第11話 『Die Young』
「えー、当校は30年に渡る歴史の中で、いつの時代にも通用する人材育成と、新たな時代を開拓する意志を作る、自立心を育てる教育を行っておりまして、えー、その結果がですね、多種多様かつ個性ある部活動となっておりまして――」
住川第5にもいよいよ本格的な冬が訪れ、年中陽が差さない体育館の舞台袖は寒かった。今年は雪こそ遅いが、霜山がぶつくさ言いながら持ってきた足元用のハロゲンヒーターひとつでは、5人全員が温まることはできない。ワックスが丁寧に厚塗りされた床へ制服で座っていると、素肌から冷たさが喉元まで上がるような感じがした。
「リーダーが制服着てんの久しぶりに見たな」
「うっせ。仕方ねえだろ説明会なんだから」
「似合ってんのにな! もっと着りゃあいいのにな!」
「……」
「テリーくんも同意だって」
こちらをじっと見つめる寺嶋の不気味な視線を、青白い頬の芽衣子が代弁してくれる。最近思うのだが、自分以外の人間は目を見れば寺嶋の言いたいことがわかるらしい。何故だ気持ち悪い。背後の舞台中央では、スクリーンに年間予定表を映した教頭が、毒にも薬にもならない学校説明をしている。8月は夏休みなんてどの学校も同じだろう。そんなことは説明しなくても良い。あまりのくだらなさにため息をついたら、上手側の舞台上に控えている霜山も、同じタイミングでため息をついていた。
「――それでですね。このように多様な行事の中、まあその、長閑な環境ということもあり、生徒たちは皆伸び伸びと学んでおります。そして――」
「言うほどのどかな環境か?」
「のどかじゃねえよなあ。ブッ飛んでるやつばっかじゃね? 葦原先輩とか木津先輩とか……」
「葦原パイセンがぶっ飛んでんのは味覚だけだろ。おれは伊藤とかのがやべーと思う」
「まあまあ。いじめとかヤンキーとかは無いじゃん」
「いじめもヤンキーも無いけど露出狂と馬鹿は多いゾ」
「……!」
「テリーがさ、おれたち露出狂の馬鹿だって!」
「しーッ、おめーら静かにしろ」
剣道部連中が貸してくれた分厚いダウンジャケットを羽織り、凍えながらコソコソ話をしているが、緊張感と寒さは変わらない。
「……芽衣子。寒いだろ。もっと寄れ」
少し離れた位置にいた芽衣子の腰を抱き寄せてヒーターに当たらせると、反対側の尾津たちもぎゅうぎゅうと詰めてくる。男臭いし鬱陶しいが、団子状になっていれば少し暖かかった。通りすがった星野には「サバ団子だ」と言われた。
「……つーか鳥頭野郎ども、ちゃんとセトリは覚えてんだろうな」
寒さでぐずぐず洟を啜りながら、一応部長風を吹かせてみると、低い声で「ウス」と返事があった。芽衣子の顔を覗き込んでみると、芽衣子は眉尻を下げて軽くはにかむ。相変わらず可愛いなと思ったが、顔には出さずに前を向くと、オレンジ色の光に顔の産毛が焼かれるような感じがした。
「油断すんなよ、3曲だけでも間違えたら赤っ恥だ――」
テストが終わってから、学校説明会のある今日までの2日間は、てんやわんやで準備をした。芽衣子が入って重音楽部のレパートリーは増えたけれど、人前に立って弾くレベルで詰めたのはそれこそ「I Want It All」や「When Death Calls」くらい――つまり、クイーンにアイオミが参加した曲と、ブライアン・メイがサバスに参加した曲くらいのものだ。趣味全開だが、芽衣子が入ってくれたんならそれをやらない手は無い。
要求されたのは3曲なのだから、あと1曲を簡単な「We Will Rock You」で埋めれば良い、なんて発想は甘すぎる。「We Will Rock You」は伴奏が無い上にメロディがシンプル、かつ観客参加型の曲だから、技巧を上回るヴォーカルのカリスマ性と、観客との強いコミュニケーション能力が要求されるのだ。尾津には荷が重い。
それに「I Want It All」はまだしも「When Death Calls」は演奏できない。哀しいけれど曲の知名度が低すぎる。
ブラックサバスしかレパートリーの無い重音楽部は、短い時間で必死に考えた。超短期間で習得できて、自分たちの音作りと合い、ついでに手持ちの機材で事足りて、中学生たちが喜ぶ曲は何か。いや、ねえよそんなもん。
でも――頑張って、考えた。
「……リーダー。やっぱハル先生とか服部パイセンに歌ってもらったほうがよかったかんじゃねえかなあ。おれさ……」
気弱な事を呟く尾津の頭を、寺嶋がわしゃわしゃ掻き回す。芽衣子が励ましの言葉をかけようとするのを遮って、相澤も尾津の背中を撫でた。子供の頃は丸く小さかった背中が、今では随分逞しく――というかふとましくなったものだ。しかし弱虫なところは昔から何も変わらない。それを咎める気は微塵もなかった。尾津は尾津らしく、そのままで良い。こんなときに「自信を持て」なんて言っても、何の意味も無い。
何も言わず撫で続けていると、やがて教頭の話が終わり、そこらのローディーよりもセッティング作業の早い吹奏楽部員たちが重音用の舞台転換を始める。体育館の中は次第にざわめき出した。相澤たちは最後に少し肩を寄せ合った後、コートを脱ぎ、それぞれの楽器のもとへ向かう。
「……芽衣子。緊張するか」
2本のギターは埃にまみれたピアノの前に置いてある。芽衣子のレッドスペシャルは表面の艶を消す加工が施されていて、それがいつも、無垢の素肌のように見えた。白い芽衣子の横顔が、静かに髪をひとつに結わえ、ギターのストラップを肩に掛ける。それに倣ってギターを持ち上げ、相澤は深く息を吸った。
「……あんまりしない。不思議。ここに来る前はおじさんバンドにいて、その頃はライブなんてある度にドキドキしてたのに。つかさちゃんは?」
「……そうだな」
揃いの制服を着た芽衣子と正面から対峙すると、まるで鏡を見ているような気分がした。長い睫毛に縁取られた深緑の瞳を見ている内、相澤は爪先から昂揚感が込み上がってくるような感覚を持つ。
緊張が無いわけではない。が、それは自分が重音楽部の責任者だからだ。緊張はするが、不安は無い。芽衣子がいれば、自分は何にだってなれる。誰よりも強くなれる。
「……気合い入れていくぞ」
「うん!」
体育館のギャラリーに駆け上がった吹奏楽部員たちが、黒い遮光カーテンを次々に閉めていく。客電が落とされ、ステージの上の照明がモーター音を唸らせて動く。
青く冷たい光に、一塊の影と化す舞台。期待の歓声と小さな拍手。サポートに入ってくれる吹奏楽部部長の栗栖の大柄な影が、対岸の舞台袖で手を振った。袖幕の近くに控えている吹奏楽部の1年生に「ご準備は」と問われ、相澤は頷く。断続的に聞こえていたドラムの音がぱたりと止む。出の合図は、向こう側に見えるペンライトの赤い光が、緑の光に変わったことだ。
『それでは、部活動紹介の一環と致しまして、当校随一の歴史と伝統を持つ――』
『さあさあ皆様お待ちかね! 重音楽部の登場だッ!』
司会の教育主任のマイクを奪い取って豪快なアナウンスをしたのは校長だった。相澤は苦笑して、歓声と拍手の上がる中、重厚なシンセサイザーの音色の満ちる舞台へ歩み出る。
舞台の真ん中でオープニングのイントロを奏でる瞬間は、いつでも特別だ。闇に沈んだ体育館は普段とは全く違った表情を見せ、どこか薄気味悪くもある。囁くようなイントロは、普段はディレイを使う。しかし今日ばかりは振り返ったところに芽衣子がいる。スポットライトなんて大層なものなど無い。繊細な和声が漂う中で、ふと芽衣子と肩が触れる。そうすると、芽衣子が微笑んでいるような気がした。
瞬間、爆発的なバンドの音とともに、巨大な歓声が舞台を圧倒した。眩い光の中で顔を上げた相澤は、体育館を見渡して息を飲む。なんて人数だ。いや、もともとこの高校は低偏差値の割に治安が悪くないからそこそこの人気校で、そこそこの倍率があって、説明会にはそこそこの人数が来る。
しかし、何だこれは。ステージすれすれまで詰められたパイプ椅子の行列は体育館後方まで続いていて、その背後には立ち見の大人たちまでいる。稲妻のようなスマホのフラッシュに戸惑い、相澤たちは顔を見合わせる。
何だこれは。完全に想定外だ。しかし、演奏を止めるわけには行かない。想定外の出来事をチャンスと捉えられないようでは、バンドなんてできるものか。噛み締めた唇で無理やりに微笑むと、不安げにこちらを見ていた仲間たちが皆、前を向いた。
1曲目に選んだのは「Die Young」。オジー・オズボーン脱退後、ロニー・ジェイムス・ディオ期のブラックサバスの最高傑作のひとつだ。流麗かつ冷静なアイオミのギターと熱情を孕むベースとドラムの激しさと、それらを圧倒するディオの歌声が心地よいこの曲は、ブラックサバスのファンのみならず、多くのロック好きの大好物でもある。
中学生には有名と言えないこの曲を選んだ理由は、大きく分けてふたつある。
まずひとつは、相澤たちの得意な曲であるということだ。先程までの緊張や落ち込みなど吹き飛ばし、舞台下手から飛び出してきた尾津が歌い出すと、ひときわ大きな歓声が上がる。視界の隅、舞台袖で驚愕の表情を浮かべている霜山を見つけ、相澤は唇の端を上げた。
相澤のバンドは、オジー期のサバスしか演奏できないと勘違いされている。それも当然だろう。だってそれしか人前で演奏してこなかったんだから。だがそれは、実を言えば大きな間違いだ。相澤のバンドの最大の特徴は、どの時期、どのラインナップのブラックサバスの曲でも、即時に、かつ十分に演奏できることなのだ。
引っ掻くようなギターソロの合間にも、寺嶋のベースの猛攻が続く。演奏スタイルがピート・タウンゼントな彼は演奏中盤にもなるといつも跳ね出すが、今日は最初から飛距離が高い。多分、観客の何割かはあいつしか見ていない。それでいいのだ。そういうやつだ、寺嶋は。
曲が中間部に差し掛かり、快速なメロディに急激なブレーキをかけると、客席からは見えない位置にいる栗栖がキーボードの音量を上げる。激しさと静寂の交錯する一瞬。マイクを掴んで引き寄せた尾津の声は撫でるように甘い。
尾津は、サバスを歌うことに関しては天才的な才能を持っている。哀愁と皮肉に満ちた声質と殴りかかるような声量は、まさにブラックサバスを歌うための声と言っていい。しかし尾津は驚異的なレベルで応用力が無いので、サバス以外は全く歌えない。なんだかよくわかんない特性だが、基礎問題はできるのに応用問題ができないなんてよくあることだろう。いや、応用問題ってほどか――?
端麗な鍵盤の旋律に絡む、整然としたベース。深い余韻の中から降り注ぐ芽衣子のギターは雲間から差し込む月光にも似ていた。相澤はコーラスマイクの前に立ち、そっと尾津のヴォーカルに深みを添える。
ブラックサバスの真骨頂は、厳粛な美しさと生命力に満ちた野蛮さの繊細な混在だ。瞬間に全ての音が静止し、コーラスの語尾がまだ消えぬ間に、荘厳なオルガンが虚空を切り裂く。踵を返して観客席に背中を向けると、ふと芽衣子と目が合った。
それは一瞬の出来事で、きっとこの世界の誰からも見えなかったに違いない。けれど相澤は、芽衣子の紅い頬に張り付く髪に、こちらを見詰める瞳に浮かぶ光の海に、薄い唇から覗く真珠のような歯列に、噛み付きたくなるほどに焦がれた。
――この子は綺麗だ。
――たまらなく綺麗だ。星のように綺麗。
激しい衝動をぶつけるように弦を掻き鳴らせば、言葉は無くとも芽衣子が音でしがみついて来る。バンドと視線や呼吸を合わせる必要など無い。皆、心臓の鼓動を共有しているからだ。
「Die Young」はその名の通り、「若くして死ね」という詞が繰り返されるメタルらしい曲だ。しかしその精神性は死を勧めるものではない。刹那の青春に、死ぬ気で生きろと叫ぶ曲なのだ。今この瞬間に青春の全てをぶつけ、バンドの音楽は膨張していく。
沈黙と爆発を交互に繰り返すユニゾンのリフに突入した途端、観客が凄まじい盛り上がりを見せる。照明が眩しくてほとんど何も見えないが、熱狂だけは伝わってきた、微笑みで芽衣子を送り出すと、芽衣子はステージの前に駆け出して行く。脚を振り上げて1人マーチングを繰り広げている寺嶋は無視だ。激しいドラミングの最中でも悠々と髪を掻き上げる和田と目が合えば、和田はニヤリと笑った。
この曲を選んだ理由はふたつある。ひとつは、自分のバンドが得意な曲であること。もうひとつは――観客が知らなそうな曲ならば、テンポが速くてノリの良い曲をやっておけば間違いない、ということだ。
芽衣子のソロが終わると尾津の出番だ。急速な勢いを保ったままに終結部へ向かう音楽の洪水の中、相澤はふと、舞台から漏れる照明に照らされた客席の最前列に、ひとりの少年の姿を見つける。
見慣れない制服を着た、背の低い少年。けれど誰よりも背筋を伸ばして舞台を見詰める瞳には、衝撃とも歓喜ともつかない複雑な色が浮かんでいる。あれは中学生の頃の自分だと、相澤は思った。自分もこの少年のような顔で、葦原の華麗なステージを眺めていた。自分だけじゃない。尾津も、寺嶋も、和田も、きっと芽衣子だって――。
――思い出せ。思い出すんだ。
――自分たちは、重音楽部だ。
――住川第5高等学校の、重音楽部だ。
***
説明会の手伝い役として体育館の隅に立っていた加藤は、熱狂する観客のスマートフォンの画面ごしに、爆音の舞台をぼんやりと眺めていた。
「Die Young」に「Sabbra Cadabra」、その次は「Paranoid」。相澤が何を考えているのかはすぐにわかる。中学生にはわからない曲しかレパートリーが無いから、速い曲で誤魔化しているのだ。
――まあ実際は、そんなの心配しなくても良さそうだったけど。
体育館を埋め尽くす観客は、半分が中学生、半分がTwitterの動画を見てやってきたバンドTシャツどもである。中学生たちはともかく、このバンドTシャツの大群は、きっと何を演ってもこの反応だ。むしろ、彼らにとってはこのド定番なセットリストは、意外性が無くて退屈、あるいは保守的なものかもしれない。それでも、これだけ盛り上がりを作れるのは流石だ。何だかんだ、相澤たちは演奏が巧い。
薄暗い騒々しさの中で、加藤はただぼんやりしていた。加藤はロックが好きだが、後方からのんびり音を聴くのが好きなタイプだ。それに今日は、11月の頭に送った絵がコンクールに落選した通知が来たばかりで、心が落ち込んでいる。
自分は、絵が得意だが、絵を描く事がそれほど好きではない。それに学生の絵画コンクールは、主催者の意図と画題が合致したときに賞が取れるものだ。別に、その選考に漏れたところで、哀しいことではない。そう、別に。なんということでもない。
――そう思ってるのに。わかってるのに。何でこんなに。
ぐっと拳を握り締めると、気持ち悪いほどの歓声が嫌に耳につく。遠目に見える相澤が髪を振ると、この寒さなのに汗で張り付いた黒髪が乱れる。何故、相澤はあんなに必死になれるのだろう。たった3年、3年しか無いこの青春に。しかも、わざわざ困難な道を選んで。
相澤は良いミュージシャンだ。本人はあまり主張しないが、作詞作曲も、歌も上手い。だからこそ、何でブラックサバスなんだと思う。だって、あれだけ上手いのだから、流行りの音楽をチラチラ弾いているだけであっという間に人気者だろう。しかも相澤は顔が悪くない。そうなれば、シンガーソングライターとしてプロデビューだって夢じゃない。
それなのに、何故。どうしてあの4人は、ブラックサバスなんてやっているんだろう。狂気としか思えない。高校生活なんて、3年間をただ適当に乗り切れば、それで良いというものじゃないか。あの瀬戸芽衣子という転入生にしてもそうだ。あんなに高いギターを買って、ブライアン・メイをコピーして。おかしいんじゃないか。何を考えているのか、さっぱりわからない。
――でも。
握り締めた手から匂う絵の具の匂い。次第に視線は上履きの爪先へ向く。心に浮か気持ちを「嫉妬」と名付けてしまうと、永遠に立ち直れないような気がした。
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