが条件、お姉さんは大丈夫そうだ」
その上、子供を連れて来てもいいと言ってくれた。「ただし給料は安いよ」と付け加えられた。保育料だってバカにならない。二つ返事で引き受けたのだった。恵子はどうも不思議だった。弁護士といえばあの難関の『司法試験』に受からねばならない。それぐらいの知識は恵子にもあった。絶対!そうは見えなかった。そのことを思い切って尋ねてみた。
「ああ、僕の親戚に法務大臣になった人があってね、コネが効いたのさ」と圭吾が答えた冗談を恵子は長いこと信じたのである。
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